大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪地方裁判所 昭和59年(ワ)730号 判決

《住所省略》

原告 竹村健夫

〈ほか六四三名〉

右原告ら訴訟代理人弁護士 大塚忠重

同 島武男

同 小野一郎

同 木村眞敏

《住所省略》

被告 国

右代表者法務大臣 遠藤要

《住所省略》

被告 大阪府

右代表者知事 岸昌

右両名指定代理人 松本弘

〈ほか四名〉

右被告国指定代理人 藏本正年

〈ほか八名〉

右被告大阪府訴訟代理人弁護士 道工隆三

同 井上隆晴

同 柳谷晏秀

同 青本悦男

右被告大阪府指定代理人 新池隆〈ほか三名〉

《住所省略》

被告 大阪市

右代表者市長 大島靖

右訴訟代理人弁護士 色川幸太郎

同 中山晴久

同 石井通洋

同 夏住要一郎

主文

一  被告大阪市は、

(一)  別紙原告目録一記載の各原告に対し、それぞれ金三五万円及び内金三〇万円に対する昭和五七年八月三日から支払済みまで年五分の割合による金員を、

(二)  別紙原告目録二記載の各原告に対し、それぞれ金一二万円及び内金一〇万円に対する前同日から支払済みまで前同割合による金員を、

(三)  別紙原告目録三記載の各原告に対し、別紙請求認容額一覧表欄記載の各金員及び内同表欄記載の各金員に対する前同日から支払済みまで前同割合による金員を、

それぞれ支払え。

二  原告らの被告大阪市に対するその余の請求をいずれも棄却する。

三  原告らの被告国、同大阪府に対する請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用中、原告らと被告大阪市との間に生じた分はこれを二分し、その一を原告らの、その余を被告大阪市の負担とし、原告らと被告国、同大阪府との間に生じた分はこれを原告らの負担とする。

五  この判決は第一項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一章当事者の求めた裁判

第一請求の趣旨

一  被告らは各自、

1 別紙原告目録一記載の各原告に対し、それぞれ金一一〇万円及び内金一〇〇万円に対する昭和五七年八月三日から支払済みまで年五分の割合による金員を、

2 別紙原告目録二記載の各原告に対し、それぞれ金三三万円及び内金三〇万円に対する前同日から支払済みまで前同割合による金員を、

3 別紙原告目録三記載の各原告(但し、原告河田精密工業所こと河田守を除く。)に対し、別紙請求目録(ア)欄記載の各金員及び内同目録(イ)欄記載の各金員に対する前同日から支払済みまで前同割合による金員を、

4 原告河田精密工業所こと河田守に対し、別紙請求目録(ア)欄記載の金員、及び内同目録(エ)欄記載の金員に対する前同日から、内同目録(オ)欄記載の金員に対する昭和六二年九月二九日から支払済みまで前同割合による金員を、

それぞれ支払え。

二  訴訟費用は被告らの負担とする。

三  仮執行宣言。

第二請求の趣旨に対する答弁

一  被告国の答弁

1 主文第三、第四項と同旨。

2 仮執行免脱宣言。

二  被告大阪府の答弁

主文第三、第四項と同旨。

三  被告大阪市の答弁

1 原告らの被告大阪市に対する請求をいずれも棄却する。

2 訴訟費用は、原告らと被告大阪市との間では原告らの負担とする。

第二章当事者の主張

第一請求原因

一  当事者

1 原告

原告らはいずれも昭和五七年八月三日当時、大阪市東住吉区杭全二丁目ないし八丁目、今林一丁目ないし四丁目、今川一丁目ないし七丁目など(これらの地区は、杭全四丁目一〇番所在の区立育和小学校の学区内であることから育和地区と呼ばれている。)において居住し、ないしは事務所、倉庫、工場等を保有して営業活動を行ってきた者であり、同月二日午後一一時頃から同月三日午前一一時頃まで降り続いた雨(以下、八月豪雨という。)により後述のとおりの浸水被害(以下、本件水害という。)を受けた者である。

2 被告

(一) 被告国は、寝屋川水系の一級河川である平野川、平野川分水路、今川、駒川、恩智川、楠根川、第二寝屋川、寝屋川及びその他の各河川を管理している。これらの河川は公共の用に供される公物に属し、被告国は河川法九条一項によりその行政機関たる建設大臣に右諸河川を管理させ、同大臣は同法九条二項、昭和四六年建設省告示第三九六号により、いわゆる機関委任事務として大阪府知事にその管理の一部を行わせている。

(1) 河川管理者は、その職務として、河川について、洪水、高潮等による災害発生の防止、河川の適正利用及び流水の正常な機能の維持を図るための総合的な管理を行うものであり、具体的には、河川工事、河川の維持、河川管理施設の操作等の事実行為及び河川に影響を及ぼす行為の規制等の行政処分等を行っている。

(2) 大阪府知事は、右職務権限に基づき、昭和四九年九月六日被告大阪市に対して河川敷の占有許可を与えるに際し、下水等を河川に排水する機能を有する抽水所の操業に関して次の条件を付した。

① 降雨時の放流については、当面の間その都度河川管理者と協議し、その指示に従うこと、

② 降雨時における河川管理者の指示もしくは連結が円満かつ徹底されるようその態勢を確立すること、

(3) そして河川管理者である大阪府知事は、昭和五一年七月一日、抽水所の操業に関して、放流先河川の「危険水位」を設定し、大阪市平野区平野北一丁目一番一五号所在の平野市町抽水所(以下、市町抽水所という。)の排水ポンプを運転操業するに当たっても、放流先河川の水位が右危険水位を超えないようにせよ、との具体的指示を行った。

(二) 被告大阪府は、地方自治法二〇四条一項により、右職務の執行にあたる大阪府知事及びその補助機関(以下、河川管理者という。)に対して給料、諸手当等を支給し、かつ河川法六〇条二項により右寝屋川水系各河川の管理費用を負担している。

(三) 被告大阪市は、地方自治法二条二項、三項三号、下水道法三条一項により、公共下水道として、大阪市下水道の設置、改築、修繕その他の維持管理を行っている。

二  八月豪雨と本件水害の発生

1 八月豪雨

昭和五七年八月一日から三日にかけて、台風一〇号及び低気圧の影響により大阪府下全域に強い雨が降ったが、寝屋川水系におけるその降雨経過は、大阪府水防本部によれば別表1―(1)記載のとおりであり、中竹渕観測所の観測した最大時間降雨量は毎時三九・五ミリメートル(八月三日午前八時ないし九時)である。

2 市町抽水所の調整運転

同月三日午前五時頃から午後五時頃までの間、平野川分水路の水位が警戒水位(水防法に基づく水防警報発令の基準となる水位であり、巽水門においてはOP四・八〇メートル、中竹渕においてはOP七・七〇メートルである。なおOPとは、大阪港の最低干潮面を基準とした高さを示すものであり、以下、これによって河川の水位を表示する。)を超え、午前五時三〇分には危険水位(これは、被告大阪市が河川管理者である大阪府知事との協議によって確認した水位であり、巽水門においてはOP四・八〇メートルである。)を超えた。そこで被告大阪市は、平野川分水路の氾濫を防ぐため、河川管理者たる大阪府知事との協議事項に基づき、八月三日午前五時三〇分頃から同日午後三時過ぎまで、市町抽水所の排水ポンプの運転を順次停止するいわゆる調整運転をなし、午前八時から午前一一時頃まで最大限ポンプの運転を調整した。

3 浸水被害の発生

(一) 八月三日午前七時頃、マンホール、便所等の下水道開口部から雨水汚水が一斉に逆流、噴出し始め、玄関先等から浸水が始まり、間もなく床下まで浸水した。

(二) 浸水開始後水嵩が急激に増加し、一部地域においては約一時間後に床上まで浸水するに至った。

(三) 雨は同日、午前一一時頃には止んだが、水嵩は逆に増え続け、右床上浸水地域においては、同日午後四時頃まで床上浸水の状態が続いた。午後四時頃からようやく水が引き始めたが、退水速度は緩慢であった。

(四) 以上のとおり、概ね六時間ないし九時間にわたり、

(1) 原告目録一記載の原告ら(以下、同目録一記載の原告らだけを指すときは、原告一という。)は、最高床上七〇センチメートルに達する浸水被害を、

(2) 同目録二記載の原告ら(以下、同目録二記載の原告らだけを指すときは、原告二という。)は、床下浸水被害を、

(3) 同目録三記載の原告ら(以下、同目録三記載の原告らだけを指すときは、原告三という。)は、別紙損害目録記載のとおりの被害を、

それぞれ蒙った。

三  被告国、同大阪府の責任

本件水害は市町ポンプ場のポンプ運転を調整したことが直接の原因となって発生したが、根本的には寝屋川水系の管理に重大な瑕疵(特に平野川、平野川分水路の流下能力の不足)があるために発生したものである。このことは、昭和五〇年大阪府土木部都市河川課作成(同五一年二月建設大臣認可)の寝屋川改修全体計画(以下、府計画という。)を中心として、以下に検討するところから、明らかである。

1 寝屋川流域の概況

東部大阪の治水を担う寝屋川は、淀川水系に属する一級河川であり、その流域面積は約二七〇キロ平方メートル(東西一四キロメートル、南北一九キロメートル)である。その流域は、東側を生駒山脈によって、西側を大阪城から延びる上町台地によって、それぞれ区切られており、北側と南側はそれぞれ淀川、大和川で分水されている。寝屋川、第二寝屋川、恩智川、平野川等の諸河川によって集められた流域の水は、この流域唯一の出口である通称京橋口を経て、旧淀川(大川)を通り、大阪湾に注いでいる。

大阪の都心と隣接する寝屋川流域は、近年の産業経済の発展とともに、急激に市街化が進み、昭和三〇年と比較すると、人口は三倍以上に増加し、農地面積は三分の一以下に減少している。この急激な都市化は、遊水効果の減少、流出量の増大、地盤沈下、水質の悪化を招いており、寝屋川水系は都市河川の典型として様々な問題をかかえるようになった。

2 府計画の概要

(一) 寝屋川水系の流域面積は二万六九七〇・六八ヘクタールであり、その内訳は次のとおりである。

(1) 内水区域

排水等を自然流下によって河川へ流出することができず、ポンプ等により強制排出しなければならない区域である内水区域は、寝屋川水系の流域面積全体の約七五パーセントに当たる一万九九八二・一六ヘクタールを占め、次の三つの流域構成を持つ。

① 大阪市下水区域 七一一〇・九五ヘクタール

② 西三荘集水区域 八〇八・八〇ヘクタール

③ 流域下水道区域 一万二〇六二・四一ヘクタール

合計 一万九九八二・一六ヘクタール

(2) 外水区域

排水等を自然流下によって河川へ流出できる区域である外水区域は、六七七八・九〇ヘクタールである。

(3) 間接流域

右(1)(2)のほかに間接流域として次の二つの集水区がある。

① 城北集水区 一七二・〇二ヘクタール

② 大阪城 三七・六〇ヘクタール

そして、本件育和地区周辺の一級河川の流域はすべて内水区域に属するものであり、その流域面積は次のとおりである。

(1) 平野川上流部 一四五八・七ヘクタール

(2) 平野川分水路 一一二五・九ヘクタール

(3) 平野川下流部 三一四〇・一ヘクタール

右流域構成とその河道網は別図15のとおりである。

(二) 寝屋川水系の計画諸元

(1) 計画対象降雨

昭和三二年六月二六日から同月二七日にかけて八尾市内において観測された既応最大の実績降雨が寝屋川水系流域全体に一様に降ったと想定した降雨が計画対象降雨とされているが、それは別表2のとおりである。

(2) 基本高水流量

基本高水流量とは、計画対象降雨下での寝屋川水系への流出量を指す。ただし、寝屋川流域を構成する個々の集水区からの流出水は、外水区域ではそのまま本川へ流出するが、内水区域ではポンプで排水できる容量しか本川へ流出させることができない。そこで府計画では次の手順で基本高水流量を算出している。

① 外水区域、内水区域とも、計画対象降雨の下における、各時間の降雨強度に対する流出量を別紙1(1)の合理式によって計算する。

そして右流出量を各時間毎に合成したうえ、内水区域においてはピーク流出量を条件として、すなわちポンプで排出できる容量を最大限度として、本川への流出量を計算する。

② 右算定結果に基づき、さらに本川の流量が上流から下流に向って順次どのように変化していくかを貯留関数法(PULS法)を用いて把握し(洪水追跡)、河道の各地点における基本高水を得る。すなわち、計画対象降雨のもとでの河川の流量の変化を、時間の経過に従って計算上想定したものが基本高水である。

そしてこの基本高水のピーク流量が基本高水流量であり、京橋口において毎秒一六五〇立方メートルであるほか、寝屋川水系における基本高水流量配分は別図1のとおりである。

(3) 計画高水流量

計面高水流量とは河川の計画流下可能量を指すが、寝屋川水系においては下流の大川(京橋口)への計画流下(放流)可能量であり、府計画では現河川を最大限に改修すること(以下、河道改修方式という。)、すなわち、① 河床をできるだけ掘下げ、② 現河川幅で通水断面の最も大きい矩形断面で改修し、③ 水位も都市機能に致命的影響を与えない程度に抑えること、を前提に、毎秒八五〇立方メートルになると計算している。そしてこれに基づく計画高水流量配分は別図2記載のとおりであるが、市町抽水所の放流先の計画高水流量は、平野川で毎秒六〇立方メートル、同分水路で毎秒五〇立方メートルとされている。

(三) 府の洪水処理計画

基本高水流量毎秒一六五〇立方メートルと計画高水流量毎秒八五〇立方メートルとの差、毎秒八〇〇立方メートルについては本川に放流できず、これを放置すれば洪水になるとして、被告大阪府は、次のとおり洪水処理計画を定めた。

(1) 城北運河の利用 毎秒二〇〇立方メートル

(2) 寝屋川導水路の利用 毎秒二六〇立方メートル

(3) 治水緑地による調整 毎秒三五〇立方メートル

計 毎秒八一〇立方メートル

右計画決定に際し、被告大阪府及び同国が河道改修方式のみによらなかった理由は、概略次のとおりである。

河道改修方式は、河道の拡幅、堤防の嵩上げ、河床掘下げにより河道自体の通水断面を増大させる方法であるが、① 拡幅方式の場合には、敷地の確保のため市街地のビル、工場、橋梁その他諸施設の撤去、移設、改修等が必要であり、既成市街地に与える影響、費用、時間等の点で無理であり、② 嵩上げ方式の場合には、寝屋川流域が低地で河床勾配が緩やかなため、計画水位が地盤よりも非常に高くなり、これに合わせて護岸を嵩上げすると、右拡幅方式の場合と類似の問題を生じるほか、高い護岸の潜在的危険性、内水区域の増大等の問題が存在し、③ 掘込方式の場合には、寝屋川のような感潮河川では、掘下げによる効果に限度があり、流下量の増大はあまり期待できない。

以上を検討した結果、前記のとおり河道改修方式によって河川流下可能量を毎秒八五〇立方メートルに増加させ、さらに治水緑地等によって毎秒八〇〇立方メートルを処理するというのが、府計画の内容である。

3 府計画の瑕疵

(一) 寝屋川水系の内水区域内における、基本高水算出についての基本的な考え方の誤り

河川がわれわれの社会・経済生活上において果している機能についてみると、一方で、灌漑用水、飲料水、工業用水等の供給源であると同時に、雨水、生活廃水、工場廃水等の排水路でもあり、他方、洪水時には氾濫して大きな災害をもたらすなど、社会・経済生活関係に極めて密接かつ重要な関係を有している。

しかるところ、このような河川の管理に関し、河川法は、その一条において、河川管理とは、洪水、高潮等による災害発生の防止、河川の適正な利用及び流水の正常な機能の維持を図るため、総合的な管理を行うことであることを明らかにし、その一六条においては、河川管理の一態様としての河川工事に関し、工事実施基本計画を定むべきこと、また右計画を定めるにあたり、降雨量、地形、地質その他の事情により、しばしば洪水による災害が発生している水害常襲地域に対する治水対策について特に配慮すべきことを、明らかにしている。

そして、右基本計画作成の準則として、同法施行令一〇条は、洪水、高潮等による災害の発生防止または軽減に関する事項については、過去の主要な洪水、高潮等及びこれらによる災害の発生状況並びに災害の発生を防止すべき地域の気象、地形、地質、開発の状況等を総合的に考慮すること、また河川工事の実施の基本となるべき計画に関しては、基本高水並びにその河道及び洪水調節ダムへの配分、主要な地点における計画高水流量、主要な地点における流水の正常な機能を維持するために必要な流量を定めるべきことを規定している。

すなわち、元来河川には、一定流域における自然水等を河道に集中させ、流水を溢水させることなく安全に流下させ、それによって洪水等による災害の発生を防止することが要求されるのであって、このことは前記河川法及び河川法施行令の諸規定に照らしても明らかである。そして、寝屋川水系の安全を確保するためには、内水区域内の雨水流出量を正確に算出するとともに、その算出結果に基づいて洪水処理計画を立てなければならない。しかるに府計画は、次のとおり右河川法上の基本的要求を無視したものである。

(1) 府計画は、基本高水流量の決定に際し、流域下水道区域と大阪市の下水道区域が別々の下水ポンプ容量算定法を採用しているにもかかわらず、これを区別することなく下水ポンプ能力でピークカットされた流出量をそのまま内水区域からの流出量として用いている。すなわち、流域下水道区域は別紙1の(1)の合理式で計算し、用途地域別流出率およびピーク到達時間内の五年確率降雨の降雨強度を用いて下水ポンプ容量を算定しているが、他方大阪市の下水道区域は別紙1の(2)のブリックス式(実験式)で計算し、流出係数を〇・五、降雨強度を毎時六〇ミリメートルとして下水ポンプ容量を算定している。

したがって、府計画は、内水区域の流出雨水量につき合理式を用いて正確な数値を把握しているにもかかわらず、大阪市下水道区域からの河川への流量計算においてはブリックス式に基づいて過少に算出し、その結果を用いて基本高水流量を決定し、洪水処理計画を立てていることになる。これでは大雨の際、内水区域に現実に発生する流出雨水を処理することは到底不可能といわざるをえない。

(2) 河川流域の治水計画が基本高水の想定のもとでのピーク流量(計画高水流量)に基づいて決定されるのであれば、計画対象降雨のもとで内水区域において浸水することが起こりえないだけの排水ポンプ容量に基づいて、基本高水流量を算出すべきである。しかるに、府計画では、「内水区域内については、(河川への)流入時ピーク流入量を下水の計画に合わせてカット」することを前提に基本高水流量を算定しており、換言すれば内水区域内からの流出雨水については、下水ポンプで排水できる容量しか河道へ排水することを認めていない。これは内水区域の流出雨水を河道に集中させることを放棄した考え方であって、河川管理者としてあるべき基本的姿勢を欠くものである。

(二) 寝屋川水系の計画高水流量の決定にあたっての誤り

計画高水流量とは、河川工学上、一般に、洪水の場合にどれだけの流量に対して安全な設計をするかという、河川改修の際の目標となる流量をいうものとされているが、本件の場合、被告大阪府の洪水処理計画においては、内水区域の流出雨水をポンプ容量で「カット」することを前提に、寝屋川水系の基本高水流量を京橋口地点において毎秒一六五〇立方メートルと算定し、これに基づいて計画高水流量を同地点において毎秒八五〇立方メートルと定めている。しかし、これら流量算定の基礎にある考え方には、以下の誤りがある。

(1) 内水区域の流出雨水をポンプ容量でカットする以上、河川管理者としては、それによる余剰流出雨水を、遊水池や治水緑地等によってできるだけ吸収するような対策を講じなければならない。しかるに、府計画ではこれを内水区域にそのまま滞留させることを前提として、基本高水流量を算定している。府計画上掲げられている治水緑地等の計画は、洪水時には外水区域からの流入雨水相当量を処理しうるにすぎないものである。

(2) 寝屋川出口の「京橋口」地点での計画高水流量毎秒八五〇立方メートルは、同地点において毎秒八五〇立方メートル以上放流することができないことを不動の前提としたものである。すなわち、もし毎秒八五〇立方メートル以上放流すれば、下流の堂島川及び土佐堀川が氾濫し、大阪の都心部にある地下鉄その他大阪の中枢部に致命的な影響を与えるので、計画高水流量は毎秒八五〇立方メートルにしなければならないというのが府計画の考え方であり、この考え方に基づいて寝屋川水系の計画高水流量配分を策定したのである。したがって府計画は、寝屋川水系の「現実の」基本高水を溢水氾濫させることなく安全に海まで流下させることを目的として検討されたものでなく、洪水時には内水区域内の上流地域を見殺しにしようとするものにほかならない。

(三) 内水区域の洪水対策の瑕疵

(1) 前記3(一)(1)で述べたとおり、府計画上洪水処理の対象となっている基本高水流量は、大阪市下水道区域についてはブリックス式によって過少に算出された流出雨水量を前提としている。これは内水区域からの流出雨水量として排水ポンプによってピークカットされた流量をそのまま採用したためであるが、このことは寝屋川水系の河川管理者が河川の溢水による洪水の処理のみを念頭に置き、内水区域の余剰雨水による溢水をまったく考慮していないこと、ないしはその対策を放棄したことを意味する。つまり被告大阪府の洪水処理計画は、内水区域における河川計画の基本決定を、当初から、その流域の下水道を担当する下水道管理者に任せてしまい、その責任を放棄するという間違いを犯しているのである。

(2) かりに内水区域における流出雨水量がブリックス式による計算結果どおりか、それに近いものであるとしても、府の洪水処理計画は、内水区域の流出雨水を処理しうる内容のものではない。

なぜなら、基本高水流量と計画高水流量のいずれにおいても、内水区域から寝屋川水系河川への流入量はまったく同一であり、被告大阪府の洪水処理計画が治水緑地等によって調整しようとする毎秒八一〇立方メートルは、外水区域からの流入雨水のみを処理するものであって、内水区域からの流入雨水を処理するものではないのである。

たとえば第一寝屋川上流をみると、大平ポンプ場の下流の讃良川、清滝川、権現川、谷田川、鍋田川は、いずれも外水区域に属する河川であり、その基本高水流量は合計約毎秒二一九立方メートルである。このうち、讃良川、清滝川、権現川の基本高水流量合計毎秒一五二・五立方メートルは、深野の遊水緑地でその大部分(毎秒一二五・三立方メートル)が吸収され、残りは、谷田川、鍋田川の基本高水流量合計約毎秒六六・六立方メートルと合わせ、城北運河で全部カットされるが、内水区域からの流出雨水はこれら深野治水緑地等ではほとんど処理されない。

このように内水区域の流出雨水は、治水緑地等によって調整されうるものではなく、あくまでも現河道の流下能力によって処理されるのである。

(3) ところが、内水区域の雨水の放流先河川は、現実には府計画どおりの流下能力毎秒八五〇立方メートルを備えていない。なぜなら、右流下能力は現河道の改修の完了を前提にしたものだからである。

この場合、現河道が寝屋川流域内水区域内におけるどの程度の降雨に耐えられるかを正確に計算するには、各集水区毎に時間と流量の関係を図化したハイドログラフを作成して雨水流出量を算出し、さらに現河道の流下能力の実際値を前提としなければならない。この正確な計算は困難であるが、現河道の流下能力は、昭和二五年から調査検討が進められ、昭和二八年度に建設大臣の認可を得た寝屋川水系全体計画(以下、これを旧計画という。)における京橋口地点での計画高水流量毎秒五三六立方メートルと本件府計画の毎秒八五〇立方メートルの間の数値であると推測されることから、寝屋川流域の内水区域を一つの集水区として概算すれば、別紙2のとおり限界降雨量は毎時一二・〇七ないし三〇・六三ミリメートルと算出される。

この限界降雨量を超える降雨があった場合、河川管理者は、河川への排出量をポンプ容量さらにはポンプの調整運転でカットすることにより河川への流出量を調節し、堤防からの越流による洪水を防ぐ。すなわち、この場合余剰雨水は、内水区域内に滞留することになるのであり、抽水所は本来の目的が集水区域内の雨水を排水することにあるにもかかわらず、逆に集水区域内に雨水を貯留する機能を果すのである。

(4) 河道の現状における内水区域の限界降雨量

前記(3)の計算は、被告大阪府の洪水処理計画が実行され、基本高水流量と計画高水流量との差である毎秒八〇〇立方メートルが完全に処理された場合を前提としたものである。

しかしながら、現状ではこの前提を欠き、外水区域の雨水も完全には処理されず、それだけ多量に河道を流れることになるから、内水区域からの流出量も、その分が制限され、限界降雨量はいっそう低くなる。寝屋川水系全体の限界降雨量を合理式で計算すると別紙3のとおり毎時八・九四ないし二二・六九ミリメートルとなる。

かくして、府計画は内水区域については、毎時約九ないし三〇ミリメートルの降雨にしか耐ええないものであり、これを超える雨水は内水区域に滞留させるという、極めて不十分なものである。

(5) ところで、旧計画の計画対象降雨は、九時間の総雨量が一七五ミリメートル、時間雨量の最大が六一・八ミリメートルであったのに対し、八月豪雨は、前記二1のとおり、最大累計降雨量が中竹渕観測所における一一時間一五〇・五ミリメートル、最大時間降雨量は三九・五ミリメートルであった。旧計画上の計画対象降雨も府計画と同様、右雨量が寝屋川水系全域に降ったと想定されているのであるから、八月豪雨の降雨量は、旧計画の計画対象降雨よりもはるかに少ない。

また、旧計画における平野川分水路の開削工事は、既に昭和三八年に完成していた。

それにもかかわらず、市町抽水所の排水ポンプを調整運転しなければならないほどに平野川分水路の巽水門の水位が昭和五七年八月三日の午前五時頃から午後五時頃までの長時間にわたり危険水位に達したままであったのであり、この事実から、平野川分水路の設置管理に瑕疵があったことは明白といわざるをえない。

(四) 市町抽水所集水区域の計画高水流量

府計画は、寝屋川水系計画高水流量配分において、市町抽水所の排出量を毎秒六〇立方メートルとしている。これは、寝屋川水系の計画高水流量を京橋口地点において毎秒八五〇立方メートルと決めたため、内水区域の雨水流出量もこれに合わせて各抽水所でカットして制限せざるをえなくなり、その基準量を、寝屋川水系計画高水流量配分図(別図2)のとおり、各抽水所に割り当てたものである。その結果、市町抽水所の排水許容量が、同抽水所が管掌する内水区域からの雨水流出量に比して極めて不適切なものになるという、市町抽水所の設置上の瑕疵が惹起され、本件水害発生の原因となった。

(五) 以上にみたとおり、平野川・同分水路については、正しい数値に基づく適切、有効な洪水処理対策を怠り、中程度の降雨量にもかかわらずポンプの調整運転を行わなければ安全性を保ちえないような流量のままで両河川の現状を放置したという瑕疵が、明らかに存在したものといえる。

また、河川管理者としては、河川改修が完了して原告ら住民に本件のような浸水被害が発生しなくなる見通しが立ってから、被告大阪市の下水道計画を認可すべきであり、このような見通しも立っていない段階で被告大阪市の下水道計画を認可したこと自体において、被告大阪府及び同国に河川設置管理の瑕疵があるものである。

4 ポンプの調整運転の指示

前記3(三)(3)のとおり、市町抽水所の放流先河川は未改修であり、現実の排出許容量は毎秒六〇立方メートル以下であるため、同抽水所はそれでなくとも小さなポンプの排出能力をさらに押えて運転することとなった。すなわち昭和五七年八月二日から八月三日にかけての間、大阪府河川担当職員は市町抽水所担当の大阪市職員に対して調整運転を指示した。

この指示の結果、市町抽水所の調整運転が実施され、調整運転実施の直後に、これが直接の原因となって本件水害が発生した。しかも右調整運転の状況は、ポンプの全面停止を含む極端なものであって、他の抽水所の調整運転の状況に比べて著しく均衡を失するものであった。低地盤地域が浸水しなかったにもかかわらず比較的地盤の高い育和地区に浸水が集中するという特異な現象は、こうして人為的に作り出されたのである。

5 結論

(一) 被告国の責任

(1) 被告国は、河川管理者として、その流域における雨水等を集めてこれを安全に流下させ、洪水による災害の発生を防止すべき義務を負うものである。しかるに、その管理者である大阪府知事が策定し建設大臣が認可した府計画には、前述のとおりの重大な欠陥があり、これに基づいて実施されていた本件河川(特に平野川、同分水路)の設置管理には重大な瑕疵があった。そして本件水害は本件河川の設置管理の瑕疵によって発生したものであるから、被告国は国家賠償法(以下、国賠法という。)二条一項に基づく損害賠償義務を負う。

(2) 次に、本件水害は、河川管理者が「危険水位」を基準にして市町抽水所のポンプの調整運転を指示したことが直接の原因となって発生した。そして「危険水位」は河川管理者が河川管理上設定したものであるから、河川管理者はこれに基づいて実施される排水ポンプの調整運転とその結果につき、過去の浸水データ等から十分に把握しており、また少なくとも把握しておくべき義務があった。

つまり河川管理者は、本件調整運転による浸水被害の結果を予見し、または予見しえたのであり、これを回避すべき義務があったにもかかわらずこれを怠り、本件水害を発生させたものである。したがって被告国は、河川管理者の行った右不法行為について同法一条一項に基づく損害賠償義務を負う。

(二) 被告大阪府の責任

(1) 被告大阪府は河川管理者に対して給料、諸手当等を給付するものであるから、河川管理者の行った前記(一)(2)の不法行為につき、同法一条一項、三条一項による損害賠償義務を負う。

(2) また被告大阪府は本件河川の管理費用を負担しているものであるから、本件河川の前記(一)(1)の設置・管理上の瑕疵について、同法二条一項、三条一項に基づく損害賠償義務を負う。

四  被告大阪市の責任

1 大阪市下水道の現況

(一) 下水道の各施設

下水道は、管渠、抽水所、処理場の各施設から成っている。管渠は、網の目のように地中に埋設され、ここに各家庭や工場から排出された汚水と雨水を集水桝や雨水桝を通して流し込み、緩やかな傾斜によって最末端の下水処理場に集める役割を果している。その途中には多数のマンホールが設けられており、下水道の維持管理の用に供されている。抽水所の主な機能は、雨水については、下水道区域に降った雨を管渠を通じて一か所に集め、ここから排水ポンプにより河川等に排出して内水区域の浸水を防止することであるが、その他汚水については、自然流下のみでは流れにくいため、ポンプで揚水し、順次下水処理場へ送水する機能もある。

(二) 大阪市の下水道の役割

下水道は一般に、周辺環境の改善、便所の水洗化、水質の保全等の役割を持つ。しかし大阪市の地形は、上町台地を除くと、ほとんどの地域が海水面または河川洪水面以下の低地である。そのため、大阪市下水道においては、雨水をポンプで排水し、浸水を防止することが、もう一つの重要な役割となっている。

2 大阪市下水道の設置上の瑕疵

(一) 府計画において寝屋川水系各河川の計画高水流量は、同水系の最終出口である第一寝屋川「京橋口」の流量毎秒八五〇立方メートルを大前提として配分されており、流出量がそれを超える場合は、内水区域では下水ポンプ能力でピークカットし、本川への下水ポンプ容量を超える放流はこれをしないことが絶対条件となっている。つまり、寝屋川水系における内水区域内の流出雨水は、同水系各河川の計画高水流量を超えて放流することができない。

したがって、被告大阪市としては、右事実を知悉している以上、計画高水流量を超える流量が下水管渠下流の一部地域に集中して溢水することのないように十分に配慮して下水道施設を整備する義務があるにもかかわらず、漫然と水洗化の普及、下水道の普及、ポンプ施設の増強を促進し、そのため、寝屋川水系の各河川の限界降雨量を超える雨量の降雨があった場合に雨水を完全には河川へ放流することができない、いわば出口のない下水道設備を設置した結果となった。

(二) ところで下水道整備計画を実施するにあたっては、計画策定時の河川の流量を前提としないまでも、下水道が現実に整備されて使用に供されるようになった時点においては、放流先河川の流量と下水道施設の計画雨水流出量とが整合していることが絶対に必要である。

すなわち放流先河川の改修計画が完了するまでの間に、両者の間に不整合が生じ、放流先河川の流量を超過する量の雨水流出があるときには、河川の氾濫防止の名目のもとに排水ポンプの調整運転を余儀なくされるのである。このような場合には、かりに計画雨水流出量の算定が合理的になされていたとしても、現実にそれだけの量を放流することは不可能である。それにもかかわらず、放流先河川の計画高水流量を前提として、下水道施設を設置することは、やはり出口のない下水道を設置することにほかならず、それによって本件水害のように一部住民に被害を与えた場合には、被告大阪市は、当然その賠償責任を負担すべきものである。

3 市町抽水所の設置上の瑕疵

(一) 市町抽水所のポンプ容量設定上の誤り

(1) 市町抽水所は、東住吉区のほぼ全域と平野区、住吉区の一部にまたがる面積二二・八四三平方キロメートルの区域を集水区域とし、内水区域の抽水所の中で最大かつ際立って大きな集水面積を持っている。その集水区域は、用途地域区分上、大半が商業地域(南部の比較的地盤の高い広大な地域)であり、一部に工業地、住居地(北部、西部の比較的地盤の低い地域)が存する。また、その集水区域からの計画流出量は、合理式によって計算すると、流出係数〇・八のときに最高毎秒三一九・三立方メートル、流出係数〇・五のときに最高毎秒一九九・六立方メートルにもなる。

(2) ところが、市町抽水所のポンプ容量はわずか毎秒六〇立方メートルにすぎず、一平方キロメートル当たりのポンプ排出量(比流量)は二・六三で、内水区域のポンプ場のうち最も低い数値である。被告大阪市は、同ポンプ場のポンプ容量につき、流出係数を〇・五とし、ブリックス式で計算した計画雨水流出量に基づいて設定したとしている。しかし、① 過去幾多の浸水例が、ブリックス式の実情に合わないことを示していること、②流出係数を同じく〇・五としても、合理式で計算すると、別紙4のとおり計画雨水流出量は毎秒約一二二ないし一八四立方メートルとなり、ブリックス式による算出結果毎秒六〇立方メートルとの格差があまりにも大きいこと、以上のことを合わせ考えると、ブリックス式を用いることは明らかに危険であり、誤りである。

(3) また被告大阪府や諸都市が流出係数決定の際に採用している方法は、①まず工種別流出係数を決める、すなわち、道路(舗装と未舗装に分ける。)、建物、空地に分け、それぞれの流出係数を決める②次に各用途地域別流出係数を決める、すなわち、各用途地域内の道路、建物、空地の比率を調査し、その結果と工種別流出係数とを用いて流出係数を求める、というものである。

しかし被告大阪市は、流出係数の算出にあたって右のような合理的な算定方式を採用せず、単に従来から使用されており実績があるという理由のみで、流出係数〇・五を採用したものである。

(二) さらに市町抽水所の設置には、次のような重大な瑕疵がある。

(1) 第一に、同抽水所の排水容量毎秒六〇立方メートルで処理しうる降雨量(限界降雨量)を合理式で計算すると、別紙5のとおりわずか毎時一八・九一ミリメートルにすぎず、これを超える降雨量のときには、集水区域内の過剰雨水はほとんど同区域内に滞留することになる。

(2) 第二に、右過剰雨水は市町抽水所集水区域内に一様に滞留するのではなく、必ず同抽水所周辺の低地(育和地区)に集中し、付近のマンホールなどから下水が逆流、噴出する。すなわち、下水道施設が設置されると、従来何度も浸水していた地域を含めた広い地域の雨水や汚水が下水処理場や抽水所の一か所に集められて、そこで処理され、あるいは未処理のまま河川に排水されることになる。その結果、下水処理場や抽水所から遠い地域において、従来なら浸水したであろう降雨強度ないし降雨量があった場合でも、下水道施設が整備されたことによって浸水しないことになる反面、従来は浸水しなかった下水処理場や抽水所に近い地域が、下水処理施設の整備によって雨水汚水が下水処理場や抽水所に集中するため、単にそれらの施設に近いというだけで浸水被害を受けたり、あるいは浸水被害の程度が大きくなったりする。このことは、前記3(二)(1)の計算によれば八月豪雨の最大時間降雨量(毎時三九・五ミリメートル)は市町抽水所集水区域全体に浸水を生じさせるに足る雨量であったから、同抽水所集水区域内の上流地域である南部商業地域にも当然被害が出たはずであるにもかかわらず、市町抽水所の集水区域の中でことに育和地区に浸水被害が集中したことからも、明らかである。

(3) 第三に、市町抽水所は、現実には毎秒六〇立方メートルすら排出することができず、調整運転を行わざるをえない。すなわち、右排水容量は放流先の現河道の最大限の改修を前提としているが、河道の改修は未だ完了していないからである。したがって、前記(2)の噴出下水量は、実際には調整運転によってさらに多くなる。

4 市町抽水所の管理上の瑕疵

(一) 市町抽水所は、上述のような欠陥があるため、昭和五七年八月以前にも昭和五〇年に二回、同五四年に四回、中程度の雨が降るたびに周辺地区に浸水を惹起した。

したがって、被告大阪市は、過去の浸水データから今回の調整運転による浸水被害の結果を十分に予測し又は予測しえたのであるから、これを回避すべき義務を負っていたにもかかわらず、あえて調整運転を実施した。

(二) かりに調整運転が止むをえないものであったとしても、被告大阪市は、少なくとも事前に住民に対して調整運転によって生じる浸水の危険を通報し、危険回避の対応策を講じうる余裕を与えるべきであったのに、これを怠った。

5 結論

よって、被告大阪市は、国賠法一条、二条一項に基づき、原告らの蒙った各損害を賠償すべき責任がある。

五  損害

1 被害の状況(1)

被害の状況を床上浸水被害者である原告一についてみると、概ね次のとおりである。

(一) 浸水中の生活破壊

今回の浸水は早朝の出来事であり、かつ極めて短時間のうちに床上に達した。そのため原告らは老人や一人暮しの弱者達はもちろん、その他の一般家庭でも十分な避難準備ができないうちに浸水被害に遭い、多くは畳、家具などの財産を、安全な場所に移す暇もないままに浸水によって汚損された。

床上浸水の被害を蒙った原告の多くは、朝食の準備もできないままに浸水と闘わざるをえず、昼食、夕食も満足に摂れなかった。また今回の浸水では各家庭の便所から汚水が逆流・噴出したため、浸水開始後は用便の不自由に悩まされ続けた。

(二) 復旧作業と退水後の労苦

原告らは生活の場を破壊されたため、当面これを最優先で復旧しなければならなかった。その間の労苦は筆舌に尽し難いが、たとえば、次の(1)以下のとおりである。

(1) 浸水当日は、水が引くと同時に夜半までかかって、悪臭と汚泥にまみれながらバケツなどで床下の汚水などのかい出しに追われ、その後、腰痛の生じた者、入院した者もいる。

(2) 平家に住む者は、その夜は寝る場所もなく、知人、親戚宅や育和小学校、旅館、ホテルなどに外泊し、あるいは濡れたままの床の上にござを敷いて一夜を過ごすなどの不便を強いられ、それ以外の者は屋内で浸水のない場所を避難場所としたが、就寝には著しい不便を強いられた。

(3) 翌日早朝から、家具や床、柱の消毒、洗浄、掃除あるいは食糧その他の生活必需品の買出しなどに走り回る生活が数日以上も続き、その間食事や用便の不自由に悩まされた。

(4) また退水後長時間にわたりカビや消毒臭に悩まされ、湿気と闘いながら風呂にも入れない生活が続いた。

以上のような状態であった。こうして、取りあえず生活の場を回復するのに数日間を要したが、汚れや悪臭が解消し、畳等が乾燥して元通りの生活に戻るまでには、その後なお一か月ないし四か月を要した。

(三) 家屋、家財の損傷

家屋、家財は個人の愛着や生活と不可分のものであり、その毀損はこれらと一体を為して営まれる家庭生活そのものを破壊するものである。原告らは、長時間にわたる浸水により、家屋の壁や床の剥落・剥離、畳・建具の汚損等の被害を蒙り、テレビや冷蔵庫、洗濯機、カーペット、タンスなど家財の多くに損害を受けた。

加えて、原告らの住居を侵害したものは、糞尿や、家庭・工場からの排出水の混る雨水であり、どす黒い油の浮いた悪臭扮吻たる汚泥であった。これらが各家庭の台所や居間、応接間等の生活の場を容赦なく汚し、毀損したのである。したがって、浸水による汚損は、その時間や程度にかかわらず、家具や食器等の生活用品の再使用を事実上不可能もしくは著しく困難ならしめた。

また、建物はこれを改築するのが困難であり、修理、消毒、洗浄などによって済ませている者が多いが、長時間経過後にふすまや柱などの建付に歪みを生じるなど、汚水に浸されたことによる損害は、人体の後遺症にも似て測り知れないものがある。

(四) 休業損害

前述のとおり、原告らは浸水直後の二、三日間、終日復旧作業に従事したほか、その後も平常の状態に戻るまでの数か月間、連日数時間以上を被害の復旧に費した。

(五) 健康上の被害

原告ら、特に老人や体の弱い者の中には、長時間の浸水からくる冷えや過労のため、浸水後身体に異常をきたした者が少なからずおり、中には今日に至るもなお床に伏している者もいる。

(六) 精神上の苦痛

長時間の浸水による不安と恐怖、及び右(一)ないし(五)記載の各種被害のために原告らは著しい精神的苦痛を受けた。

2 被害の状況(2)

以上の被害は、原告二についても程度の差こそあれ同様にあてはまるものである。

(一) 浸水中の生活破壊

床下浸水であったため、衣食住に直接の打撃はなく、結果的に居住場所以外に避難する必要はなかったものの、避難の準備に追われ、危険に曝された。浸水前後の生活の不自由(用便、風呂の不自由等)及び復旧のための労苦(床下の汚水のかい出し、床下物件の消毒・掃除等被害の回復)は原告一と本質的に何ら変わりなく、やや軽いながらも同様の生活破壊を受けた。

(二) 家屋、家財の損傷

家財の被害は少ないが、汚泥によって汚損された家屋被害の程度は、床上浸水の場合とそれほどの差はない。

(三) 精神上の損害

以上の各種被害によって受けた精神的苦痛は、決して小さいものではなかった。

3 包括請求

以上の被害状況は原告一、原告二にほぼ共通のものであるが、その具体的詳細は各原告について多種多様であり、これを個別的に全部計上し、評価、算定することは、次のとおり不可能ないし著しく困難であり、また有益でもない。

(一) 原告らがこれら被害内容を遺漏なく主張すること自体が困難である。

(二) 現実の生活の必要上、応急措置は自分で採らざるをえないから、費用の客観的立証は容易でなく、応急措置後の減価を証明することはさらに困難である。

(三) かりに右証明が可能であるとしても、個別算定の総和が正確な損害を表わすものであるという保証はなく、かつ、かかる算定を行うことは、原告数の多い本件においては徒らに訴訟の遅延を招き、原告らの救済(裁判を受ける権利)を実質的に阻害するものである。

(四) 本件水害による損害は、生活基盤(平穏な家庭生活の利益)そのものの破壊という点にその本質があり、この意味で損害を個別項目ごとに評価、積算することは損害そのものの実態に親しまない。

以上のとおりであり、したがって、本件水害によって生活利益が侵害されたこと自体を一個の損害として包括的に把握し、これを金銭に評価すべきである。

4 一律請求

また、本件水害によって侵害された生活利益は、個人の幸福追求の権利を化体するものであって、被害の種類が同じである以上、各家庭ごとにその価値に差があるものではない。そして本件においては、生活圏の主要部分に直接の浸水被害を受けたか否か、すなわち床上浸水と床下浸水で被害の種類を分けることが事柄の本質に合致する。

そこで原告らは、原告一と原告二のそれぞれについて損害額を一律に請求することとする。

5 損害額(1)

前述の被害状況からみて、原告一及び二の蒙った損害額は、原告一については各自一五〇万円、原告二については各自五〇万円を下らないところ、取りあえず原告一は内金一〇〇万円、原告二は内金三〇万円を請求する。

6 弁護士費用

原告らは本件訴訟を本訴代理人らに委任したので、弁護士費用として原告一は各自一〇万円、原告二は各自三万円を請求する。

7 被害の状況(3)及び損害額(2)

本件水害により原告三の蒙った被害の状況及び損害額は別紙損害目録に記載のとおりである。

六  結論

以上により、被告らに対し、

1 原告一は各一一〇万円及び各内金一〇〇万円に対する本件不法行為の日である昭和五七年八月三日から支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を、

2 原告二は各三三万円及び各内金三〇万円に対する前同日から支払済まで前同割合による遅延損害金の支払を、

3 原告三(ただし、原告河田を除く。)は、別紙請求目録(ア)欄記載の各金員、及びうち同目録(イ)欄記載の各金員について前同日から支払済みまで前同割合による遅延損害金の支払を、

4 原告河田は、別紙請求目録(ア)欄記載の金員、及び、うち同目録(エ)欄記載の金員については前同日から、うち同目録(オ)欄記載の金員について昭和六二年九月二九日から支払済みまで、前同割合による遅延損害金の支払を

それぞれ求める。

第二請求原因に対する被告国の認否及び反論

一  請求原因一1のうち、いわゆる育和地区において八月豪雨による浸水のあったことは認め、その余の事実は不知。

二  同一2(一)のうち、冒頭記載の事実は認める。その余の主張は争う。

1 昭和四七年の占用許可条件

(一) 河川法によれば、河川区域内の土地を占用する場合は、同法二四条により河川管理者の許可を受けなければならないと定められている。また河川区域内に工作物を設置する場合は、同法二六条の許可を受けなければならないとされており、河川に排水する構造物を河川区域内に設置するときは、この許可を得なければならないのである。

(二) 市町抽水所の設置についても、その放流渠の吐口の築造を目的として、大阪市長から昭和四七年四月六日付大下第三二号の許可申請書が河川管理者である大阪府知事に提出された。この申請書によれば計画雨水排出量は毎秒六〇立方メートルであったが、添付されている参考資料によれば、ポンプ能力は、工事中のポンプを含めて、毎秒三二・三六立方メートルとなっていた。

この申請を受けた大阪府知事は、審査の結果、昭和四七年九月六日付大阪府指令都河第二八号をもってこれを許可したが、その際、放流先河川が改修途上であること、また人為的にポンプにより河川に放流することが下流に対して大きな影響を及ぼすことから、降雨時の放流に関して、次の二条件を付した。

(1) 降雨時の放流については、当面の間その都度河川管理者と協議してその指示に従うこと。

(2) 降雨時の放流における河川管理者の指示もしくは連絡が円滑かつ徹底されるようその体制を確立すること。

(三) 右の条件(1)を付したのは、当時、次の事実があったからである。

(1) 平野川、同分水路をはじめ、寝屋川流域の各河川が改修途上であった。

(2) 降雨時における河川の水位などの状況を把握する体制としては、河川管理者である大阪府知事によって、昭和四七年六月に寝屋川水系の各河川に設置された一二か所の水位計を寝屋川水系改修工営所で電話回線を利用して集中的に監視する体制が整えられていただけであった。

以上のような河川管理上の制約があったため、河川の安全を確認しながら放流を行うためには、その情報を有する河川管理者からその都度指示する必要があったのである。

2 昭和五一年七月一日付確認書

(一) 昭和五〇年被告大阪市より市町抽水所に毎秒一〇立方メートルの排水能力を持つポンプを増設する計画が示されたことを契機として、いかに河川の安全性を確保するかを検討するため、同年六月河川管理にあたる被告大阪府の関係者と、下水道管理にあたる被告大阪市の関係者とで調整会議を行った。

その会議において、当時(1) 平野川、同分水路には、堤防の施工高よりも低い橋梁が多数存在していて流下可能水位高を上げる障害となっており、かつ(2) 下水道管理者が、右両河川に一一か所の水位計を設置し、監視体制を整備したものであった、という状況を踏まえて、(1) 危険が予測される橋梁については安全確保のための対策をとること、及び(2) 河道の水を安全に流しうる水位を設定して、これに応じた下水ポンプの運転操作を下水道管理者が行うこと、が相互に確認された。

(二) その後、昭和五〇年七月及び八月に出水を経験し、さらに市町抽水所に毎秒一〇立方メートルの排水能力を持つポンプの増設計画が示されたことから、再度被告大阪府と被告大阪市との間において協議を重ね調整した結果、昭和五一年七月一日に次の内容を記載した確認書が取りかわされた。

すなわち、この確認書においては、平野川及び同分水路について、河川管理者が河川の安全を確保できる最大の水位を「危険水位」として設定し、下水道管理者はこれを超えないように時々刻々の抽水所の運転操作を行うこと、及び河川の水位やポンプの運転状況等を迅速かつ正確に情報交換し合うことが、確認されている。

三  同二1の事実は認める。

四  同二2のうち、被告大阪市が市町抽水所のポンプの調整運転を行ったことは認めるが、その詳細は不知。

五  同二3のうち、原告ら居住地域に浸水があったことは認め、その余の事実は不知。

六  同三冒頭記載の主張は争う。

七  同三1及び同2(一)、(二)の事実は、いずれも認める。

八  同三2(三)のうち第一段落の事実は、その趣旨が府計画が、京橋口地点において毎秒八五〇立方メートル以上放流すると氾濫状態となるため、右計画高水流量をまず前提とし、これと基本高水流量との差である毎秒八〇〇立方メートルの処理方法を策定した、というものであれば、これを否認する。

まず、寝屋川の下流となる堂島川及び土佐堀川は、高潮区域であるため、高潮対策上必要な防潮堤を設けて護岸高を確保しており、また河川幅もかつて淀川本川であったという歴史的経過があって広いものであるから、毎秒八五〇立方メートル以上流しても下流において氾濫状態となることはない。

また、府計画では、計画対象降雨をもとに流出計算を行い、基準点の旧淀川合流点(京橋口)において、まず基本高水流量毎秒一六五〇立方メートルを算出した。しかし、この洪水を河道改修だけで処理することは、原告主張のような種々の問題があり、莫大な費用その他の負担を要する反面、早期に目的を達成することができず、現実に可能な方策とはいえない。

そこで、限られた治水投資を効果的に運用して投資効果を早期に具体化し、かつ流域の治水水準を均衡のとれた状態で向上させるために、河道改修方式のほか、次の二方式を併用することにした。

(1) 放水路方式

既存の施設や水路を活用し、他水域に洪水の一部を放流することにより、下流の流量負担を軽減する。本件では寝屋川上流部(寝屋川導水路)及び下流部(城北運河及び毛馬排水機場)から、淀川へ放流する。

(2) 洪水調節方式

上流に治水緑地を設け、洪水を一時貯留して下流の流量負担を軽減する。

以上のような方式を総合的に検討した結果、河道改修により毎秒八五〇立方メートル、放水路により毎秒四五〇立方メートル、遊水池による洪水調節方式で毎秒三五〇立方メートルというように、洪水処理計画が策定されたのである。

同三2(三)のその余の事実は認める。

九  同三3(一)ないし(五)の主張は争う。右主張のうち特に反論すべき点をあげると、次のとおりである。

1 ((三)(2)について)

治水緑地や放水路は、外水区域から流入する雨水の処理だけでなく、内水区域を含めて水系全体としての洪水処理を目的とする施設であり、その効果は水系全体に及ぶ。すなわち、右施設の設置により、下流河川における流量負担が軽減され、その分、集水区からの流出量、支川からの合流量を受け入れることが可能となるからである。

2 ((三)(3)について)

原告らは、河川への排出量をポンプ容量で「カット」することにより河川への流出量を調節した旨主張するが、内水区域にあっては河川への排水はポンプによらざるをえないのであり、換言すれば、内水区域の最大可能排水量はポンプ能力によって定まることになるため、ポンプ能力による排水量を河川への流出量として採用したのである。

3 ((三)(5)について)

本件水害時の降雨が旧計画の計画対象降雨よりはるかに少ないにもかかわらず、巽水門の水位が危険水位を超えたことから、直ちに、寝屋川水系の改修が旧計画以降あまり進捗していないと結論づけることはできない。

すなわち、昭和二八年度に策定された旧計画は、寝屋川流域を田園都市と想定して立案されたものであるが、昭和三〇年代後半からの急激な都市化の進展、特に、農耕地の減少ないし宅地化の増大、下水道区域の拡大、地下水の過剰な汲み上げによる地盤沈下等によって、雨水の流出量は格段に大きくなっていた(このような流出機構の変化を若干の数値でみれば、旧計画は、流域の人口は昭和二七年当時の一六一万人が昭和四五年には二〇二万人に、市街地割合は昭和二七年当時の二五パーセントが昭和四五年には四七パーセントに、農地割合は昭和二七年当時の四二パーセントが昭和四五年には二一パーセントに、それぞれ増減するものと予測して策定されたが、本件水害の二年前の昭和五五年には、流域の人口は二八二万人、市街地割合は七一パーセント、農地割合は一四パーセントとなり、旧計画が予測した以上に市街化が進展した状況になっている。)。

大阪府知事は、このような市街化に対応するため、新計画における基本高水を、旧計画の毎秒五三六立方メートルから毎秒一六五〇立方メートルと約三倍に増やし、また、その計画に基づき順次改修を実施してきたのであって、旧計画以降改修は着実に進捗しているのである。

4 ((四)(2)について)

原告らは、府計画を前提として下水道計画が定められている旨主張するが、府計画においては、内水区域の流出量は当時既決定であった下水道計画のポンプ排水容量を前提として策定されているのであり、府計画と下水道計画との整合性は保たれている。このことは平野川流域においても同様であり、寝屋川南部流域下水道計画及び大阪市公共下水道計画に基づき、ポンプ排水容量を流入量として平野川、同分水路の改修計画が立てられたのである。

5 ((五)について)

原告らは、河川管理者が、寝屋川水系河川の改修完了の見通しが立っていないにもかかわらず、その完了を前提とした被告大阪市の下水道計画を安易に認可した旨主張するが、右下水道計画の認可は旧都市計画法により、また、その事業計画の認可は旧都市計画法及び下水道法により、適正な手続のもとに行われており、そこには何ら違法ないし不当な点はない。

河川改修は種々の制約により極めて長い時間を要するものであり、原告ら主張のように、河川改修工事の完了を待たなければ下水道計画の認可ができないとすれば、下水道事業は実施できず、原告ら居住地域の下水道も今日のようには整備されず、生活環境が改善されることもなかったであろう。原告らの主張は現実にそぐわないものである。

また、もともと、旧都市計画法、下水道法に基づいてされた下水道計画の認可は、平野川、同分水路の設置管理の瑕疵とはまったく別のものである。

一〇  同三4のうち、市町抽水所の放流先河川が未改修であること、及び大阪府河川担当職員が、昭和五七年八月三日午前五時三〇分から同日午後三時過ぎ頃までの間、市町抽水所担当の大阪市職員に対して調整運転を指示したことは否認し、調整運転の詳細は不知。その余の事実は争う。

一一  同三5のうち、被告国の責任に関する主張は争う。

一二  同五の事実は不知。

第三請求原因に対する被告大阪府の認否及び反論

一  請求原因一1「原告」のうち、原告らの居住地域(育和地区)に八月豪雨によって浸水があった事実は認め、その余の事実は不知。

二  同一2「被告」のうち、(一)の冒頭記載の事実及び(二)の事実は認める。その余の主張は争う。この点に関する反論は、被告国のそれと同旨である。

三  同二1の事実は認める。

四  同二2のうち、被告大阪市が市町抽水所のポンプの調整運転を行ったことは認めるが、その詳細は不知。

五  同二3のうち、原告ら居住地域に浸水があったことは認め、その余の事実は不知。

六  同三冒頭記載の主張は争う。

七  同三1、同2(一)ないし(三)の事実はいずれも認める。

八  同三3(一)ないし(五)の主張は争う。右主張のうち特に反論すべき点は、被告国のそれと同旨である。

九  同三4のうち、市町抽水所の放流先河川が未改修であること、及び大阪府河川担当職員が、昭和五七年八月三日午前五時三〇分から同日午後三時過ぎ頃までの間、市町抽水所担当の大阪市職員に対して調整運転を指示したことは否認し、調整運転の詳細は不知。その余の主張は争う。市町抽水所のポンプの運転は、下水道管理者である被告大阪市が前記2(二)(2)の危険水位に関する情報に基づき、どの程度放流するかを判断して行ったものである。

一〇  同三5の主張は争う。

一一  同五の事実は不知。

第四請求原因に対する被告大阪市の認否及び反論

一  請求原因一1のうち、原告永峰元、同山田幸作、同服部勝司、同宇野隆志、同萱野捷秀、同島龍一、同桝谷哲を除く原告一、二が、昭和五七年八月三日当時、育和地区(ちなみに育和小学校の学区は、杭全一丁目ないし八丁目、今林一丁目ないし四丁目、今川一丁目ないし三丁目、五丁目、六丁目、八丁目である。)に住所を有していたこと、育和地区に八月豪雨による浸水被害があったことは認めるが、原告三が育和地区内において営業活動を行っている事実は不知。なお、市町抽水所の降雨記録によれば、昭和五七年八月二日午後一〇時三〇分頃から同月三日午前一〇時頃まで降雨が続いたことが示されている。

二  同一2(三)の事実は認める。なお地方自治法上の根拠条項は、正確には同法二条二項、三項三号、四項、九項及び別表二の二五の一三である。

三  同二1の事実は認める。

四  同二2のうち、昭和五七年八月三日午前五時頃から午後五時頃までの間、巽水門の水位がOP四・八メートル(危険水位)を超えたこと、右危険水位を超えたときに市町抽水所で調整運転を行ったことは認める。しかし巽水門には警戒水位の定めはない。

五  同二3のうち、育和地区に浸水被害があったことは認めるが、原告らの個々の具体的被害は不知。

六  同三冒頭記載の事実のうち、本件水害が市町抽水所のポンプ運転を調整したことが直接の原因となって発生したとの主張は争う。

七  同四1の事実は認める。

八  同四2の事実は争う。

九  同四3(一)(1)のうち、市町抽水所の集水区域の範囲面積、及び同抽水所が内水区域の抽水所の中で最大かつ際立って大きな集水面積を持っていることは認める

しかし、用途地域に関する主張事実は否認する。市町抽水所の集水区域は、用途区分上は大半が住居地域であり、一部に商業地域と工業地域がある。

また市町抽水所集水区域の計画流出量に関する事実及び主張は争う。被告大阪市の下水道計画においては、計画雨水流出量は、合理式ではなく別紙1(2)のとおり実験式(ブリックス式)によって算定している。原告らは、異なった計算方式をとることを前提として独自の主張をしているにすぎない。

一〇  同四3(一)(2)のうち、市町抽水所の比流量が二・六三であることは認め、その余の事実は争う。

一一  同四3(二)(1)の事実及び主張も争う。原告らの主張は、異なった計算方式によることを前提にした独自の見解にすぎない。ちなみに、ブリックス式から降雨強度を逆算すると、流出係数が〇・四で毎時八六ミリメートル、〇・八で毎時四三ミリメートルとなる。

また、市町抽水所の排水区域では、上流地域のうち都市計画道路敷津・長吉線以南の地域約五〇〇ヘクタールについて、今川上流端に雨水吐口を設置することによって、上流地域の雨水が下流の下水道に流入流下することを軽減しているので、上流地域の雨水のほとんどすべてが原告らの居住地域に流入するといった事態が起こることはない。

なお八月豪雨による浸水被害は、大阪市内で約三万戸、浸水地域は東住吉区のほか、平野区、住吉区、生野区などに及んだ。

一二  同四3(二)(2)の事実及び主張も争う。被告大阪市の計画雨水流出量を超える降雨があった場合に下水管に流入できない余剰雨水が低地域に滞留することは、理論的には考えられないことはない。しかし、本件においては、八月豪雨の最大降雨量毎時三九・五ミリメートルは、計画雨水流出量算出に当たっての降雨強度毎時六〇ミリメートルを下回っているのであって、本件浸水が右のような原因によって生じたものとは考えられない。

一三  同四3(二)(3)のうち、市町抽水所が現実に毎秒六〇立方メートルすら排出できないとの主張事実は否認する。降雨の状況や平野川分水路の水位に照らして氾濫の危険性がないと認められるなどの諸条件が整いさえすれば、市町抽水所は、毎秒六〇立方メートルを排出する能力を有している。

また、市町抽水所の排水容量が寝屋川改修全体計画に組み込まれていること、したがって排水容量毎秒六〇立方メートルが関係河川の改修の完了を前提とするものであること、及び関係河川の改修が完了していないことは認める。しかし、調整運転の実施が育和地区の下水の逆流噴出の原因となったわけではない。

一四  同四4(一)のうち、市町抽水所周辺地区に昭和五〇年に二回、同五四年に四回の浸水被害が発生したことは認めるが、これらの浸水被害は市町抽水所があるために発生したものではない。その余の主張は争う。

一五  同四4(二)及び5の事実及び主張も争う。

一六  同五のうち、育和地区に浸水被害があったことは認めるが、その具体的状況は不知であり、損害額については争う。

1 まず原告一、二について、いわゆる包括一律請求による損害賠償請求は認められるべきでない。

2 その他、原告三の損害額の主張に対する被告大阪市の反論は、後記被告大阪市の主張八に記載のとおりである。

第五被告国及び同大阪府の主張

一  河川管理責任

1 河川管理の本質

元来河川は、降雨、降雪等の地球上の自然現象により生じた多量の流水が流下していく経路として自然発生し、長年月の間に種々変遷してきた。ことにわが国では、しばしば台風や豪雨に見舞われる気象条件と、急峻狭小な国土条件により、洪水氾濫が生じやすい環境にありながら、古来から河川の氾濫によって形成された僅かな沖積部の低地を水田等として開発し、集落を形成してきたため、洪水氾濫の被害を直接受けることが多く、その被害をできるだけ軽減することが必要であり、その努力が繰り返されてきた。

こうした事情から、わが国においては、古くから河川管理が重要な政治課題として認識され、洪水による被害軽減の努力すなわち治水事業は、その中心的課題として、そのときどきの政治、社会、経済状勢と密接に関連しながら現在まで営々と続けられている。

このように、自然現象としての洪水の発生を必然とする河川を管理することは容易でなく、刻々と変わる社会環境の中で河川に絶対的安全性を具備させることは、一般論としては不可能である。したがって、河川管理とは、本来的に洪水氾濫という危険を内包している河川について、できるだけその危険を軽減し、より安全なものに近づけていく努力の過程というべきものである。また、河川管理は、降雨による流水という容易に制御し難い自然現象を対象とし、しかも本来的に危険を内包したまま行わざるをえないものであり、そのうえ、緊急時に簡易な危険回避手段を採ることもできないという点で、道路等の他の営造物の場合とは性質を異にするものである。

2 河川管理の諸制約

いわゆる大東水害訴訟の最高裁判所昭和五九年一月二六日第一小法廷判決民集三八巻二号五三頁は、「河川の管理について、道路その他の営造物の管理とは異なる特質及びそれに基づく諸制約が存する」ことを詳しく判示しているのであるが、この河川管理の諸制約について、右最高裁判決のいうところに若干補足すれば、次のとおりである。

(一) 財政的制約

治水事業に投じられる資金は、国及び地方公共団体の議会によって支出を決定され、最終的には国民の負担によってまかなわれるものであり、国や地方公共団体の限られた財政規模の総枠内において、他にも多くの行政需要が存在する以上、治水事業に投じ得る資金にはおのずから限界があり、河川管理はこうした財政的制約下で推進されざるを得ない。そして、治水投資の総額が現在の治水の安全性の水準を決めることになるのであるから、河川管理における財政的制約は、単なる制約条件というよりも、むしろ治水水準を決定する極めて本質的な条件なのである。

(二) 時間的制約

河川の改修工事は、一般に長大な河川について順次改修済み区間を延長していく性質のものであり、物理的に当然長い工期を要し、しかも一定の区間が改修されてはじめてその効果が発揮されるものである。また工事着手に際し、橋梁その他河川に設置されている物件の架替え、移設など河川管理者側の事情のみでは工事を実施できない場合があるほか、沿川住民の生活上の諸権利や水利権等との調整を図ることが必要となる。これらの諸事情が、稠密な市街地を貫流する都市河川の改修工事において、ますます工期を長くしている。

(三) 技術的制約

治水方法は、画一的なものではなく、降雨の特性、流域の特性、流水の特性などの諸要素をもとに、対象となる河川ごとに決められる。しかもそれぞれの河川ごとの適切な治水方法を見出すには、災害の歴史を含めた長い経験が必要であって、最新の科学技術をもってしても将来起こりうべき自然現象を完全に予測しうるものではない。殊に、寝屋川水系のような、潮位影響がはるか上流まで及ぶ低地緩流河川網における流水の動向の解明と、それに対応する最も効果的な治水方法の研究は、今後の河川工学上の最も重要な課題のひとつである。

(四) 社会的制約

昭和三〇年代後半からのわが国経済の高度成長は、人口、資産の急激な都市集中、及び都市そのものの外延的拡大をもたらした。この都市化の急激な進展は、核家族化の進行とも相まって、都市近郊地域における宅地開発を促進することとなった。そしてそれに伴う土地利用形態の急激な変化は、河川への流出量の増大及び流出機構の変化をもたらし、河川管理上の大きな制約となっている。

3 河川管理瑕疵判断の基準

前記最高裁判決は、前記のような「諸制約のもとで一般に施行されてきた治水事業にまる河川の改修、整備の過程に対応するいわば過渡的な安全性をもって足りるものとせざるをえない」とし、この「過渡的な安全性」の有無を論ずる河川管理の瑕疵の判断基準としては、「これらの諸制約によっていまだ通常予測される災害に対応する安全性を備えるに至っていない現段階においては、当該河川の管理についての瑕疵の有無は、過去に発生した水害の規模、発生の頻度、発生原因、被害の性質、降雨状況、流域の地形その他の自然的条件、土地の利用状況とその他の社会的条件、改修を要する緊急性の有無及びその程度等諸般の事情を総合的に考慮し、前記諸制約のもとでの同種同規模の河川の一般水準及び社会通念に照らして是認しうる安全性を備えていると認められるかどうかを基準として判断すべきであると解するのが相当である。」と判示し、さらに、改修中の河川の管理責任に関して、「既に改修計画が定められ、これに基づいて現に改修中である河川については、右計画が全体として右の見地からみて格別不合理なものと認められないときは、その後の事情の変動により当該河川の未改修部分につき水害発生の危険性が特に顕著となり、当初の計画の時期を繰り上げ、又は工事の順序を変更するなどして早期の改修工事を施工しなければならないと認めるべき特段の事由が生じない限り、右部分につき改修がいまだ行われていないとの一事をもって河川管理に瑕疵があるとすることはできないと解すべきである。そして、右の理は、人口密集地域を流域とするいわゆる都市河川の管理についても、前記の特質及び諸制約が存すること自体には異なるところがないのであるから、一般的には等しく妥当すべきである。」と判示する。したがって、本件においてもこの判断基準により河川管理の瑕疵の有無が検討されるべきである。

二  治水の努力

被告国及び同大阪府は、治水事業を主要な行政課題として、これまで治水の努力を営々と続けてきており、殊に平野川、同分水路を含めた寝屋川水系河川の改修には一般水準をはかるに凌駕する努力をしてきている。

1 国の治水事業

わが国の近代的な治水事業は、明治七年に河川に関する仕事が政府により行われることとなって以来続けられており、第一次大戦後大いに進捗したが、戦時体制に入るとともに治水事業は低下し、第二次大戦前後には長い治水事業の空白期間が生じた。

戦後間もなく、戦中の水源山林の乱伐、治水事業の放置により各地に大水害が頻発し、新しい治水対策の必要が痛感されるに至り、昭和二八年に治水治山基本対策要綱が作成され、経済復興とともに本格的な治水事業が進行することになり、次のように五か年計画が策定、実施されてきた。

第一次五か年計画……昭和三五年度ないし三九年度、進捗率(計画事業費の執行率)一一八パーセント

第二次五か年計画……昭和四〇年度ないし四四年度、進捗率五六パーセント

第三次五か年計画……昭和四三年度ないし四七年度、進捗率七一パーセント

第四次五か年計画……昭和四七年度ないし五一年度、進捗率九二パーセント

第五次五か年計画……昭和五二年度ないし五六年度、進捗率一〇〇パーセント

第六次五か年計画……昭和五七年度ないし六一年度、総事業費一一・二兆円

(第二次、第三次計画は計画年度途中で次の計画に引き継がれているため、進捗率は見かけ上低くなっている。)

このようにして続けられた治水事業の明治以降の累積投資額は一五兆円ともいわれているが、それでも昭和五六年度末における整備率をみると、流域面積二〇〇平方キロメートル以上の主要大河川で戦後最大洪水に充分耐えられるのは延長にして五八パーセント程度であり、都市河川に至っては、時間雨量五〇ミリメートル程度の豪雨でも洪水被害の怖れのないのは、延長にして三八パーセント程度にすぎない。

2 被告大阪府の治水事業

(一) 大阪の近代的な治水事業は、明治一八年の淀川大洪水(河内平野がほぼ水没し、中之島付近の橋梁の大半が流失するなど甚大な被害をもたらした。)を契機とする淀川の治水対策事業に始まる。この事業により新淀川の開削(明治二九年ないし四三年)、一津屋樋門の竣工(明治三八年)、毛馬開門の竣工(明治四〇年)、毛馬洗堰の竣工(明治四三年)などの一連の治水工事が行われ、淀川の流路がほぼ現在の姿に固定されて、大阪市中心部が淀川本線の氾濫から守られるようになった。このほか、戦前に大和川、神崎川等の改修事業が進められるなどしたが、戦後は中小河川での災害が頻発するとともに、大型台風により高潮被害が発生したため、災害復旧と改修整備を合せ行う形で治水事業が行われ、現在は一定計画に基づく改修事業が続けられている。

(二) 被告大阪府の治水事業について、自治省財政局「都道府県決算状況調」などにより検討すると、以下のとおりであり、被告大阪府が全国的にみても最大限の努力をしてきたことが明らかである。

(1) 事業費

被告大阪府においては、毎年度多額の治水事業費を予算に計上しており、そのうち河川事業費は、昭和五七年度において四〇〇億円を超える巨額に達している。これは、道路整備、下水道整備、公園緑地整備等を含めた土木費の総額の四分の一強を占め、被告大阪府の決算総額の約三パーセントに相当し、決算総額に占める割合は、別表3に明らかなように近年一貫して全国平均を上回っている。

(2) 単独事業費

河川改修事業には、国費が補助金として交付される国庫補助対象事業と、国費が交付されない都道府県単独事業とがある。

国庫補助対象事業は、被告国が全国的視野に立って均衡のとれた治水事業を推進するため、国費を適正に配分して施工されるものであるが、単独事業は、都道府県が治水事業の必要性を考慮して、国費が投入されないにもかかわらず、自ら施工するものであるから、単独事業費の大小、及び河川費に占める単独事業費の割合の大小は、まさしく当該都道府県の治水努力を端的に示す指標ということができる。

これを被告大阪府についてみると、別表4に明らかなように、毎年度、全国平均を大幅に上回っている。このことは別表3と相まって、単独事業費総額が大きいことを物語るものであり、教育、警察、福祉、さらには他の土木事業など多岐にわたる行政需要が存在する中で、被告大阪府の治水事業に対する努力が特に顕著に窺える。

(3) 投資密度

大阪府域の総面積は一八六四平方キロメートルで、全国土の〇・五パーセントを占めるに過ぎず、全都道府県中で最も狭小である。したがってまた、知事の管理にかかる一級河川の区間(指定区間)及び二級河川の延長も、他府県に比べて短小(昭和五七年五月現在で約八五三キロメートル)である。

しかし、これに対する投下事業費は前記のとおり莫大なものであり、河川延長一キロメートル当たりの投資額は昭和五七年度で約四八〇〇万円となり、全国平均(約六四四万円)の約七・五倍と極めて大きなものとなっている。

このように大阪府は、全国的にも例をみない密度で治水事業が推進されている地域である。

(三) 改修状況

このような治水努力の結果、昭和五六年度末の大阪府下の河川改修状況は、要改修延長五六六キロメートルに対し、時間雨量五〇ミリメートルに対応する改修済み延長は三五四キロメートル、改修率にして六三パーセントとなっており、前述の全国の都市河川改修率(三八パーセント)を大きく上回る。これらの数値は、前記1掲記の諸制約のもとで、被告国及び同大阪府が最大限の治水努力を払ってきた過程と、河川に内在する危険性を軽減してきた成果とを示すものである。

3 寝屋川水系の改修努力

(一) 寝屋川水系は、淀川、大和川等の流送土砂の堆積によって形成され、この二大河川の付替えによって低湿地のまま取り残されたという流域生成の歴史的特性、内水区域が多くかつ緩流でほとんどが感潮河川であるという地形的、地理的特性、流出機構の変化や地盤沈下等急激な都市化によって発生した特性等によって、常に浸水の危険をはらみつつ現在に至っているが、それだけに寝屋川水系の河川改修は、今日まで一貫して緊急かつ重要な行政課題として認識されてきた。

(二) 被告国及び同大阪府は、戦後間もない昭和二五年頃から改修計画の検討を始め、閑散な田園都市としての開発想定に基づき、計画高水流量を毎秒五三六立方メートルとした計画のもとに改修工事を行ってきたが、その主要な工事は第二寝屋川及び平野川分水路の新川開削であった。この第二寝屋川開削事業は昭和三〇年に着工して以来、一四年の歳月と一一〇億円の巨費を投じて昭和四三年に竣工したものであり、その他高潮対策としての寝屋川水門、ポンプ場(昭和四〇年完成)などの治水対策が進められた。またこれらの事業を重点的に行うため、昭和三〇年に寝屋川水系改修工営所が設置された。

(三) その後、流域の予想外の急激な都市化により治水対策規模の変更が必要となり、基本高水流量を従来の約三倍である毎秒一六五〇立方メートルとする現在の寝屋川水系全体計画(府計画)が策定され、改修が進められている。

(四) その寝屋川流域の改修事業費は、別表5に明らかなように、被告大阪府における河川費の四割を超えるものであり、重点的かつ間断なく投資が続けられている。また平野川流域についても常に被告大阪府における河川費の一〇パーセント程度の投資がされている。

(五)寝屋川水系の主要河川の改修経過は、概ね次のとおりである。

(1) 寝屋川中流部に流域の灌漑用水を堰上げる目的で古くから設置されていた鴻池水門の断面が非常に狭く、流水の障害となっていたため、これを改策した(昭和二八年ないし三〇年)。

(2) 寝屋川の最下流部が土砂堆積により河積を狭められたため、この浚渫を行った(昭和二九年ないし三三年)。

(3) 流域南部の増大する流出量を受け入れるため、平野川に平行して新たに平野川分水路を開削した(昭和二八年ないし三八年)。

(4) 寝屋川の流量負担を軽減するため、新たに開削されることとなった第二寝屋川を寝屋川合流点から平野川分水路まで開削した(昭和三〇年ないし三六年)。

(5) 第二寝屋川を恩智川分派点まで開削した(昭和三六年ないし四三年)。

(6) 寝屋川を下流部から徳庵地区まで改修した(昭和三八年ないし四四年)。

(7) 寝屋川を徳庵地区から住道地区下流側まで改修した(昭和四四年ないし四六年)。

(8) 寝屋川の上流部を改修した(昭和四一年ないし四六年)。

(9) 平野川上流部を改修した(昭和三九年ないし四八年)。

(10) 太間排水機場の一期分を築造した(昭和四九年ないし五五年)。

(11) 恩智川の上、中流部を改修した(昭和四一年ないし五六年)。

(12) 恩智川下流部と寝屋川住道地区とを改修した(昭和四七年ないし五六年)。

(13) 寝屋川治水緑地の第一期分を築造した(昭和四九年ないし五八年)。

(14) 平野川分水路排水機場を築造した(昭和四九年ないし五八年)。

(15) 寝屋川を下流部から再改修に着手した(昭和四七年から)。

(16) 平野川を下流部から再改修に着手した(昭和四七年から)。

(17) 第二寝屋川を下流部から再改修に着手した(昭和四九年から)。

(18) 平野川分水路を下流部から再改修に着手した(昭和五〇年から)。

(19) 寝屋川治水緑地の第二期分に着手した(昭和五三年から)。

(20) 古川の改修工事に着手した(昭和五四年から)。

(21) 寝屋川上流部の分水工事に着手した(昭和五四年から)。

(22) 恩智川治水緑地の第一期工事に着手した(昭和五四年から)。

(23) 平野川調節池の建設に着手した(昭和五六年から)。

4 平野川、同分水路の改修経過

(一) 平野川、同分水路の概況

(1) 平野川流域は、淀川、大和川の氾濫による流送土砂の堆積と海水面の後退によって次第に陸地が形成されてきた寝屋川流域の一流域である。

江戸時代のこの地域は、大和川の付替えにより生じた低湿地の埋立てによる新田開発が盛んに行われ、平野郷と呼ばれて、河内木棉の生産、加工、集散地として繁栄した。明治以降は平野を中心として紡績、油脂工業等が盛んになったが、大部分はのどかな田園地帯であった。しかし戦後になって、この地域も産業、経済の発展に伴い、都心部に隣接するという地理的好条件のため、急速に都市化が進んだ。

現在の平野川流域は、寝屋川流域の西南部に位置し、大阪市東南部、東大阪市西部、八尾市南西部、柏原市西部及び藤井寺市の一部にまたがり、その流域面積は五一・三平方キロメートルである。

(2) この流域を流れる河川は、平野川とその支川である今川、駒川、鳴戸川及び平野川分水路である。

そのうち平野川は、かつては八尾市植松付近で旧大和川より分派して平野郷に至る河川であったが、現在は松原市築留にある大和川よりの取水樋を起点として、八尾市・大阪市東南部を通り城東区森之宮で第二寝屋川に流入する延長一七・四キロメートルの河川である。

また平野川分水路は、昭和三八年に開削が完了した河川で、平野区平野北一丁目付近で平野川から分れて北進し、生野区、東成区を経て城東区天王田で第二寝屋川に合流する延長五・八キロメートルの河川である(なお一級河川としての指定は第二寝屋川から寝屋川までの〇・九キロメートルも含まれる)。

(3) 平野川は、昭和二七年以降、旧河川法準用令一条の規定により準用河川に認定され大阪府知事によって管理されてきたが、昭和四〇年四月一日に新河川法が施行されると同時に一級河川に指定され、それ以来被告国の機関委任を受けた大阪府知事が管理している。

平野川分水路は、昭和三年から「城東運河」として開削に着手され、昭和二七年以降、旧河川法の準用河川として大阪府知事によって管理されるようになり、名称も「平野川分水路」とされた。その後、昭和三八年に現在の河川幅で全川を概成し、昭和四一年には一級河川として指定され、それ以来国の機関委任を受けた大阪府知事が管理している。

(二) 平野川流域の特殊性

寝屋川流域は、その流域面積二七〇平方キロメートルの四分の三に相当する約二〇〇平方キロメートルが内水区域であり、なかでも平野川流域は全域が下水道計画区域(内水区域)となっており、雨水は下水道管理者の計画した下水管渠網で集水され、駒川上流の二・七平方キロメートルを除き、他はすべて排水ポンプにより河川へ強制排水される区域となっている。

具体的には、平野川流域の下水道計画は、大阪市公共下水道区域(面積三二・九平方キロメートル)、東大阪市公共下水道区域(面積三・八平方キロメートル)、寝屋川南部流域下水道区域(面積一四・六平方キロメートル)で構成されており、平野川へ排水している抽水所は、上流から長吉抽水所(計画上の排水量毎秒四五・〇立方メートル)と市町抽水所(同毎秒六〇・〇立方メートル)であり、また平野川分水路へ排水している抽水所は、上流から平野下水処理場(同毎秒一四・〇立方メートル)、岸田堂抽水所(同毎秒五・〇立方メートル)、片江抽水所(同毎秒九・〇立方メートル)、深江抽水所(同毎秒五・〇立方メートル)、高井田抽水所(同毎秒五・〇立方メートル)、放出下水処理場(同毎秒八・〇立方メートル)である。

このように平野川流域では、雨水の河川への自然流入がほとんどないという特殊性を有しており、原告らの居住する育和地区の雨水処理についても、河川に自然排水ができないため、人為的に下水管で集水し、抽水所によって河川に放流することとなるため、下水道管理者が下水道整備を進めてきたのである。

(三) 準用河川認定までの概要(昭和二七年まで)

前記のとおり、平野川及び同分水路は昭和二七年に準用河川に認定されたが、それ以前には、平野川については、その下流部において大正末期から組合施行の土地区画整理事業によって河川の湾曲是正と大規模なショートカット工事を主とした改修工事がされ、平野川下流部における現河道の基礎が昭和一五年にでき上り、その管理は被告大阪市によってされてきた。また、平野川分水路については、大阪市東部の浸水防除と水運による発展を図るため、昭和三年に「城東運河」として都市計画決定され、組合施行の土地区画整理事業によってその開削が始められたが、戦時中一時中断した後、昭和二四年度から建設省都市局所管の公共事業として引き続き開削が進められ、さらにその後の社会経済情勢の変化によってその治水上の役割が強く認識されるところとなり、昭和二七年度に平野川が準用河川に認定されたのに伴い、城東運河はその分水路としての役割を与えられ、河川名も平野川分水路と改称された。

(四) 旧計画による改修(昭和二八年ないし四八年)

平野川及び同分水路を含む寝屋川水系の河川改修事業は、戦後の復興と浸水被害の多発を背景として昭和二五年から調査検討が進められ、寝屋川水系全体計画として昭和二八年度に建設大臣の認可を得た(以下、これを旧計画という。)が、それは、明治二九年に観測された従来の最大実績降雨(時間雨量六一・八ミリメートル、総雨量一七五・六ミリメートル)を計画対象降雨とし、過去の浸水実績と将来の流域の田園都市としての発展を考慮して、基本高水及び計画高水流量を京橋口地点で毎秒五三六立方メートルとしたものである。この旧計画において、平野川の計画高水流量は第二寝屋川合流点で毎秒八〇立方メートル、また平野川分水路では、やはり第二寝屋川との合流点で毎秒八五立方メートルとし、それに対応する河道形状を定め、国庫補助事業体系の中の中小河川寝屋川水系平野川改良工事として改修事業が実施された。そしてまず、平野川分水路開削の早期完成を目指し、本格的な開削と護岸工事とによって、昭和三八年度に寝屋川合流点から平野川分派点までの六・六キロメートルが概成し、その結果、平野川本川の流量負担が大幅に軽減した。

また平野川については、その下流部は組合施行の土地区画整理事業により一応の改修がされていたため、堆積土砂の浚渫と、部分的な護岸嵩上げ工事などの維持管理がされた。他方、平野川上流部においては、それまで平野川分水路分派点付近の河道が、一部災害復旧工事が施工された部分を除いて、自然河道として蛇行し、かつ狭小なものであったため、平野川分水路開削の完成に続き、昭和三九年度から分水路分派点上流部の本格的改修に着手した。それは、下流よりショートカット工事、拡幅工事を順次施工し、河道の疎通能力の拡大を図ったものである。

この間、現行の河川法が昭和三九年に公布、同四〇年四月一日より施行され、これに伴って、平野川は昭和四〇年四月一日に、同分水路は昭和四一年四月一日に、それぞれ一級河川に指定された。

一級河川指定後、平野川上流部については、指定以前の改修に引き続き、ショートカット、拡幅工事を順次下流から進めて、余慶橋付近までの約一・三キロメートルを概成した。また下流部についても、最下流部から順次L型擁壁護岸を主とした護岸工事を施し、これにより既設護岸の嵩上げ、補強、根固めを行って、流水断面の拡大をはかるとともに護岸強度を高める工事を行い、昭和四〇年から六か年間で最下流から日吉橋までの〇・八キロメートルが完成している。この間、平野川分水路においても河積確保のための浚渫工事が行われた。このように両河川における治水の安全度を高める努力は間断なく続けられ、旧計画における河道は、平野川分水路分派点から下流については昭和四五年に、その上流部については昭和四八年に概成した(このうちには後述するように新計画の一部を先取りして改修した区間も含まれる。)。この改修状況は別図3「平野川・平野川分水路改修状況(旧計画による護岸)」に示すとおりである。

(五) 昭和四七年災害と対応(昭和四七年ないし五〇年)

昭和四七年は寝屋川流域にとって未曾有の災害の年であり、同年七月一二日から一三日にかけての梅雨前線による豪雨、引き続き同年九月一五日から一六日にかけての台風二〇号がもたらした豪雨により、寝屋川流域は甚大な被害を蒙った。七月の雨は、八尾雨量観測所で総雨量二三七・五ミリメートルに達し、その被害は、東大阪地域全体で半壊家屋一三戸、浸水家屋四万三四一一戸に及んだ。また九月の雨は、同観測所で一一〇・五ミリメートルを記録し、その被害は全・半壊家屋五戸、浸水家屋六万一四〇七戸という悲惨なものであり、これらは、大阪府では四七年災害と称された。これに対し、被告国及び同大阪府は、いち早くその災害復旧対策の基本方針を定めるとともに、その実施のための事業費を確保した。すなわち、平野川について、被告国は国庫補助事業費の大幅な追加確保に努め、被告大阪府においても、これに加えて年度途中にもかかわらず単独事業費の大幅補正予算を計上し、これを合計して昭和四七年度当初予算額と同額の五億四〇〇〇万円(昭和五七年度換算約一二億二〇〇〇万円)を確保し、直ちにその対策にとりかかったのである。

四七年災害復旧対策の平野川水系における基本方針の骨子は、次のようなものである。

(1) 応急対策

翌昭和四八年の出水期までに、四七年災害実跡水位に三〇ないし四〇センチメートルを加えた高さまで、応急的な護岸嵩上げ工事を緊急に実施する。

(2) 三〇ミリ対策

さらに、昭和四八年度から三か年間に、時間雨量三〇ミリメートルに対処できるように本格的護岸嵩上げ工事を行う。その嵩上げ高は、当時まだ策定準備中であった現行の寝屋川水系全体計画(以下、これを被告国、同大阪府の主張の中では新計画という。)の内容のうち、既に成案を得られつつあった計画護岸高を先取りする形で採用し、これにより当面、時間雨量三〇ミリメートルの降雨に耐えられる河道の早期完成を図る。

この基本方針は、限られた治水投資を機動的、効率的に運用しながら、段階的に治水水準を高めようとする理念に基づくものであった。そして、これらの基本計画は、河川改修事業に不可避的につきまとう財政的、時間的、社会的諸制約のもとにおいて、最大限の事業費を投入しての後記の工事実施面での努力により、当初の方針どおり四か年という短期間に完成した。

この対策事業は、四七年災害の復旧対策としての性格を持つものであったが、その総事業費が昭和四七年度の大幅補正を含めて六六億二〇〇〇万円(昭和五七年換算約一一〇億円)にのぼる(これは昭和五〇年度の大阪府の全河川事業費二二九億円の約三〇パーセントに相当する。)大事業であった。

(六) 新計画による改修経過(昭和四七年ないし五七年)

(1) 新計画の策定

被告大阪府が新計画の検討に着手した時期は、旧計画による改修が進みつつあった昭和四〇年代初頭にさかのぼる。当時、寝屋川流域の急激な都市化が進行するとともに、それに対応する下水道計画(公共下水道計画、流域下水道計画)の策定変更が昭和四〇年から四三年にかけて相次ぎ、その結果、治水上、① 農耕地の減少による自然遊水機能の低下、② 宅地化の進展に伴う流出量の増大と浸水被害の顕在化、③ 下水道整備に伴う河川への排出量の増大と流出時間の短縮、④ 地下水の過剰汲上げによる地盤沈下とそれに伴う内水区域の拡大及び河川堤防の機能低下などの問題点を有するに至った。右問題点は、洪水流出量の増大、流出機構の変化及び地盤沈下による影響に要約されるが、まず、洪水流出量の増大に対しては、旧計画に比較してより大きな流出量を見込んだ計画を策定する必要が生じた。また、流出機構の変化に対しては、従来遊水機能を有していた農地が湛水の許されない市街地となって排水のためのポンプ施設が急速に整備されるようになったことについての配慮が必要となった。さらに、地盤沈下の影響に対しては、河道計画、流量等の全面的再検討と、橋梁対策等の附帯的対策の検討が必要となった。

そこで、新計画策定の検討が鋭意進められ、前述の四七年災害当時には、平野川、同分水路を含む多くの寝屋川水系河川についての計画高水流量及びそれに対応する河道計画の面において、ほぼ成案を得るまでに達していた。その後、寝屋川及び第二寝屋川の洪水防御計画、洪水調節等の手法についても継続して検討を行い、最終的に新計画は昭和五一年二月に建設大臣の認可を得た。その新計画の概要は、請求原因三2記載のとおりである。

そして、この間の河川改修は、現実に経験した出水の様相等を踏まえて、可能な限りの治水安全度を確保することを目ざして進められたが、その際、策定中の新計画のうち既に成案を得られた事項についても可能な範囲で採り入れ、これを先取りする形で実施してきた。たとえば、前述の四七年災害復旧対策についても、新計画による改修事業内容の一部を先取りして実施し、将来の改修に円滑につなげるよう配慮されたのである。

この新計画においては、平野川の計画高水流量は第二寝屋川合流点で毎秒一〇〇立方メートル、平野川分水路のそれはやはり第二寝屋川合流点で毎秒九〇立方メートルとし、それに対応する河道形状が定められた。また、この新計画に盛られた計画高水流量に見合う河道実現のための改修方法についても検討された結果、平野川及び同分水路の沿川は家屋の連担した密集市街地であり、大幅な護岸の嵩上げや拡幅は、用地の確保、建物の移転、橋梁の改築等により莫大な資金と長い年月を必要とするうえ、長期にわたる通行規制などによる既成市街地の都市機能に対する影響や、住民生活に与える不便が大きいなどの点で必ずしも適当でないと考えられたため、河道改修の方法として、次の二つが採用された。

第一は、河川改修として、前述の影響を考慮して最大限に護岸を嵩上げし、それとともに大幅な河床掘下げを行うことによって、必要な流水断面を確保することである。そして、この河床掘下げを実施するためには、それまでの護岸を構造的に補強する必要があり、まず全川にわたり既設護岸の前面基礎部に鋼矢板を打設し、これにより既設護岸基礎部を補強したうえで、河床掘下げに取りかかる(別図4 標準断面図を参照)という手順で、この工事を進めることとなった。

第二は、平野川分水路の水位をさらに低下させるため、平野川分水路の第二寝屋川合流点において平野川分水路排水機場を設けることである。この排水機場は、口径三六〇〇ミリメートルの可動翼軸流ポンプ三基と第二寝屋川の水位が平野川分水路の水位に影響するのを遮断するための水門を備えた施設であるが、洪水時にはこの水門を閉鎖し、三台のポンプで平野川分水路の水を第二寝屋川へ排水し、平野川分水路側の水位を約一・七五メートル低下させるのである。また、これら三台のポンプの排水能力は合計毎秒九〇立方メートルであり、これは平野川分水路のこの地点での計画高水流量に相当する。この水位低下機能により、護岸や多数の橋梁のそれまで以上の嵩上げを避けることができ、その結果、沿川の都市機能に与える影響を最小限にとどめることができる。

(2) 平野川、同分水路の改修―護岸工事

平野川、同分水路の護岸の嵩上げは、前述のとおり四七年災害対策(三〇ミリ対策)において実施され、昭和五〇年度に完成したが、河床掘下げのための護岸基礎部補強工事も、嵩上げの完成していた下流より昭和四七年から始められた。その後、昭和五〇年において、再び東部大阪は、梅雨前線による豪雨等により三度の浸水被害を受けた(以下、五〇年災害という。)。大阪府知事は、直ちに応急的な対策として、平野川分水路の上流部における二万立方メートルの河床浚渫、平野川の鳥居先水門撤去工事等により、当面の流水断面確保に努めた。

一方、五〇年災害を契機として、河床掘下げに早期に着手するために護岸基礎部補強工事を急ぐことになった。護岸基礎部補強工事は、平野川については、中小河川改修費としての国庫補助事業費と被告大阪府の単独事業費により、昭和五一年度末には最下流から近鉄線までの区間二・七キロメートルを完成し、その後も順次上流に向けて工事が進められた。また、平野川分水路についても、被告大阪府の単独事業費により、昭和五〇年度より、平野川分水路排水機場に関連する第二寝屋川合流点取付け部を除き、下流部から神路大橋に向けて護岸基礎部補強工事を実施したが、これをさらに積極的に推進するため、国庫補助事業費の導入が検討された。第一次石油ショック後の厳しい財政状況下において、既に全国平均を大幅に上回る規模と密度で国庫補助事業費が導入されていた被告大阪府について、さらに新たに同事業費を導入することは容易ではなかったが、激甚であった五〇年災害を契機として、昭和五二年度に平野川分水路が都市小河川改修事業の対象河川として新規採択され、同分水路に新たな国庫補助事業費が投入されることになり、これによって一層の事業促進が図られた。その結果、昭和五三年度末には、上下流両部にわたり、猪飼野新橋と今川合流点の間などを除いた六キロメートルの区間の、また同分水路については、下流より甲(きのえ)橋までの一・七キロメートルの区間の、各護岸の補強工事が完成した。

護岸工事は、一般的には工事そのものが流水を阻害することを避けて、非出水期に河川の一部を締切って施工されるのが通例であるが、緊急を要する両河川においては一日でも早く護岸工事を完成させなければならない。いかに多額の事業費が投入されようとも、工事期間が限定されてはその進捗に限界が生じるのである。平野川、同分水路の改修に際しても、この河川工事の宿命ともいえる問題に直面したが、工事担当者の熱心な研究の結果ゴライアス工法という特殊工法が提案され、工事費は割高になるがこれを採用することを決断して、ようやく問題を解決した。我国の河川工事で初めて採用されたゴライアス工法とは、ゴライアス(聖書に記されている巨人の名)と命名された特殊な重機であるレール走行式門型杭打機を用いた護岸補強のための工法であり、河川管理用道路(両岸)に敷設されたレール上を河川を跨ぐ形の門形の作業台が走り、これにセットされた掘削機と杭打機により、従来の工法のように河積阻害を行わずに上部から工事を行うというものであって、出水期でも工事が可能な点で画期的である。ゴライアス工法は、平野川分水路においては昭和五四年から、平野川においては翌五五年から導入され、護岸工事の推捗に多大の役割を果した。

このような努力の結果、昭和五六年度末までに、平野川においては、猪飼野新橋上流部などの一部を除き、上下流両部にわたる八・二キロメートルの区間の護岸補強工事を完成した。また、平野川分水路については、下流より順次下丁之田(しもちょうのでん)橋までの区間において、工事中の近鉄線から長木橋間の〇・四キロメートルを除いた三・八キロメートルの部分の工事を完成した。さらに、河床掘削についても、下流部において昭和五五年から着手した。この改修状況は別図5「平野川、平野川分水路改修状況(新計画による護岸)」に示すとおりであるが、これは、被告国及び同大阪府において河川改修事業費を平野川流域に重点的に投入し、かつ事業実施面における困難を克服して改修を進めた結果にほかならない。

(3) 平野川、同分水路の改修―橋梁対策

家屋の連担した地区を貫流する平野川及び同分水路においては、道路、鉄道をはじめ、都市生活を支える各種の用途に供される多数の橋梁が河道を横架している。その数は、道路橋及び鉄道橋だけでも、平野川において五七橋、同分水路において六三橋を数え、水管橋等を含めると実に合計一四三橋がこれらの河川を横架している。特に既存の市街地に新たに運河として開削された平野川分水路においては、開削時から既存の道路交通の便を可能な限り確保するため、多数の橋梁が存在し、平均すればおよそ河道一〇〇メートルごとに一つの橋梁が存在するという状況にある。

これらの橋梁は、在来の低い護岸上に架かっていたため、護岸嵩上げに伴い、架替えなどの処置が治水上必要となった。なぜなら、護岸の天端より低い位置に架かる橋梁を放置すると、水位上昇時に橋梁が流水の阻害要因となるばかりか、橋梁の護岸への取付け部分では護岸に切欠きが生じた状態にあるため、水位がさらに上昇した場合には、そこから河川の水が堤内市街地へ溢れ出るおそれがあるからである。

このように、平野川、同分水路においては、橋梁対策が治水上特に重要かつ緊急を要する課題となっていたため、まず、洪水時に流出するおそれのある木橋、人道橋など治水面からみて緊急性の高いものから架替えや改築を図り、順次、道路橋などについて同様の対策を実行した。そして、それとともに、工事完了までの期間中、橋梁取付け部からの溢水を防止する当面の止水対策として、橋梁の高欄部分の間隙を詰める止水防潮高欄を採用し(別図6 「止水防潮高欄概略図」参照)、木橋など構造的にこの方式を採用できないものについては、水位上昇時に道路との取付け部に角落し(止水板)を設置できるようにする(別図7 「角落し概略図」参照。なお角落し設置中は、当該橋梁は通行止めとなる。)という対策を講じたのである。

この橋梁対策は、昭和四八年から本格的に実施され、昭和五六年度末までに、平野川においては五七橋のうち二六橋(うち架替え二〇橋、基礎補強六橋)、同分水路においても六三橋のうち二六橋(うち架替え二三橋、基礎補強三橋)の工事を完了し、なお平野川で三橋、同分水路で三橋につき工事施工中であった。

(4) 平野川、同分水路の改修―排水機場の設置

平野川分水路排水機場は、昭和四九年度から、国庫補助事業(地盤沈下対策河川事業)としてその建設が始められたが、その後、昭和五四年の雨期には、大阪府南部を中心に、台風一六号の直撃などで三回にわたる豪雨に見舞われ、いわゆる五四年災害が発生した。この豪雨による河川の水位上昇は激しく、幸い河川溢水は生じなかったものの、寝屋川水系の各水位観測点ではことごとく過去の最高水位記録を更新した。そのため嵩上げされていない低い橋梁よりも水面が高くなり、橋面のひび割れから河川の水が吹き上げるといった現象が生じ、水位低下のための本排水機場の早期完成が望まれたのである。そこで新たな事業費確保のため、被告大阪府は被告国に強く働きかけて、河川激甚災害対策特別緊急事業の採択を得た。その結果、本排水機場は、同事業の趣旨にそうものとして、当初の予定を繰り上げて昭和五四年から五か年以内に完成させることとされ、実際に、昭和五八年に完成された。

(5) 平野川、同分水路の整備状況

こうした努力により、平野川及び同分水路両河川の整備率は、昭和五六年度末において、護岸工事が七二パーセント、河床掘削が八パーセント、橋梁対策が四三パーセント、排水機場が六九パーセントに達し、昭和四七年度以降同五六年度までの事業費は、約三七二億円(昭和五七年度換算約四七六億円)にのぼった。

なお、昭和五八年度末の整備率は、護岸工事が八三パーセント、河床掘削が四二パーセント、橋梁対策が五七パーセント、排水機場が一〇〇パーセントに達した。

(七) 工事実施面における困難とその克服

上述の平野川、同分水路の改修工事の実施には、さまざまな困難がつきまとった。

第一に、市街地、特に家屋密集地での狭小な現場で重機械を使用して護岸工事を施工することは、困難を極めるものである。すなわちまず、住民の生活道路の確保に配慮しつつ、工事のための搬入路を確保する必要があったが、現地では十分なスペースのないことも多く、極端な場合には、沿川住民の協力を得て家屋内を通路にして工事を行うという事態すら生じた。また工事施工に際しては、最新の技術を駆使し、無振動、無騒音工法によるなどの環境対策を講じたが、工事場所が家屋に近接しているため、その効果にも限界があった。さらに工事によって、近接家屋の壁面のひび割れや壁材の脱落などが生じることも多く、補償工事や金銭補償が必要な場合があったが、当時はまだ確立された基準がなかったため、被告大阪府では独自に公共工事損害補償のための基準を定め、これに対処した。

第二に、護岸嵩上げに伴う橋梁対策上の困難さが問題である。すなわち、橋梁の嵩上げを伴う改築などは、その橋梁を利用する道路、鉄道などの路盤自体の嵩上げを当然必要とするから、工事実施に際しては、通常、橋梁ごとにその前後の区間に坂路を設置し、工事中の通行規制に伴う代替通行路(仮橋、迂回路など)も確保しなければならなかったが、これには橋梁の管理者との綿密な協議が必要となるうえ、新たな用地の確保や通行制限に対する周辺住民の理解と協力を得ることが不可欠である。そして、これらの問題を解決して工事に着手したとしても、工事中の通行規制などにより周辺市街地の都市機能に著しい影響を与えることが十分予想され、したがって、短い間隔でおびただしい数の橋梁が存在する平野川、同分水路の改修事業において、橋梁の改築を一挙に行うことは、財政的にも技術的にも困難を極めるうえに、都市機能に与える影響の点からも事実上不可能であった。

そこで大阪府知事は、前記排水機場の設置により、橋梁改築等の必要件数を可能な限り抑制し、他方、改築等の必要な橋梁については、それらの主たる管理者である被告大阪市との間で、費用負担等の内容を含めた覚書を取りかわし、道路事業に混乱をきたさないよう極力配慮して橋梁の改築等を行い、併せて前記のような当面の止水対策を講じた。このような努力により、平野川、同分水路において、工事対象橋梁周辺の交通対策等も含めた橋梁対策としての工事施工が可能となったのである。

第三に、平野川、同分水路は、旧陸軍砲兵工廠近くを流れていることもあって、戦時中の空襲による多くの不発弾が河底に残留しているおそれがあるという問題があった。護岸の基礎を固める鋼矢板の打設や河床掘削を不用意に施工すれば、不発弾に接触して惨事を招くおそれがある。そこで工事施工に先立ち、近在の戦争体験者から得た情報をもとに、最新の磁気探査技術を駆使して綿密に探査し、不発弾が発見されたときは、陸上自衛隊中部方面総監部に依頼してそれを撤去することにした。いうまでもなく、これには長期にわたる慎重な作業と、周辺住民の全面的な協力(避難など)が必要であり、万一、工事実施中に不発弾が発見されれば、工事は直ちに全面的に停止せざるをえず、そして現実に昭和五〇年度に平野川分水路の近鉄線下流部分で一トン爆弾が発見されたが、無事撤去されたことがあったのである。

第四に、平野川下流河川に立地していた木材業者への対策が問題となった。木材業者は、古くから水運利用のため沿川一三か所にわたり、桟橋、筏、木材シュート設備等の施設を河川敷及び河川流水面に設置していた。これらの施設は、新たな改修工事の大きな障害となったが、木材業が古くから操業していた経緯もあって、移転、転業を余儀なくされることへの反対は根強く、施設撤去のための木材業者との折衝は困難を極め、遅々として進まず、担当職員の懸命の努力と根気よい話合いの結果、ようやく施設撤去の同意が得られ、護岸工事を進めることができたのである。

平野川、同分水路の改修は、これらの例にみられるような種々の困難を一つずつ克服しながら進められたのであり、現在もなお、治水水準の向上をめざして、最大限の努力をもって進められているのである。

四  結論

本件水害当時、平野川、同分水路は新計画に基づいて現に改修中であったが、その新計画は、先に引用した最高裁判決の判示する「諸般の事情を総合的に考慮」してみても格別不合理なものとは認められず、新計画に原告主張のような瑕疵は存しない。

また新計画に基づく平野川、同分水路の改修は、前記のとおり幾多の困難を克服しながら原則として下流から順次進められてきており、この改修工事において、新計画策定後の事情の変動により水害発生の危険性が特に顕著になったことはなく、当初の計画の時期を繰り上げたり、工事の順序を変更しなければならない特段の事由が生じたこともないから、前記最高裁判決の判示に照しても、改修中の平野川、同分水路の河川管理に瑕疵があったとはいえない。

第六被告大阪市の主張

一  市町抽水所の設置の経緯

1 大阪市下水道整備一〇か年計画

(一) 被告大阪市の下水道事業は明治二七年から行われていたが、昭和一九年頃戦争の激化に伴って中断し、戦後は昭和二一年頃再開された後、約一〇〇億円の経費を投じて下水道の敷設が進められ、その結果、昭和三四年度末現在では、別紙6に示したとおりの下水道の普及をみるに至った。

しかし、戦後における急速な復興、及びこれに続く市街地の拡大、発展に伴い、下水道未整備地域も次々と市街化し、昭和三二年六月、同年七月、同三四年七月の豪雨に際しては、これらの下水道未整備地域に甚大な浸水被害が発生したため、浸水対策上も下水道の普及をより一層促進する必要に迫られた。

しかも、市街地の復興及び拡大による家庭下水の増加と、著しい経済の復興成長による工場廃水の急増のため、河川の汚濁が進行し、また人口の増加に伴って、し尿の量も増加してきたにもかかわらず、農村におけるし尿の需要が減少し、そのうえ、し尿の海中投棄が規制されたため、汚水やし尿の処理の必要上からも下水道施設を整備することが急務とされた。

(二) 被告大阪市はこのような事態に対処すべく、管渠の敷設、下水処理場や抽水所の建設、水洗便所の普及等を含む全面的な下水道の整備を図るため、昭和三五年度を初年度とする下水道整備一〇か年計画を策定し、同三六年三月、都市計画法による事業認可を得てその実施に着手した。

右の計画は、全市域を五つの処理区及び一二の処理分区に区分し、各分区ごとに具体的な下水処理計画を定め、これを総合して全体計画を樹立したものであって、市の陸地面積一万七八〇〇ヘクタールのうち、約八〇パーセントに当たる一万四三五八ヘクタールを事業対象区域とし、事業費四一四億円をもって下水処理場一〇か所、抽水所一〇か所を新設し、在来の下水処理場二か所及び抽水所二〇か所についても適宜増設、改造を行い、最終的には下水管渠一一七六キロメートルを敷設することを目標とした。

一二の処理分区の大要は別表6に示したとおりであるが、本件で問題となる育和地区は平野処理分区に含まれているので、以下は平野処理分区を中心として、前記一〇か年計画策定時における下水道の普及状況、一〇か年計画において策定された処理計画の内容及びその進展状況について概説する。なお平野処理分区の範囲は、別図8に示したとおり、昭和四三年及び同四七年の計画変更により拡大されている。

2(一) 一〇か年計画策定当時の平野処理分区は、東住吉区の大部分と生野、住吉、阿倍野の各区の一部を含む一五五八ヘクタールの地域であったが、従来その大半が農地であったため、市街地に比べると下水道施設は比較的未整備の状況にあり、既設の下水管渠の総延長は約八万二〇〇〇メートルにすぎず、その排水の大半は、多数の農業用水路(鳴戸川水路、加美町水路、西脇水路、喜連町水路、瓜破町水路等)を経由して、平野川、同分水路、今川、駒川等へ自然流下していた。その排水経路は別図9に示したとおりである。

ところが、元来農業用水路は農業用水の取水、排水を目的とするものであって、市街化の進展に伴って増大した下水の排水に適さなかったため、多量の降雨があれば水路の水位が急速に上昇し、その流域が広範囲に浸水するとともに減水にも時間を要し、長時間にわたって浸水していることが多かった。現に育和地区では、昭和二四年六月、同二七年七月、同三二年六月などに大きな浸水被害を蒙っている。

(二) 一〇か年計画における平野処理分区の事業計画は、下水管渠の大幅な増設(二四万三八八一メートル)による下水道網の整備と並んで、生野区巽四条町に抽水所の機能を併せ持つ平野下水処理場(計画人口三一万一〇〇〇人、計画汚水量毎日一二万九〇〇〇立方メートル、計画雨水量毎秒三八・一立方メートル)を新設し、雨水と処理された汚水を同下水処理場から平野川分水路へ放流することを内容としていた。

一方、前記の農業用水路により平野川などへ排水していた地域のうち、一〇か年計画策定時に対象区域から除外された地域(東住吉区の加美町、平野中野町、喜連町、瓜破町)については、住宅地の開発が急速に進んだのに対し、これらの地域の排水の流出路となっていた在来の農業用水路の荒廃が甚しく、降雨時の浸水が頻繁に繰り返されたため、被告大阪市は、前記一〇か年計画と並行して排水路の改修、新設を計画し(この計画は都市下水路事業と呼称され、その計画は別表7に示したとおりである。)、平野処理分区並びに周辺地域の浸水防止策としたのである。

(三) 以上のような下水道事業計画に基づき、昭和三五年以降、平野処理分区及び周辺地域の下水道整備事業が遂行され、昭和四二年度末現在においては、平野処理分区内の下水管渠延長は九万九五四九・七九メートル、排水区域面積は四〇〇ヘクタールに達したが、他方、下水処理場は、昭和四二年度末現在において未だ具体的に建設に着工するに至らない状態であった。

3 第一次下水道整備五か年計画

前記一〇か年計画は、策定以来昭和四二年度末まで七か年を費して当初の計画に従って、管渠の延長、下水処理場の開設、水洗便所の普及等逐次その成果を上げた。しかし、この間における市域周辺地域の急激な市街化は一〇か年計画の対象地域外にまで拡がり、昭和四二年七月の豪雨による浸水被害(浸水戸数六万三三〇〇戸、浸水面積一一一六ヘクタール)はこれら下水道未整備の地域にも及び、他方、工場の建設に伴う工場廃水の増大によって河川の汚濁が一層激しくなってきた。

そこで被告大阪市は、前記一〇か年計画を見直し、市街化の現況に適合するよう計画内容を刷新拡大する必要を認め、浸水解消、河川浄化、水洗化の普及を目標に、一〇か年計画の最終年度の到来を待たずに計画内容を変更することとし、同四三年度を初年度とする第一次下水道整備五か年計画を策定し、同四三年一二月、都市計画法による事業認可を得て、その実施に踏み出した。

この第一次五か年計画は、全市域を対象とし、事業費七一〇億円を投じて、管渠一五一八・六キロメートルの敷設、抽水所一九か所の新設、増設を行うことを内容とするものであった。そして、平野処理分区については、前記加美町、平野中野町、喜連町など新たに急速に市街化された地域を逐次同処理分区内に包含し、計画区域面積は二一六一ヘクタールに拡大され(別図8参照。)、下水管渠を五二万七〇〇〇メートルに延長することが予定された。なお昭和四七年に策定された第二次五か年計画においては、計画区域面積二五五七ヘクタール、下水管渠延長六二万二〇〇〇メートルに変更されている。

一方、平野下水処理場については、昭和四〇年に平野区加美北に下水処理場建設用地を買収することができたが、この場所は当初の予定地より約一キロメートル東に位置し、ここに抽水所を併設するためには下水道幹線を同所まで延長する必要があり、その敷地に莫大な費用を要し、かつ敷設用地の確保も極めて困難であった。そこで、被告大阪市は、第一次五か年計画による事業の一環として、抽水場と下水処理場とを分離して建設することとし、昭和四三年、旧予定地に近い平野区平野北に抽水場用地を買収し、同四五年七月に完成、翌四六年六月から通水することとなった。これが市町抽水所である。

二  昭和五七年四月時点における市町抽水所の機能と操業の概要

1 排水区域と排水経路

市町抽水所の排水区域は、生野区(巽地区の大部分)、阿倍野区(文の里四丁目)、住吉区(苅田町、庭井町、長居町五、六、七丁目)、東住吉区(山坂町四、五丁目、桑津町一ないし四丁目、同七丁目及び大塚町を除く全地域)、平野区(中央環状線以西で、大和川以北の地域)にまたがり、その排水面積は二四〇七ヘクタールである。

市町抽水所には、①北部の排水区域(巽地区二三九ヘクタール)からの巽平野市町幹線、②東部の排水区域(加美地区三七一ヘクタール)からの加美新家平野市町幹線、及び、③西部、南部の排水区域(苅田地区一七九七ヘクタール)からの苅田平野市町幹線の三本の流入幹線が接続している。そしてこれら流入幹線には、排水区域内の各所において各地域からの流入下水管が接続され、排水区域内に生じた下水は、末端の下水管から右の経路を通って市町抽水所に流入して来る。ただし、苅田地区のうち二七三ヘクタールに生じた下水については、計画汚水量の三倍を超える部分は駒川に直接に放流され、また上流地域のうち都市計画道路敷津・長吉線以南の地域約五〇〇ヘクタールに生じた下水は、雨水吐口より今川上流端に放流されるため、いずれも市町抽水所には流入しない。

その主な下水管渠の接続状況は別図10に示すとおりであるが、市町抽水所に流入する下水管渠の総延長は約六一三キロメートルに及んでいる。

2 排水能力

市町抽水所のポンプは、同抽水所の通水以来漸次増設され、現在二〇台を数えている。そして各ポンプごとの排水能力は別表8に示すとおりであり、雨水ポンプ一三台の総排水能力は毎秒六八・一六立方メートルである。

ところで、市町抽水所の設置計画においては、同抽水所に流入する雨水の量、すなわち計画雨水流出量を別紙7のとおり実験式(ブリックス式)で計算して、毎秒六〇・三立方メートルと算定したが、市町抽水所の現在の雨水排出能力は毎秒六八・一六立方メートルであって、右計画雨水流出量を上回っているのである。

3 操業の概要

(一) 市町抽水所のポンプ井は二か所に区分されており、一方は巽地区から流入する下水を、他方は加美地区及び苅田地区から流入する下水をそれぞれ受け入れ、専用のポンプ(巽側は第一をいし第八号機、加美、苅田側はその余のポンプ)によってそれぞれ平野下水処理場へ送水し、もしくは平野川に放流できるよう設置されている。

(二) 市町抽水所では、晴天時には両ポンプ井の間に設けられた連絡ゲートが開放され、巽側の汚水を加美、苅田側に流入させたうえで、第九号ないし第一二号の四台の汚水ポンプのうち必要台数を稼働して平野下水処理場へ送水しているが、汚水流入量が著しく少なく、加美、苅田側のポンプ井内の水位(以下、内水位という。)が汚水ポンプを運転するために最低必要な水位を下回ったときは、より低水位でも運転の可能な巽側の汚水ポンプ(第一ないし第三号機)を稼働して双方の汚水を平野下水処理場へ送水している。

なお晴天時の運転に際しては、内水位をOPマイナス二メートル前後に維持し、これによって流入幹線内の水位を下げ、降雨時に幹線内に多量の雨水を貯留できるよう配慮している。

(三) 一方、降雨時においても、通常、平野下水処理場への送水量が毎秒五・〇一立方メートルを超えるまでは、晴天時と同様の運転が行われるが、これを超えた時点で両側のポンプ井内の雨水ポンプの運転を開始し、余剰の下水を平野川に放流する。そして降雨量が増大するにつれて、その排水に必要な台数のポンプを運転することとし、最終的には全台運転を原則としているのである。

(四) ところで、処理済みの汚水や雨水を下水処理場または抽水所から河川へ放流するための放流口を河川敷に設置するためには、河川管理者の占用許可を受ける必要がある。市町抽水所についても昭和四七年九月六日、放流先である平野川を管理する大阪府知事から河川敷占用許可を受けたのであるが、右許可には、平野川やこれに連なる平野川分水路の氾濫防止のため、抽水所の操業に関し、「降雨時の放流については、当面の間その都度河川管理者と協議し、その指示に従うこと」、及び「降雨時における河川管理者の指示もしくは連絡が円滑かつ徹底されるようその体制を確立すること」という条件が付されていた。そのため、被告大阪市は、平野川及び同分水路に新たに一一か所の水位観測点を設置し、在来の二か所と併せて総計一三か所の水位観測点(観測点の名称、位置、設置年次は別表9に示したとおりである。)において常時河川の水位を監視し、右許可条件所定の体制確立を図っている。

一方、昭和五一年七月一日、被告大阪市は、大阪府知事から、抽水所の操業に関し、左記の水位を危険水位とし、これを超えないように市町抽水所のポンプを運転操作するべき旨の具体的な指示を受けた。

平野川分水路 OPプラス四・三〇メートル(片江水位計)

OPプラス四・八〇メートル(巽水位計)

平野川 OPプラス四・二〇メートル(劔橋水位計)

このため、被告大阪市は、降雨量が増大し、河川の水位が右の危険水位を超えた場合には、平野川、同分水路の氾濫による広範囲の被害の発生を防止するため、河川管理者の指示に従い、已むを得ない措置として排水量の調整を行っている。

三  昭和五七年八月二日から三日にかけての調整運転の経緯と内容

1 市町抽水所の降雨記録によれば、昭和五七年八月一日午前三時頃から同月二日午前三時三〇分頃までの間に約一二〇ミリメートルの降雨があり、地表面に多量の雨水が含まれる状況であったところ、同月二日午後一〇時三〇分頃から再度降雨が始まり、翌三日午前一〇時頃までこれが続き、その間の降雨量は一四〇ミリメートルに達し、同月一日以来の総雨量は二六〇ミリメートルとなった。

2(一) 市町抽水所では、再度降雨の始まった八月二日午後一〇時三〇分頃から、汚水ポンプ二台(第一〇、第一二号機、排水量毎秒三・三四立方メートル)で平野下水処理場へ送水を行う一方、雨水ポンプ九台(第四、第七、第八号機、第一三ないし第一八号機、排水量毎秒四二・五〇立方メートル)を稼働して平野川への放流を開始した。その後、同月三日午前〇時四〇分頃から小雨となり、内水位の下降も認められたので、順次雨水ポンプの運転を停止し、同日午前二時二〇分頃には前記汚水ポンプ二台と雨水ポンプ二台(第一三、第一四号機、排水量毎秒七・〇立方メートル)のみ運転した。

(二) ところが、同日午前二時四〇分に大阪管区気象台から大雨・洪水警報が発令され、同日午前二時五〇分頃には再度降雨が激しくなってきたため、同日午前三時三〇分頃より雨水ポンプの運転台数を逐次増加し、同日午前五時二五分頃には汚水ポンプ二台(第一一、第一二号機、排水量毎秒三・三四立方メートル)、雨水ポンプ一一台(第四、第七、第八号機、第一三ないし第二〇号機、排水量毎秒六二・五立方メートル)を運転し、最大吐出量は毎秒六五・八四立方メートルに達した。

(三) 一方、ポンプ台数の増加に伴い、平野川分水路の水位が急上昇し、巽水門において同日午前三時三〇分頃OPプラス三・四五メートルであった水位が、同日午前四時五〇分頃にはOPプラス四・八一メートルと僅かではあるが危険水位(OPプラス四・八〇メートル)を超え、同日午前五時三〇分頃にはOPプラス五・〇〇メートルに達し、さらに水位は上昇する気配を示していた。

このため市町抽水所では、同日午前五時三〇分頃から同五〇分頃までの間に、五台の雨水ポンプ(第二〇、第一九、第一八、第八、第一六号機)の運転を逐次停止して水位の状態を観察した。その結果、巽水門の水位は、同日午前五時四〇分頃からOPプラス五・二〇メートルの前後で平衡状態を保っていたが、同日午前七時頃から再度水位の上昇が認められたため、午前七時一〇分頃に雨水ポンプ一台(第一五号機)の運転を停止した。

しかし、激しい降雨が続く中、巽水門の水位はいっこうに下らず、同日午前八時一〇分頃にはついにOPプラス五・二五メートルを超えたため、汚水ポンプ二台と雨水ポンプ二台(第一三、一七号機)の運転を停止した。

これが今回の豪雨時における最大の調整運転であり、この間(午前八時一五分頃より午前一一時頃までの間)の雨水放流量は毎秒一〇・五立方メートルとなっていたのであるが、それにもかかわらず、午前九時四五分頃には、巽水門における水位は同所における護岸の最上端に達し、今回の豪雨での最高水位であるOPプラス五・四〇メートルを示すに至った。

(四) その後、同日、午前一〇時頃には降雨が止み、これに伴って午前一一時前頃より巽水門の水位がOPプラス五・二〇メートルを下回り、さらに低下する兆しが認められたため、市町抽水所では午前一一時過ぎから水位の状態に合せて徐々にポンプの運転台数を増加し、同日午後三時過ぎには汚水ポンプ一台、雨水ポンプ一〇台(総排水量毎秒六〇・六七立方メートル)を運転するに至ったが、以後は河川の水位及び内水位の低下に伴い、排水量を減じていった。

なお昭和五七年八月三日におけるポンプ運転の状況は、別表10に示したとおりである。

3 本件で問題となっている調整運転の経緯と内容は、概ね以上のとおりであるが、被告大阪市としては、巽水門の水位が河川管理者の指示する危険水位を超えた場合においても直ちに調整運転をしたわけではなく、またポンプ全台の運転を停止した事実もない。

河川管理者の許可条件は、本来、全面的に遵守すべきものであるが、反面において、下水道管理者として市町抽水所の排水区域内の雨水をできる限り排水すべき立場にある被告大阪市は、従来から、巽水門の水位が危険水位に達しても必ずしも直ちにポンプ全台の運転を停止することなく、巽水門の水位の上昇状況や降雨状況を勘案しつつ、放流先である平野川や同分水路の氾濫を防止し得る限度での調整運転を行うことにより、河川管理者の許可条件を尊重しつつ排水区域内の雨水排水に努めてきた。

今回の調整運転も、結局、まれにみる多量の降雨の中にあって、排水区域内の浸水被害発生の防止と平野川分水路の氾濫、溢水による被害発生の防止という二つの要請を最大限に両立させるために被告大阪市が採ったやむを得ない措置であり、前記のとおり巽水門の水位が同所の護岸の最上端に達し、これ以上のポンプ稼働は放流先での氾濫が必至の状況にあったことを考えると、被告大阪市としては他に採るべき措置はまったくなかったのである。

四  大阪市下水道設置上の瑕疵の主張(請求原因四2)について

1 原告らは、被告大阪市の下水道計画が府計画を前提としたものであると主張するが、事実は逆である。

府計画は、昭和四〇年頃から検討が開始され、昭和四三年頃には基本高水流量毎秒一六五〇立方メートルが決定されたが、これは寝屋川水系河川流域の地方公共団体が各集水区域の計画雨水流出量に基づいて策定した下水道計画を前提としており、府計画において市町抽水所の地点すなわち平野川と同分水路との分岐点における計画高水流量配分が毎秒六〇立方メートルとされたのも、市町抽水所設置計画を含む被告大阪市の第一次下水道整備五か年計画策定当時に予定していた平野処理分区拡大後の計画雨水流出量、毎秒六〇・三立方メートルを前提としているのである。

2 また、原告らは、平野川、同分水路の河川改修が未了であるため市町抽水所から計画雨水流出量毎秒六〇立方メートルを排出できない場合があるにもかかわらず、被告大阪市が計画雨水流出量を毎秒六〇立方メートルとして下水道施設を設置したことは、出口のない下水道施設を設置したことにほかならない旨主張する。

一定の河川を放流先とする下水道施設の計画雨水流出量が、当該河川の流量と整合していることが必要であることは、一般論としてはそのとおりである。しかし、そのことは、下水道整備事業計画を策定、実施するに当たって、計画策定時の河川の流量を前提としなければならないことを意味するものではない。河川にせよ下水道にせよ都市の公共施設は、都市化の進展に伴って常に拡大し発展させる必要があり、しかもそれら公共施設の整備事業は種々の制約条件を負った大規模事業であるため、その変更、拡大は容易になしえないのであるから、その立案に当たっては、都市化の進展を十分見越しておかねばならない。したがって、当該下水道整備事業の対象区域の市街地の拡大発展による排水量の増大が見込まれ、かつ一方で、当該放流先河川の改修が計画され、近い将来計画が実施されることが予測されるときは、当該河川の改修計画における計画高水流量を前提として下水道整備計画を実施することが、下水道整備事業の目的に適うものであり、また下水道整備事業の実際のあり方である。

3 さらに、原告らは、下水道整備計画を実施するにあたり、計画策定時の河川の流量を前提としないまでも、下水道が整備されて使用に供される時点においては、放流先河川の流量と下水道施設の計画雨水流出量とが整合していることが絶対に必要である旨主張する。原告らの右主張が、下水道施設の計画雨水流出量と放流先河川の流量が計画実施途上の各段階において常に整合していなければならず、かりに河川改修計画の実施が遅れるような事態が生じたときは、下水道計画自体を修正するなり、下水管渠の敷設やポンプの設置を一時的に遅らせるような措置を講じるべきであるということであれば、被告大阪市はそのような見解にはとうてい同調できない。なぜなら、右のような整合を求めるためには、河川改修途上における放流先河川の受入能力を把握することが前提となるが、河川の受入能力は、流域における降雨の分布状況や継続時間あるいは本件におけるような感潮河川の場合には潮の影響など多くの要因が絡むうえ、河川が改修途上である場合には改修の進捗状況も前提としなければならず、これらの諸要素をもとに個々の時点での河川の受入能力を特定することは、とうてい不可能だからである。

原告らの主張を敷衍すれば、河川改修計画の実施が完了するまでは下水道計画は河川の現状を前提としてその受入能力の範囲内でのみ実施すべきである、ということになろうが、そうすると下水道事業は常に都市整備の後追いとなり、浸水被害、周辺環境の悪化などを招くこととなり、結局は住民全体の福祉に合致しない結果とならざるをえない。

本件の場合、被告大阪市の下水道整備計画と被告大阪府の河川改修計画とは整合しており、しかも、被告大阪府は右河川改修計画に鋭意努力しているのであるから、被告大阪市としても、河川改修と並行して下水道整備計画の実施に努めるのが行政主体としての当然の責務であり、その過程において、行政主体、法体系、制約条件などの相違から双方の事業の進捗に遅速の差が生じることがあったとしても、それはやむをえない現象であって、その差異から生じる結果について行政主体が法的に責任を負うべき理由はまったくない。

4 さらに、被告大阪市は、このような下水道事業と河川改修事業との進捗状況の差異により浸水被害が生じうる可能性を漫然と放置していたのではなく、浸水の危険を回避するための予防策として、次のような処置を講じている。

(一) 市町抽水所への流入雨水量を軽減するため、雨水を今川、駒川に直接放流する施設として左記のものを設置した。

(1) 駒川上流部からの雨水吐口

昭和四六年設置

(2) 今川最上流部からの雨水吐口

昭和四九年設置

(3) 鷹合平野幹線から今川への放流管

昭和四八年設置

(4) 今林仮ポンプ場(平野川へ放流)

昭和五〇年設置

(5) 小口径放流管

昭和五〇年以降順次設置

(二) 市町抽水所では常日頃ポンプ井の内水位を可能な限り低位に保ち、降雨の際の雨水の貯留量を確保するように運転を行っている。

(三) 今後予測される都市化の進展に対する抜本的な解決策として、昭和五三年に学識経験者、被告国、同大阪府、同大阪市の河川、下水道関係者らによって構成された平野川地区内水対策技術研究会での検討結果をもとに、昭和五六年度から同六二年度までの六か年の工期と二一三億円の巨費を投じて平野川街路下調節池の設置を、また同五九年度から同七〇年度までの一一か年の工期と九六〇億円の巨費を投じて平野住之江下水道幹線、住之江抽水所の設置を、それぞれ計画実施している。

(四) なお、昭和四八年度から同五六年度までの八年の歳月と三七〇億円の巨費を投じて完成した天王寺弁天幹線、及び昭和五〇年度に着工し同五七年度に完成した弁天抽水所は、平野処理分区の雨水を直接排水するものではないが、従来平野川に排水していた雨水を取り込むことによって、間接的に同分区の浸水を防止するのに役立っている。

以上のように、被告大阪市は、下水道整備の実施に当たって浸水発生防止のため可能な限りの処置を講じているのであるから、かりに本件浸水が原告らの主張するように放流先河川の受入能力と下水道施設の雨水流出量との不整合により生じたものであったとしても、その結果につき被告大阪市が責任を問われる理由はまったくない。

五  市町抽水所の設置の瑕疵の主張(請求原因四3)について

被告大阪市の下水道計画では、計画雨水流出量は合理式で算定せず、実験式(ブリックス式)によって算定しその諸元を左のとおり定めた。

流出係数 〇・五

降雨強度 毎時六〇ミリメートル

地表平均勾配 一(一〇〇〇分の一)

排水面積 二二八四ヘクタール

右の算定式及び諸元について不相当という原告らの主張は、次のとおりいずれも失当である。

1 算定式

原告らは、被告大阪市が本件下水道計画を立案する際に合理式でなく実験式を採用したことには合理的根拠がない旨主張している。

しかし、本件水害発生当時下水道施設に関する指導的文献であり、被告国が下水道法上の認可をするについて審査基準として用いていた「下水道施設基準解説」は、計画雨水流出量の算定式について基本的に合理式と実験式のいずれを用いてもよいとしており、また平野処理分区の下水道計画が策定された昭和三五年度の下水道統計によれば、当時わが国の下水道事業を実施していた一七一団体のうち、合理式を採用した団体は六八、実験式を採用した団体は九八、その余は不明となっており(これらの詳細について別表11参照)、大都市だけについてみても、被告大阪市をはじめ札幌市、名古屋市、京都市、横浜市が実験式を採用し、東京都、神戸市、福岡市が合理式を採用しているという状況であるから、被告大阪市が実験式を採用したことを不合理と非難されるいわれはない。

この点に関して原告らは、流出係数、降雨強度、排水面積が同一であることを前提にして、合理式を用いて算定した場合の雨水流出量が実験式(ブリックス式)を用いて算定した場合の三倍以上にもなるとして、右下水道施設基準解説は実験式を採用してよい根拠とはならない旨主張する。

しかし、そもそも算定式の採り方と諸元の採り方とは一般的に相互に関連するものであり、別表11及び同12をみれば、実験式を採用する都市と合理式を採用する都市がそれぞれ採用している流出係数及び降雨強度は、前者の都市のそれの方が後者の都市のそれより一般的に大きい数値であることが明白であるから、諸元を同一と仮定して算定した数値を比較すること自体妥当性に乏しいものである。また、かりにその結果に大小の差があったとしても、実験式から得られた結果が著しく不相当なものでない限り、下水道施設基準解説の記載や当時の各都市の実情からみて、被告大阪市が実験式を採用したことの妥当性は明白といわなければならない。

なお、かりに諸元を同一にした場合において合理式の方が大きな雨水流出量を算出するとしても、そのことをもって直ちに合理式を採用すべきであるということにはならない。なぜなら、雨水流出量を大きくとった場合は、それに見合うだけ施設を大きくする必要があり、建設費や用地費が増大し、供用開始時期も遅れるため、公共下水道の早期設置を求める住民の強い要望に応えられないこととなり、健全な都市基盤の整備の妨げともなるからである。そして、下水道事業の計画策定に当たっては、他の多くの行政需要との均衡を考慮しつつ下水道整備にどれだけの配分を行うべきかを決めなければならないから、雨水算定式採用に当たっては、下水道事業計画に関する行政上の裁量が十分ひろく認められなければならない。

2 流出係数

流出係数は、気候、地勢、地質、降雨強度、地表面の状況等の要素が複雑に絡んでいるため、これを的確に決定することは極めて困難であり、通常は経験的に決められた数値を用いるのが実情であるが、前記基準解説においては、用途地域別の流出係数について左のような幅をもった数値が採用されている。

商業地区 〇・六~〇・七

工業地区 〇・四~〇・六

住宅地区 〇・三~〇・五

公園緑地 〇・一~〇・二

一方、市町抽水所の設置を含む第一次下水道整備五か年計画が策定された昭和四三年当時、市町抽水所の主たる集水区域である平野処理分区内の都市計画用途地域の構成は次のとおりである。

住居地区 六一・八七パーセント

商業地区 二・二二パーセント

準工業地区 二五・九一パーセント

工業地区 一〇・〇〇パーセント

以上のとおりであり、右両者を総合して計画すると(但し、準工業地区は工業地区に含める。)、平野処理分区全体の流出係数は、〇・三四二ないし〇・五四〇となる。したがって、被告大阪市の用いた流出係数(〇・五)は合理的なものである。

また、昭和三五年度の下水道統計によると、各都市で採用されていた流出係数は別表11のとおりであって、これをみても〇・五という流出係数が原告らが主張するように低いものでないことが明らかである。

3 降雨強度

被告大阪市が本件下水道計画を立案するにあたって用いた降雨強度は毎時六〇ミリメートルであるが、これは明治四四年から昭和二四年までの降雨データに基づき、一二年に一度の頻度の数値を用いたものである。しかるに、前記基準解説においては、降雨強度の基準として三年ないし五年に一度の頻度に該当する数値を用いることとされており、被告大阪市の用いた本件降雨強度は右基準を超えるものである。また、昭和三五年度の下水道統計によれば、当時、各都市で用いられていた降雨強度は別表12のとおりであり、本件降雨強度はその中で高いランクに位置付けられる。したがって、本件降雨強度毎時六〇ミリメートルが低きに失するものでないことが明らかである。

4 地表平均勾配

地表平均勾配のとり方の妥当性については原告らも特に争っていないが、これも基準解説に従った方法をとっており、合理的なものである。

5 排水面積

排水面積が二二八四ヘクタールというのは、被告大阪市の抽水所としては最大のものであるが、これは、右の地域の排水が、旧来、今川、駒川、農業用水路によって市町抽水所付近から平野川に排水されていたことから、排水区域を一括した結果であり、自然流下を基本とする下水道計画の原則に照らして当然のことというべきものである。

なお、市町抽水所の設置場所を現在の位置に定めたのは、自然流下を基本とする立場から右位置が流域の下流部に属し、かつ公共用水域に隣接し、さらに入手可能な場所(土地)であるという条件のすべてに合致したことによるものであり、合理的な選択といわなければならない。

六  市町抽水所の管理上の瑕疵の主張(請求原因四4)について

1 およそ水害は、地形、地質、降雨状況(降雨の量、継続時間及び分布状況)など、種々の因子が複雑に絡み合って起こるものであり、調整運転が直ちに浸水被害の発生につながるものではない。このことは、別表13のとおり、調整運転が行われたにもかかわらず育和地区に浸水被害が発生しなかった例があり、他方、調整運転が行われていないにもかかわらず浸水被害が発生した例もあることによっても、明らかである。したがって、原告ら主張のように過去の浸水データから調整運転による浸水被害の発生を予測することは、およそ不可能といわざるをえない。

2 また、昭和五七年八月三日の市町抽水所におけるポンプの調整運転の経緯は、前記四のとおりであるが、このように平野川分水路の水位が上昇し、氾濫の危険が間近に迫っている状況下において、被告大阪市が平野川分水路の氾濫により生ずる人命の損傷、家屋や橋梁の倒壊、広範囲にわたる浸水という甚大な被害の発生を防止するため、河川管理者の指示に従って調整運転を行うことは、極めて当然のことであって、その措置には何らの違法性も存しない。

ちなみに、巽水門の水位は、被告大阪市が調整運転を行ったにもかかわらず、同日午前九時四五分頃には同所における護岸の最上端に達し、OPプラス五・四〇メートルを示すに至った。このことは、被告大阪市が調整運転を行わなかったとすれば、同所における氾濫が必至であったことを明確に物語っている。

3 なお、原告らは、本件水害は市町抽水所の調整運転により発生したものと主張するが、この点の因果関係は明らかではない。なぜなら、なるほど排水できない下水が原告ら居住地に滞留して浸水することを理論的に想定することはできるが、現実に原告らの居住地に浸水があった場合において、その原因が当該地に降った雨水(内水滞水)によるのか、滞留した下水によるのか、あるいは両者の競合によるのか、さらに、その場合の各々の寄与度はどの程度かというようなことは、およそ特定することができないからである。

4 また、原告らは、被告大阪市は事前に住民に対して調整運転による浸水被害の発生を周知させ、損害回避の対応策を講ずる余裕を与えるべきであったにもかかわらず、これを怠った旨主張する。

しかし、下水道管理者である被告大阪市が地域住民に浸水の危険を予告しなければならない義務を負うものではなく、また、調整運転実施と浸水との関連は、前記六1のとおり予測不可能なものであるから、いかなる場合に住民に警告を与えるかの基準を確立し難く、その実施は事実上不可能に近い。

さらに被告大阪市は、つねづね一般的な広報活動として、市広報誌への記事掲載、リーフレットの配布、各区の防災会議での呼びかけなどを通じて、水害に対する心がまえを啓蒙宣伝してきたし、特に今回の調整運転時には、所管の東南下水道事務所長から育和地区及び南百済地区の連合町会長に対し、調整運転を開始するので浸水に注意するよう電話で連絡しているから、かりに原告ら主張のような義務を被告大阪市が負っているとしても、被告大阪市としてはその義務を十分に果しているというべきである。

七  結論

本件豪雨時に平野処理分区内において相当の浸水被害が発生したことは、被告大阪市としても甚だ遺憾ではあるが、これは、被告大阪市が平野処理分区を含む全市域において下水道を普及すべく可能な限りの行政努力を払っている過程において、かつ受入河川の改修途上という制約下において、偶発的に発生した長時間にわたる多量の降雨のために生じた不可抗力的な事態であったというべきであるから、右浸水被害について被告大阪市が法的に責任を負うべき理由のないことは明らかである。原告らの被告大阪市に対する請求は失当である。

八  原告三の損害について

1 まず、原告三の損害のうち、建物の補修費用とされている金額に将来の浸水に備えての予防工事費用が含まれているものがあるが、このような工事費用が本件浸水による損害に当たらないことは明白である。

次に、機械設備等の浸水による損害は、機械設備そのものの全損の場合には当該機械設備等の価値相当額、具体的には当該機械設備等の購入価額に減価償却を施した残存価額相当額と考えるべきである。また重要部品を取り替えた場合において、その費用が当該機械設備の残存価額相当額を上回ったときは、残存価額相当額を損害額とすべきである。したがって、原告三が機械自体あるいは重要部品の取替費用の全体を損害として計上しているのは、不当である。また、補修が浸水後相当期間経過した時点で行われている場合には、本件浸水と当該補修との因果関係について厳密な立証を要するというべきであるが、本件においてはその立証がなされていない。

2 さらに原告三の営業損害の主張について以下のような問題がある(なお、以下の原告名は、別紙損害目録中に掲記の略称を使用する。)。

(一) 原告島伝

原告島伝は、昭和五五年度、同五六年度との比較における昭和五七年度の純売上高、期中仕入高、売上原価、売上総利益などの減少額に、右五五、五六年度の純売上高その他の右各数額に対して算出した利益率を乗じ、その単純平均値をもって、本件水害による逸失利益としているが、かかる算定方法は、次のとおり不当である。

(1) 右算定方法は、前記純利益等の減少がすべて本件浸水によってもたらされたものとの前提に立つものであるが、一般に、商品の売れ行きや売上利益が各種の要因によって増減することは当然考えられることであり、このことは原告島伝が挙げている昭和五五年度と同五六年度の純売上高などの数値を比較しても明白である。

(2) また逸失利益の算定上最も参考になると考えられる売上総利益は昭和五七年度のそれが同五六年度よりも約五〇五万円減少しているが、同五六年度のそれは同五五年度より約九八五万円も減少しており、昭和五七年度の売上総利益の減少はむしろ少ないといえるから、同年度の売上総利益の減少は通常生じる増減の範囲内のものであって、本件浸水によって生じたものではないことが明らかである。

(二) 原告河田

原告河田は、本件浸水による逸失利益を、昭和五五年度と同五六年度の原告河田の各所得の平均を年間実労働日数三〇〇日で除した単価に、まったく業務が不可能であった日数として一五を乗じる方法で、算出しているが、企業における所得は単なる生産活動のみではなく種々の要素によって産み出されるものであるから、一定期間生産に従事できなかったことから直ちに当該日数の按分比例分だけ所得が減少したと考えるのは、何ら合理性がない。

(三) 原告嘉長

原告嘉長は、本件浸水による逸失利益を、昭和五四年度から同五六年度までの三か年の売上総利益の平均値と同五七年度との差額をもって算定している。

しかし、同五六年度も売上総利益が同五五年度より特段の理由なく約三〇〇万円減少しており、これと対比すると同五七年度の売上総利益の減少を、本件浸水による数日間の休業に起因すると考えることは、根拠薄弱である。

(四) 原告魚谷

原告魚谷は自己の本件水害による後片付の費用を、昭和五六年、同五七年の所得を合計して六〇〇で除して一日当りの所得額を算出し、それに休業を要した日数として七を乗じる方法によって、算定しているが、かかる算定方法は前記(二)と同様に不当である。

(五) 原告田上金属

原告田上金属が後片付の費用として請求している損害は、実質上休業損害であり、本件浸水後一四日間の休業を余儀なくされたとして、昭和五七年における代表者本人の所得及び従業員に支給した給与を三〇〇日で除し、一四日を乗じて算出した数値である。しかし、右一四日の間まったく営業が不可能であったとは考えられないのみならず、かりにそうであったとしても、これによって代表者本人の年間所得が右日数相当分減少したと考えるべき根拠はないし、従業員の給与についても、賞与や手当などを含む金額について日割相当分の損害を蒙ったと考えるべき理由はない。

(六) 原告トオマ

(1) 原告トオマは本件浸水による逸失利益を、過去三年間の一般経費の一日当たりの額に休業期間の五日を乗じる方法によって、算出している。しかし、一般経費には多数の費目があり、かりに五日間の休業を余儀なくされたとしても、右すべての費目の経費が休業によって一律に五日間相当分無駄になるとすることはできない。

(2) 原告トオマは、本件浸水による損害につき、損害保険に基づく保険金五〇万円の支払を受けているから、右保険金額を損害額から控除すべきである。

(七) 原告丸一

原告丸一は、昭和五四年ないし同五六年の三か年の売上実績をもとに一日当たりの売上高を算出し、これに本件浸水時に営業活動ができなかった日数であると主張する三日の日数を乗じて得た数額を、逸失利益とし、その一部を予備的請求として請求している。しかし、売上高そのものを利益と同一視したこと自体明白な誤りである。

(八) 原告森田商行

原告森田商行は、本件浸水による損害につき、損害保険に基づく保険金五〇万円もしくは一〇〇万円の支払を受けているから、右保険金額を損害額から控除すべきである。

(九) 原告大日本倉庫

原告大日本倉庫の請求における商品(板紙、化学薬品)の損害は、倉庫業者である原告大日本倉庫が荷主から預かっていた荷物が本件浸水によって破損したとして、荷主に賠償したことにより発生した、というものである。

しかし、本件浸水自体は原告大日本倉庫にとって不可抗力というべきものであるから、原告大日本倉庫は荷主に対して賠償すべき義務はない。原告大日本倉庫は、専ら営業上の配慮から損害金を荷主に支払ったのであるから、右商品損害は本件浸水との間の相当因果関係を欠くものである。

また、かりに右支払金を原告大日本倉庫の損害といえるとしても、その額は本来の被害者の損害たる当該商品の製造原価に限定されるべきである。

(一〇) 原告山本

完成品(雨樋受)の損害額については、これをくず鉄として廃棄した際に八万五〇〇〇円の収入があったのであるから、右収入額と損益相殺されるべきである。

(一一) 原告上出

原告上出は、浸水後一か月間休業を余儀なくされたため、雇人及び専従者に対する給与(それぞれ二三万円と一一万円)及び倉庫の家賃(八万六〇〇〇円)がいずれもまったく無駄になったとして、休業損害四二万六〇〇〇円を請求する。

しかし、従業員が一か月間まったく本来の業務に従事しなかったということはなく、また倉庫も、その間まったく用をなさなかったとはいえない(少なくとも保管の用は果しえたはずである。)から、右請求は過大である。

(一二) 原告錦盛堂

原告錦盛堂は、一か年の人件費を三〇〇日で、同賃借料を三六五日で除し、その各単価に休業した七日を乗じた金額を、休業損害としている。

しかし、七日間という休業期間に明確な根拠はなく、また、その間まったく営業活動ができなかったものでもないから、かかる計算は不当である。

(一三) 原告生野工芸

原告生野工芸は、一か年の人件費を三〇〇日で除し、これに休業期間二日を乗じたものを、休業損害としている。しかし、右二日間、生産活動のみならず営業活動全体がまったく不可能であったとは考えられず、右算出方法は不当である。

(一四) 原告大弥食品

原告大弥食品は、一か年の人件費を三〇〇日で、また一か年の事務所等の地代家賃を三六五日でそれぞれ除したその各単価に休業した九日を乗じた金額を、休業損害としている。しかし、休業を余儀なくされたという右の九日間の数字に明確な根拠があるわけではなく、また、その間も現実に営業活動は続けられていたから、右計算方法は不当である。

第三章証拠《省略》

理由

第一当事者

一  原告

原告永峰元、同山田幸作、同服部勝司、同宇野隆志、同萱野捷秀、同島龍一、同桝谷哲を除く原告一、二が昭和五七年八月三日当時(以下、本件水害当時という。)に、大阪市東住吉区杭全四丁目一〇番所在の育和小学校の学区内に居住していた事実は、原告らと被告大阪市との間で争いがなく、右争いのない事実に《証拠省略》を総合すると、原告一、二が本件水害当時、別紙原告目録一及び二記載の住所地(ただし原告八田功一外三四名については旧住所地)に居住していたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

また《証拠省略》によると、原告三のうち、原告田渕商事が大阪市東住吉区今林二丁目九番一〇号に、原告高砂薬業が同区杭全六丁目一番一四号に、原告大日本倉庫が同区今林四丁目一二番一号に、原告上出が同区杭全四丁目一番一号にそれぞれ倉庫を保有し、その他の原告らが原告目録三の住所地において事務所、工場等を保有して営業活動を行ってきたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

(以下、本件水害当時、原告らが居住ないし営業活動を行っていた地域を、育和小学校の学区と関係なく、本件育和地区という。なお単に育和地区と表示したときは学区としての育和地区を指す。)

二  被告国

被告国が河川法九条一項により、その行政機関である建設大臣をして、寝屋川水系の一級河川である平野川、平野川分水路、今川、駒川、恩智川、楠根川、第二寝屋川、寝屋川及びその他の各河川を管理させていること、建設大臣が河川法九条二項、昭和四六年建設省告示第三九六号により、いわゆる機関委任事務として大阪府知事に右諸河川の管理の一部を行わせていることは、原告らと被告国との間で争いがない。

三  被告大阪府

大阪府知事が、河川法九条二項、昭和四六年建設省告示第三九六号による機関委任事務として、寝屋川水系の一級河川である平野川、平野川分水路及びその他の河川の管理の一部を行っていること、被告大阪府が地方自治法二〇四条一項により河川管理者に対して給料、諸手当等を支給し、かつ河川法六〇条二項により右寝屋川水系各河川の管理費用を負担していること、以上の各事実は、原告らと被告大阪府との間で争いがない。

四  被告大阪市

被告大阪市が、地方自治法及び下水道法に基づき、公共下水道として、大阪市下水道の設置及び改築、修繕その他の維持管理を行っていることは、原告らと被告大阪市との間で争いがない。

第二営造物

一  寝屋川水系河川(平野川、同分水路を中心に)

1  寝屋川水系

(一) 寝屋川水系の概況

寝屋川水系が、東側を生駒山脈で、西側を上町台地で区切られ、北側と南側をそれぞれ淀川と大和川で分水された東西一四キロメートル、南北一九キロメートル、流域面積約二七〇平方キロメートルの地域であること、寝屋川水系の水は、この流域唯一の出口である通称京橋口から旧淀川(大川)に合流して大阪湾に注いでいること、寝屋川水系河川が公共の用に供される公物に属すること、以上の各事実は、原告らと被告国、同大阪府との間においては争いがなく、原告らと被告大阪市との間においては、証人金盛弥(以下、金盛という。)の証言によりこれを認めることができる。

また、《証拠省略》によると、寝屋川水系には、(第一)寝屋川、第二寝屋川、恩智川、平野川、平野川分水路のほか、二三の河川法の適用を受ける河川が流れていることが認められ(別図11)右認定に反する証拠はない。

(二) 寝屋川水系の形成過程

《証拠省略》によると、次の事実を認めることができる。

西暦紀元前七〇〇〇年の後期洪積世時代には、寝屋川流域は、河内湾と呼ばれる海であり、淀川、石川、大和川等が流れ込んでいたが、その後、河内湾の南側にあった上町台地が、大阪湾の湾岸流の作用で堆積した砂浜の発達によって、次第に北の方向に発達し、同時に淀川、石川、大和川による土砂の運搬、堆積(沖積作用)によって、河内湾は河内潟さらに河内湖へと漸次隆化が進んだ。その結果、河内平野が形成され、現在の大阪城付近で淀川と石川、大和川が合流する形となり、これらの河川及びその支川が絶えず氾濫を繰り返して、河内平野への土砂の流送、堆積を一層進めた。

そして、一七〇四年に大和川を柏原から堺へ掘削したことによる川筋の変更、及び明治三〇年から同四三年にかけて新淀川を掘削したことによって、寝屋川流域は概ね現状の形を呈するようになり、かつ大和川及び淀川の氾濫からも守られるようになったが、他方、両河川の沖積作用が停止し、また平野川をはじめ長瀬川、玉串川の旧大和川河道が発達した自然堤防によっていくつかに分割され、いたるところに袋状の湿地を形成したため、寝屋川流域は排水条件の悪い低湿地として取り残されることとなった。以上のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。

(三) 寝屋川流域の特徴

《証拠省略》を総合すると、寝屋川流域の特徴として次の各事実を認めることができる。

(1) 地盤の低さ

寝屋川水系の流域は、前記(二)掲記のような形成過程を経てきたことから、その八六パーセントが軟弱な沖積平野であって、かつ地盤高が非常に低く、TP一メートル以下(TPは全国的な地盤高の基準を示すものであって、東京湾の中等潮位をTP〇メートルとしたものであり、OPの数値はTPの数値に一・三メートルを加えたものである。またOPプラス二メートルが大阪湾の平身満潮位である。)ないしはTPプラス二メートル以下の土地が寝屋川流域の奥深く、生駒山脈の麓である大阪府四条畷市ないしは交野市まで広がっている(別図12)。また、旧淀川ないし第一寝屋川沿いの背後地盤高(堤防付近の地盤の高さ)をみると、第一寝屋川の上流、安治川防潮水門から一五キロメートル付近まで、大阪湾平均満潮位(OPプラス二メートル)の高さしかない箇所がある(別図13)。さらに寝屋川流域の中央部、中央環状線沿いに南北方向の地盤横断面をみると、淀川の洪水位をOPプラス一〇メートル、大和川の洪水位がOPプラス一八・〇二メートルであるのに対し、両河川にはさまれた大阪市、八尾市、東大阪市、門真市のほとんどの地域がOPプラス二メートルないしOPプラス一〇メートルの地盤高しかない(別図14)。要するに、寝屋川流域は、海側には上町台地、天満砂洲の高まりがあって排水を妨げ、南側は地盤高が大和川に近づくほど高くなり、北側も淀川沿いにわずかに高くなっているという皿状の地形であるため、水はすべて河積の狭い寝屋川水系河川に集まるのである。

(2) 河川勾配

第一寝屋川の河川勾配は約一万分の一、すなわち一万メートルの距離につき一メートルの落差しかなく、また第二寝屋川、平野川も約三〇〇〇分の一の勾配であり、大阪府下の他の地域の主要河川、たとえば安威川や石川の勾配が約二〇〇分の一から一〇〇〇分の一であるのと比較しても勾配の数値は低く、寝屋川水系の河川は極めて勾配の緩い緩流河川である。

(3) 感潮河川

また、寝屋川水系の諸河川は、前記(二)掲記の歴史的形成過程をたどってきたため、潮の干満の影響を受ける感潮河川であり、その感潮区間は大阪湾の河口から約二〇キロメートルにも及び、主要河川についてみると、第一寝屋川では寝屋川市と大東市の境界付近(深野北ポンプ場付近)まで、恩智川では大東市と東大阪市の境界付近(深野ポンプ場付近)まで、第二寝屋川では東大阪市と八尾市の境界付近(楠根川合流点付近)まで、平野川では今川、駒川との合流点付近まで、そして平野川分水路では全川が感潮区間となっている。

以上のとおり認められ、証人金盛の証言中右認定に反する部分は措信しがたく、他に右認定に反する証拠はない。

(四) 寝屋川水系の流域構成

(1) 次の各事実は、原告らと被告国、同大阪府との間において争いがなく、原告らと被告大阪市との間では《証拠省略》によってこれを認めることができ、これに反する証拠はない。

① 寝屋川水系の流域面積全体(二六九・七〇六八平方キロメートル)の約七五パーセントは内水区域、すなわち自然流下で雨水等を河川へ排出できないためポンプ等によって強制排出される区域であり、次の三つの流域で構成される。

(イ) 大阪市下水区域 七一一〇・九五ヘクタール

(ロ) 西三荘集水区域 八〇八・八〇ヘクタール

(ハ) 流域下水区域 一万二〇六二・四一ヘクタール

合計 一万九九八二・一六ヘクタール

② これに対して外水区域、すなわち自然流下で雨水等を河川に流出できる区域の面積は、六七七八・九〇ヘクタールである。

③ その他若干の間接流域がある。

(イ) 城北集水区 一七二・〇二ヘクタール

(ロ) 大阪城 三七・六〇ヘククール

④ これらの流域構成と河道網は別図15のとおりである。

(2) また、右事実と《証拠省略》によると、寝屋川水系の外水区域は、東部の第一寝屋川最上流部と生駒山系を流れる中小河川流域がほとんどであり、寝屋川水系の主要河川の流域はほとんどすべてが内水区域であることが認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

2  平野川、同分水路

《証拠省略》を総合すると、次の各事実を認めることができる。

(一) 平野川流域の概要

(1) 平野川流域は、寝屋川水系の南西部に位置し、大阪市東南部、東大阪市西部、八尾市南西部、柏原市西部及び藤井寺市の一部にまたがる流域面積五一・三平方キロメートルの地域であり、平野川、同分水路と平野川の支川である鳴戸川、今川、駒川が流れている(別図11)。

また、平野川流域は、ほぼ全域が内水区域であり、大阪市公共下水道区域及び大阪府の寝屋川流域下水道区域に含まれ、一三の集水区に分別されている。

(2) 寝屋川水系流域の一部である平野川地域も低湿地帯であって、前記1(二)のとおり古来から大和川及び淀川並びにそれらの支流の氾濫に悩まされてきた。しかし、一七〇四年の大和川付替工事以降は、新開地として田畑が開墾され、また河内木綿の産地として発展し、平野郷はその生産加工と集散の一中心地として繁栄した。明治以降は、綿作は衰えたものの、関西本線の開通以来、平野を中心として紡績、油脂工業等が盛んになった。そして、近年は大阪のベッドタウンとして宅地化が急速に進み、現在、平野川及び同分水路の流域は住宅密集地域となっている。

(二) 平野川

(1) 平野川は、大阪府柏原市築留にある大和川の青地樋に水源を発し、八尾市南部、大阪市平野区、同生野区、同東成区を流れ、途中で平野川分水路を分派し、今川、駒川を合流させながら上町台地の麓を北進し、大阪市城東区で第二寝屋川に合流する延長約一七・四キロメートルの川であり、昭和二七年旧河川法の準用河川として大阪府知事によって管理されるようになり、昭和四〇年四月一日、新河川法の施行と同時に一級河川に指定された。

(2) かつて平野川は、河内平野を流れていた大和川から八尾市植松付近で分流して平野郷に至る大和川の一支流であって、北流して来た大乗川、東除川、西除川等の支流を合流させ、河内平野形成の基となった氾濫、土砂の流送、堆積を繰り返してきた。しかし、一七〇四年の大和川の付替工事により、平野川の右支流はいずれも分断されて大和川に流入することとなり、平野川の水量は大幅に減少した。なお、現在の今川は、右西除川の大和川に分断される前の旧流路に当たるものである。

このように平野川はほとんど自然流下のままに形成された河川であり、その流路はとくに蛇行屈曲が激しく、大和川付替工事後、水量が減少したとはいえ、雨期には毎年のように氾濫して農村地帯を襲ったため、大正八年から耕地整理組合事業等の一環として平野川の蛇行した流路部分を直線にする新平野川開削工事が施工され、昭和一〇年頃には概成した。しかし、さらに明治から昭和の戦前期にかけて大阪市の膨張が進んだことによって、平野川は市街地と近接することになり、従来の農地の灌漑用排水路としての機能ばかりでなく、新しい市街地を流下する河川として位置付けられ、それに対応した後記のとおりの改修工事が進められた。

(三) 平野川分水路

(1) 平野川分水路は、大阪市平野区平野北一丁目付近で平野川から分派し、北進して同市生野区、同市東成区を通って、同市城東区天王田で第二寝屋川と交差した後、同区放出で第一寝屋川と合流する延長六・六五キロメートルの河川であって、昭和二七年に旧河川法上の準用河川に指定されて大阪府知事の管理下に置かれ、昭和四一年四月一日に一級河川に指定された。

(2) 平野川分水路は、当初、城東運河として、東大阪の浸水防除と水運による沿岸発展を目的として、昭和三年に都市計画決定され、以後六・六五キロメートルの約八二・五パーセントに当たる約五・五キロメートルの区間を沿岸地域の民間の耕地整理組合ないしは土地区画整理組合が、またそれ以外の区間を被告大阪市がそれぞれ開削した。城東運河の開削事業は昭和一四年に一応完了したが、開削箇所の断面等に一貫性がなく溜池的であるなど、降雨時の排水や水運にその用を十分には果すことができなかったため、その後も被告大阪市によって拡幅開削、護岸築造、架橋等の工事が続けられた。しかし、大平洋戦争の激化により右工事が中断され、終戦を迎えた。

戦後は、昭和二四年度から被告大阪市によって城東運河開削工事が再開されたが、昭和二五年には単なる運河の開削からさらに防災面を重視した事業として計画が修正された。すなわち、城東運河を、平野川の洪水量を分流する平野川の分水路として明確に位置付けるとともに、同運河に平野川の支川である西の川、千間川及び楠根川の洪水を合流させることを考慮し、同運河開削等の工事を建設省河川局防災課所管の公共事業として認可を得、特殊災害防除施設工事としてこれを実施することになった。

さらに平野川が昭和二七年に旧河川法準用河川に認定されたことに伴い、その分水路である城東運河も準用河川とされ、平野川分水路の名称を付された。そして、平野川分水路が準用河川とされたことにより、同分水路に関する工事に国庫補助が与えられることとなるとともに、旧河川法九条により、被告大阪府の命令で被告大阪市が工事を施工することになった。

このような経緯で、以後、平野川分水路開削工事は、大阪府が事業主体となり、旧寝屋川水系全体計画の一環である中小河川寝屋川水系平野川改修工事として、国費及び府費により、被告大阪府の委託を受けて被告大阪市が施工することとなった。そして、平野川分水路の開削工事は昭和二七年度の千間川と寝屋川との間の残工事の着手から、昭和三八年の上流平野川との通水に至るまで、一二年の歳月と約二二億円の事業費(昭和二七年度六七〇〇万円、同二八年度ないし同三八年度二一億三五〇〇万円)を要して完成に至った。

以上のとおり認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

二  大阪市下水道(平野処理区を中心に)

1  昭和五七年当時の平野処理区の概況

(一) 次の各事実は、原告らと被告大阪市との間においては争いがなく、原告らと被告国、同大阪府との間においては、《証拠省略》によってこれを認めることができ、これに反する証拠はない。

(1) 下水道の一般的施設

下水道は一般に、下水管渠、ポンプ場(抽水所)、下水処理場の各施設によって構成されている。

下水管渠は地中に網の目のように埋設され、ここに集水桝や雨水桝を通して流れ込んだ家庭、工場の排出した汚水、下水を緩やかな傾斜をつけて最末端の下水処理場に集める役割を果している。また、下水管渠には多数のマンホールが設けられており、下水道の維持管理の用に供されている。

抽水所の主な機能は、雨水については、下水道区域に降った雨を下水管渠を通じて一箇所に集水し、ここから排水ポンプにより河川等に排出して内水区域の浸水を防止することであり、その他汚水については、自然流下のみでは流れ難いため、ポンプで揚水して順次下水処理場へ送水することである。

(2) 大阪市下水道の役割

下水道は一般に、周辺環境の改善、便所の水洗化、水質の保全等の役割を担っているが、大阪市下水道の場合は、上町台地を除くとほとんどの地域が海水面または河川洪水面以下の低地であるという大阪市の地形的特質のため、雨水をポンプで排水して浸水を防止するという重要な役割をも併わせて担っている。

(二) そして、右事実、《証拠省略》を総合すると次の各事実を認めることができる。

大阪市は、昭和五六年度末には陸地面積の九六・一パーセントが下水処理区域となり、流域下水道(他の数都市にまたがって設置される下水道)地域を除いて、一二の処理区に分けて下水処理が行われている。

本件育和地区が含まれている平野処理区は、大阪市東住吉区のほとんどと、同市平野区、同市生野区、同市住吉区、同市阿倍野区の各一部にまたがる二四〇七ヘクタールの区域であり、下水処理場として平野処理場、抽水所として市町抽水所、加美南陽町仮抽水所、今林仮抽水所が設置されている。

下水管渠は、雨水と汚水を区別せずに送水する合流式であり、区域内に生じた下水は、そのほとんどが末端の排水管、桝などの排水設備から、補助線、枝線、幹線といった下水管渠を経由して、最終的には、巽平野市町幹線、加美新家平野市町幹線、苅田平野市町幹線の三本の幹線下水道によって市町抽水所に集水される。そして、市町抽水所では晴天時など下水量が少ないときは、集水した下水は、全部、平野市町平野幹線、平野市町平野第二幹線の二本の下水道で平野処理場に送水され、平野処理場で浄化処理した後、平野川分水路に放流される。これに対し、雨天時で下水の流入量が増加し、平野処理場への送水量が毎秒五・〇一立方メートルを超えたときは、市町抽水所で雨水ポンプを運転して超過分の下水を直接平野川へ放流する(以下、雨水ポンプで平野川へ放流される下水を雨水という。)。

なお、平野処理区における主な下水道幹線の接続状況は、別図10のとおりであるが、そのうち、巽平野市町幹線を通じて市町抽水所へ送水する抽水地域(二三九ヘクタール)は巽地区、加美新家平野市町幹線を通じて同抽水所へ送水する排水地域(三七一ヘクタール)は加美地区、苅田平野市町幹線を通じて同抽水所へ送水する排水地域(一七九七ヘクタール)は苅田地区、とそれぞれ呼ばれている。また、苅田地区の上流域二七三ヘクタールは降雨時に計画汚水量の三倍を超える量の雨水を直接駒川に放流し、大阪市東住吉区今林のうち五〇ヘクタールも降雨時に今林仮抽水所から雨水を平野川に放流するため、いずれも市町抽水所には雨水を送水しない(以下、市町抽水所が雨水を集水する地域を市町排水区という。)。

本件育和地区は苅田地区に属し、市町抽水所の西方に近接した地域に位置する。本件育和地区からの下水は、田辺杭全幹線その他の下水管渠を通って苅田平野市町幹線に合流し、市町抽水所に流入するが、下水道地域としては下流域に位置付けられる。

以上のとおり認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

2  昭和五七年当時の市町抽水所の概況

《証拠省略》を総合すると、次の各事実を認めることができる。

(一) 大阪市平野区平野北一丁目所在の市町抽水所は、敷地面積一万八〇五九平方メートルの抽水所である。

そこには、別表8のとおり、二〇台のポンプが設置されており、その総ポンプ容量は毎秒七五・六八立方メートルである(以下、各ポンプについて、別表8の機番に基づいて、一号ポンプというように特定する。)。そのうち、一号ないし三号、九号ないし一二号ポンプは、下水を平野処理場に送水する際に運転されるポンプであり(以下、これを汚水ポンプという。)、その他のポンプが平野川に直接下水を放流する際に運転されるポンプである(以下、これを雨水ポンプという。)。雨水ポンプは、雨天時で平野処理場への送水が毎秒五・〇一立方メートルを超えたときに順次運転を開始し、その総ポンプ容量は毎秒六八・一六立方メートルである。なお降雨時にも通常は毎秒五・〇一立方メートルの下水が平野処理場に送水されている。

(二) 下水は、下水幹線から取水口を経て、まず沈砂地に流入して除塵、除砂の措置を施された後、ポンプ井に送られ、ポンプによって送水ないし放水される。取水口付近には水位計が設置されており、取水口の水位(内水位)は市町抽水所の監視室において、表示及び自動記録されている。また、ポンプ井の水位、厳密には沈砂地からポンプ井に入る地点の水位は、通常OPマイナス二メートルの低水位に保たれているが、これは汚水の水位を低く保っておくことにより、降雨の際、雨水をより多く貯留するためである。

ところで、巽地区の下水と加美地区及び苅田地区(以下、加美・苅田地区ということがある。)の下水は、別個の沈砂池、ポンプ井に流入する。これは巽地区と加美・苅田地区は地盤高が異なるので本来別の抽水所を建設すべきところを、建設面の経済性及び維持管理面の省力化という考慮から同一敷地内に併設したことによる。その結果、ポンプについても一号ないし八号ポンプは巽地区からの下水を、九号ないし二〇号ポンプは加美・苅田地区からの下水を、それぞれ処理する構造になっている。ただし両ポンプ井の間には連絡ゲートが設けられており、晴天時など下水量が少ないときは右連絡ゲートを開放して、巽地区の下水と加美苅田地区の下水を通水させ、同一の汚水ポンプで平野処理場へ送水するが、巽側のポンプ井の内水位がOP四・〇メートルを超えると、より地盤高の低い巽地区に浸水が生じるので、これを防止するために連絡ゲートが閉鎖される。

以上のとおり認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

3  大阪市公共下水道事業の沿革

《証拠省略》を総合すると、次の各事実を認めることができる。

(一) 公共下水道の概略

公共下水道は、都市生活や生産活動によって発生した汚水を衛生的に処理するとともに、雨水を迅速に排除するため、地方公共団体が設置する下水道である。

公共下水道の設置、改築、維持その他の管理は原則として市町村が行うことになっており、市町村が公共下水道を設置しようとするときは、予定処理区域等を定めた事業計画をたて、建設大臣の認可を受けなければならない。また公共下水道の設置が都市計画事業として施行されるときは、昭和四四年六月一四日より前は内閣の、それ以後は都道府県知事の認可を受ける必要がある。

公共下水道の建設が終われば、公共下水道管理者は、公共下水道によって下水を排除することができる区域(排水区域)及び排水区域のうちで排除された下水を終末処理場によって処理することができる区域(処理区域)を公示する(供用開始の公示)。こうしてできた公共下水道に工場、事業所、一般家庭からの排水設備を接続して初めて公共下水道がその機能を発揮できるのであり、右供用開始の公示がされると区域内の排水はすべて下水道施設を利用して行う法的義務が生じる。

(二) 昭和三四年度までの事業

大阪市は、上町台地を除いて地勢が概ね平坦でその間を大小幾多の河川、運河が貫流し水運に恵まれている反面、低湿地であることと、市街地の排水施設が各町境の幅二、三尺の溝渠のみであったことから、市内の雨水、汚水の排水は極度に阻害され、中小河川の汚濁と溝渠の悪水停滞を除去することは早くからの懸案であった。そして明治一九年及び同二三年のコレラの大流行を契機として衛生設備整備の要請が高まり、明治二七年一二月、市内の溝渠をすべて暗渠(背割下水)化する中央部下水道改良事業が着工され、同三四年に一応完了した。それが大阪市下水道事業のはじまりであった。

周辺部の下水道の改良計画は、明治四四年から大正一一年にわたって実施され、同一一年からは都市計画事業としての下水道改良事業が数期にわたって継続的に施行された。その後、急激な市勢の発展と人口の都市集中、工業の発達等に伴って下水量も増加し、河川等の水質汚濁の防止のために下水を浄化、処理する必要が生じた。このため、昭和三年に決定された総合都市計画に基づいて下水処理計画がたてられ、同一五年には津守、海老江の両下水処理場が通水したが、その後の計画は戦時のため一時中断した。

戦後は、昭和二一年から事業が再開され、西部方面の高潮防止と東部方面の水害防止を主たる目標としたが、産業の復興発展と使用水量の増大、廃水の悪質化に伴う河川汚濁、し尿処理問題解決のため、昭和三二年から中浜、市岡の両処理場建設に着手し、それぞれ昭和三五年、三六年に通水した。その他、戦後の大阪市下水道施設の整備は約一〇〇億円の経費を投じて実施され、昭和三四年度末現在で、下水道の普及状況は別紙6のとおりであった。

(三) 下水道整備一〇か年計画(以下、一〇か年計画という。)

(1) 一〇か年計画の背景

① 豪雨時の浸水

旧来の下水道事業の進展にもかかわらず、地下水の過剰汲上げによる大阪市域の地盤沈下等が原因となって、昭和三二年六月二六日から同月二八日にかけて豪雨(時間雨量五一・七ミリメートル)によって浸水面積四三五〇ヘクタール、浸水戸数約九万戸という被害が生じたのをはじめとして、何回かの浸水被害が生じた。

② し尿処理対策

昭和三〇年代に人口の都市集中により大阪市域のし尿の量が著しく増加したが、一方で化学肥料の普及により、し尿の農村需用がほとんど皆無となり、またし尿の海洋投棄も厳しく規制されたことから、し尿処理のため早急に下水処理場を増設して水洗便所の普及を促進することが必要となった。被告大阪市は、昭和三二年に二つの下水処理場増設工事に着手していたが、規模が小さく、これだけでは不十分であった。

③ 河川の水質汚濁

人口の都市集中に伴う下水放流量の増加や各種産業経済の活況により、市内河川の水質汚濁が年々悪化し、特に寝屋川、平野川、神崎川等の汚濁が著しかった。

④ 舗装道路の増大

自動車時代の到来によって、街路の新設、拡幅や舗装工事が活発になったことに関連して、下水管渠工事をそれに先行して施工する必要が生じた。

このような状況のもとで、被告大阪市は、中浜・市岡両処理場着工を契機として、その他の処理場の建設にも早期に着手して強力な浸水対策を樹立するため、それまでの全体計画を再編成し、今後の下水道事業の推進のため長期計画を策定することとなった。事業は巨額の工費を必要とする大規模なものであり、財政的な見通しも必ずしも十分でなかったが、事態は一日も遅滞を許さない状況であったため、被告大阪市は、昭和三五年度を初年度とする一〇か年計画を発足させた。

そして、右計画は、昭和三六年三月一六日、都市計画法上の建設大臣の認可を得、さらに同三七年三月三一日付で厚生省から、また同三八年一一月二〇日付で建設省から、いずれも下水道法上の認可の指令を受けた。

(2) 一〇か年計画の概要

一〇か年計画は、大阪市陸地面積一万七八〇〇ヘクタールのうち一万四三五八ヘクタール(八〇パーセント)を処理区域とし、下水処理場一〇か所、抽水所一一か所、下水管渠一一七六キロメートルを新設し、予定総事業費を四一四億円(現実の投入事業費五一七億円)とする大規模なものであった。その全体的内容のうち、主要なものは次のとおりである。

① 排水区域の再編成

大阪市の市域が拡張し、殊に周辺部の人口が大幅に増加して農地の市街地化が進んだことにより、計画に当たっては、従前の二倍以上の地域を事業対象とする必要が生じた。また工事廃水及び家庭廃水が急増して、既設の処理場の処理可能容量を超過するようになり、従前の処理分区も、より細分化する必要に迫られた。このような理由から、従前の下水処理計画における排水区域すなわち処理分区を再編成し、従前の八処理分区から別表6のとおり一二処理分区とした。そして各処理分区ごとに具体的な下水処理計画を定めた。

なお本件育和地区は、一〇か年計画において平野処理分区に含まれることとなった。

② 汚水量

汚水量の算定については、従来、一人一日平均計画汚水量を二〇〇リットルとして実施されていたが、流入汚水量が急増して計画汚水量をはるかに超過するようになったため、流入汚水量の実態及び上水道計画等を調査の結果、大阪市全体の一人一日平均計画汚水量として四〇〇リットルを採用し、各集水区の人口密度や給水量の差を考慮して、平野処理分区の一人一日平均汚水量は三五〇リットルとした。

③ 雨水流出量

雨水流出量の算出に当たっては、降雨強度を毎時六〇ミリメートルとし、流出係数は平坦地で〇・五、急傾斜地で〇・六とし、雨水流出量の算定式には昭和一二年以降使用されてきた実験式の一つであるブリックス式(別紙1―(2))を採用した。

(3) 平野処理分区における計画内容

昭和三五年、一〇か年計画策定当時の平野処理分区は、東住吉区の大部分と、生野、住吉、阿倍野の各区の一部を包含する一五五八ヘクタールの地域で(別図8)、従来その大半は農地であり、戦後急速に発展してきた地域であった。そして、当時はまだ農地が占める比率が高かったため、下水道の整備は比較的遅れた状況にあり、旧平野郷地区、田辺・駒川地区に総延長八万一七八九メートルの下水道が整備されていたにすぎず、その他の区域の排水は、平野川、鳴戸川、今川、駒川等の諸河川と多数の農業用水路に依存していた。その排水経路は別図9記載のとおりであるが、それらの河川、水路の水位が高いため、良好な排水ができなかった。

こうした状況下での平野処理分区における一〇か年計画の内容は、下水管渠の大幅な増設による下水道網の整備と併せて、平野処理場を新設して平野川、同分水路等の河川の水質改善を図るというものであって、その概略は次のとおりである。

① 下水管増設 二四万三八八一メートル

主要幹線

苅田平野幹線 七九一六メートル

田辺杭全幹線 二四九一メートル

鷹合中野幹線 三一四一メートル

巽平野幹線 三〇五三メートル

② 平野処理場新設(生野区巽四条町地内)

計画人口 三一万一〇〇〇人

計画汚水量 一日一二万九〇〇〇立方メートル

処理方法 沈殿法

放流河川 平野川分水路

(4) 平野処理分区における事業実施状況

一〇か年計画における平野処理分区の計画下水管渠延長二四万三八八一メートル、計画排水面積一五五八ヘクタールのうち、昭和四二年度末現在の下水管渠延長は九万九五四九メートル、排水面積は四〇〇ヘクタールであり、下水管渠整備の点での事業達成率は二五・七パーセントであった。また平野処理場は用地取得が難航し、昭和四二年度末には着工すらできなかった。

(四) 大阪市第一次下水道整備五か年計画(以下、第一次五か年計画という。)

(1) 第一次五か年計画策定の背景

一〇か年計画の進捗の間において、従来計画区域外とされていた周辺地区が開発等によって市街化が進んだことにより降雨時の流出量が増大し、昭和四二年七月に豪雨によって浸水面積一一一〇ヘクタール、浸水戸数六万三三〇〇戸という甚大な浸水被害が発生した際、その浸水区域中に前記の一〇か年計画対象区域外の地域も含まれていた。また工場廃水の増加による河川の汚濁もさらに進行し、大きな社会問題となった。

こうしたことから、下水道に関連する生活環境の改善が急務となり、より短期間に強力な下水道整備を進める必要が生じたため、昭和四三年、被告大阪市は、一〇か年計画の最終年度を待たずに、従来の計画を刷新拡大する第一次五か年計画を策定し、昭和四三年一二月二八日に都市計画法上の建設大臣の認可を得た。

(2) 第一次五か年計画の概要

第一次五か年計画は、全市域で、管渠敷設一五一八・六キロメートル、抽水所の新、増設一九か所、処理場の新設、拡張一二か所を実施するという内容のものであった。

右のうち、平野処理分区における計画内容は、まず計画排水区域が、一〇か年計画の一五五八ヘクタールから、従来都市下水路事業として既存の農業用水路等の改修、排水路の新設等が実施されていた加美町地区、平野中町地区、喜連町地区等を新たに加えた二一六一ヘクタールに拡大された。

また、第一次五か年計画における計画人口は四三万二〇〇〇人、計画処理水量は日量二七万立方メートル、計画雨水流出量はブリックス式で毎秒四八・〇八立方メートルと算定された。その具体的事業の主たる内容は、下水管渠を五二七キロメートルまで延長すること、及び下水処理場から分離して市町抽水所を建設することであった。

従来、経済性ないし地形的一体性という観点から平野処理場に抽水所の機能を兼ね備えさせる計画であったのが、第一次五か年計画によって抽水所を処理場から分離させることになったのは、当初、処理場の用地取得が難航し、昭和四〇年に平野区加美北地区に処理場用地を取得することができたものの、抽水所の機能を兼ね備えさせるには広さが不十分であったこと、また当初の予定地よりも約一キロメートル東に位置することとなった右処理場用地まで大きな下水幹線を敷設することが経費及び敷設場所の取得の点でいずれも困難であったことによる。そして、昭和四三年に、排水区域の下流にあって公共水域にも近く、かつある程度の広さがあるという抽水所に適した用地を、平野区平野北地区に取得することができたため、被告大阪市はここに抽水所を建設することとし、昭和四三年一〇月に建設工事に着手し、同四五年七月に平野市町抽水所として完成し、同四六年六月に通水した。また、昭和四七年四月二〇日には平野処理場が通水し、平野処理分区は独自の終末処理場を有する平野処理区となった。さらに下水管渠も昭和四四年度から同四七年度までに約三四四キロメートル延長された。

以上のとおり認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

第三八月豪雨と本件浸水被害

一  八月豪雨

1  当事者間に争いのない事実

昭和五七年八月一日から同月三日にかけて、台風一〇号及び低気圧の影響により大阪府下全域に強い雨が降ったこと、そのうち寝屋川水系における八月二日から八月三日にかけての低気圧の影響による降雨経過が別表1記載のとおりであること、中竹渕観測所(以下、中竹渕という。)で観測された最大時間雨量(一時間当たりの最大降雨量)が三九・五ミリメートルであったことは、当事者間に争いがない。

2  右争いのない事実に、《証拠省略》を総合すると、次の各事実が認められる。

(一) 台風一〇号による豪雨

(1) 昭和五七年七月二四日午前三時、南鳥島の南南東、北緯一四度五五分、東経一五七度四〇分付近で発生した台風一〇号(中心気圧九九六ミリバール)は、次第に勢力を強めつつ進路を西北西ないし北北西にとって、同年八月一日午前九時には鳥島の西南西約三五〇キロメートルの海上(北緯二九度一〇分、東経一三六度五分)に達し、同日午後九時頃には潮岬の東南東約一〇〇キロメートルの海上(北緯三三度〇五分、東経一三六度五五分)に進み、そこから北上を続けて、同月二日午前〇時頃、中心気圧九七〇ミリバールの大型、並の勢力で渥美半島を通過、三河湾を経て愛知県に上陸し、上陸後もほとんど勢力を衰えさせずに、岐阜県、富山県、石川県を北、北北東、北北西と蛇行しながら、同日午前五時頃、能登半島から日本海へ抜けた。

(2) 大阪府では、同月一日午前〇時頃から、南岸に停滞していた前線が台風一〇号の北上に伴って刺激され、活発化した前線による前期降雨と呼ばれる降雨が始まり、同日午前七時から午前九時にかけて前線による降雨のピークが現われ、昼前後には一時小降りとなったが、同日午後三時頃から台風本体による雨が強まり、同台風が大阪府に最も近づきつつあった同日午後八時頃から最接近の同月二日午前〇時頃にかけて最も強い降雨があったが、同台風が遠ざかった同日午前五時頃には終息した。

(3) この間、寝屋川水系付近の降雨量は、寝屋川水系改修工営所の観測記録によれば、大阪市平野区所在の中竹渕で総雨量一一四ミリメートル、最大時間雨量一一・五ミリメートル、大阪府八尾市福万寺町所在の恩知川堰で総雨量一一九ミリメートル、最大時間雨量一五ミリメートル、大阪市城東区所在の寝屋川工営所で総雨量一三二ミリメートル、最大時間雨量一八ミリメートル、大阪府大東市深野橋所在の五軒堀新橋において総雨量一三〇・五ミリメートル、最大時間雨量一五・五ミリメートルに達した。

また、平野市町抽水所における降雨経過をみると、同年八月一日午前三時頃から降雨が始まり、同日午前八時にいったん降り止むまでの五時間に二八・五ミリメートルの雨量を記録し、その後、同日午前一〇時半頃から再び降雨が始まり、同月二日の午前三時半頃に降り止むまでの一七時間に九二ミリメートルの雨量を記録し、同月一日からの降雨期間を通算しての総雨量は一二〇・五ミリメートル、最大時間雨量は、同月一日午後一一時二〇分から一時間の一五ミリメートルであった。

(二)(1) 昭和五七年八月二日、台風九号の一部とみられる一〇〇〇ミリバールの低気圧が東支那海東部をゆっくりと東に進み、同日午後九時、右低気圧が九州南海上に達した頃から大阪府で降雨が始まり、河内長野市では、同月三日午前二時から同日午前三時にかけて一時間三〇ミリメートルの強雨となった。そして、右低気圧は、同日午前九時には、四国南海上を紀伊水道に進み、一〇〇六ミリバールの気圧を示したが、それに伴って大阪府の強雨域もやや北上し、堺市で同日午前八時から午前一〇時にかけて一時間三〇ミリメートル前後の強い雨があった。その後、同日午前一二時には、右低気圧は紀伊半島を抜け、大阪府の雨も同日午前一〇時頃を峠に、同日午前一二時頃には終息した。そして、右低気圧による大阪府下の最大降雨は、総雨量で大阪府松原市における一六八・五ミリメートル、最大時間量で大阪府泉南郡阪南町における四五・五ミリメートルであった。

(2) 右低気圧による寝屋川水系付近の降雨経過は、前記中竹渕で同月二日午後一〇時に降り始めた時から同月三日午前一〇時前に止むまでの間に一五〇・五ミリメートルの総雨量を記録し、最大時間雨量が同月三日午前八時から午前九時までの三九・五ミリメートルであったのを初めとして、別表1―(1)のとおりである。

また、市町抽水所における右低気圧による降雨経過は、同月二日午後一〇時頃から降雨が始まり、同月三日午前五時三〇分には総雨量五〇ミリメートル、同日午前八時頃には総雨量一〇〇ミリメートルに達するという激しいものであり、結局、同日午前九時四〇分に降り止むまでの総雨量は一四一・五ミリメートル、最大時間雨量は同日午前八時から一時間の三三ミリメートルであった。なお市町抽水所における時間雨量の経緯は別表1―(2)のとおりである。

(三) さらに昭和五七年八月一日午前二時から同月三日午後三時までの通算雨量すなわち前記台風一〇号による降雨量と低気圧による降雨量を合計したものをみると、寝屋川水系の流域においては、大阪府八尾市所在の八尾観測所で二五六ミリメートル、大阪府東大阪市所在の枚岡観測所で二八三ミリメートルなど、概ね一五〇ミリメートルないし三〇〇ミリメートルに達している。

以上のとおり認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

二  本件浸水被害

1  浸水の規模、範囲

昭和五七年八月三日、本件育和地区に八月豪雨による浸水被害が発生した事実については、当事者間に争いがない。

右争いのない事実に、《証拠省略》を総合すると、次の各事実を認めることができる。

(一) 寝屋川流域の浸水状況

本件水害当日の豪雨による寝屋川流域内の浸水状況は、床上浸水が六七七八戸、床下浸水が四万三二六二戸であったが、そのうち大阪市域は床上浸水が五九三四戸、床下浸水が二万一五七四戸と高い割合を占めた。そして、大阪市域で特に浸水戸数が多かったのは東住吉区と平野区であり、東住吉区は床上浸水四一五一戸、床下浸水一万一〇二八戸、平野区は床上浸水が一五一一戸、床下浸水が六七六二戸であった。

さらに東住吉区内においては、市町抽水所周辺と苅田地区の下水道の下流域に比較的浸水が集中した。

(二) 本件育和地区における浸水状況

次に、本件育和地区はすべて浸水地域に含まれており、その浸水水位は、地盤高の高低や盛土の程度によって、床上浸水の場合も一七センチメートルから一メートルまでかなり広い幅にわたって分布し、かつ浸水時間も種々であるが、原告一の場合は別表14のとおりの浸水位まで床上浸水し(具体的水位については不明の原告もいるが、《証拠省略》によりこれらの原告についても床上まで浸水したものと認めることができ、右認定に反する証拠はない。)、原告二の場合は床下まで浸水し、原告三(原告サンコー、原告山本及び原告上出を除く。)の場合は別紙損害目録記載どおりの水位まで浸水し、さらに原告サンコーの場合は六、七〇センチメートル、原告山本の工場倉庫の場合は床面から約一メートル、原告上出の倉庫の場合は床上約六〇センチメートルまで、それぞれ浸水した。

2  浸水の経緯

本件水害における浸水の経緯については、原告らの供述以外にはこれを確実に認定しうる証拠がない。そこで、まず原告らの供述から個々の浸水状況を認定したうえで、それらの認定事実を総合して浸水経緯を推認することとする。

(一) 原告らの目撃状況

(以下の個々の認定事実のうち時刻に関する部分は、いずれも厳密に正確なものではなく、ある程度の幅のあるものである。)

(1) 原告竹村本人尋問の結果(第一回)によると、次の事実が認められ、これを覆すに足る証拠はない。

竹村は本件水害当日午前六時一〇分頃、近所の住民の浸水を知らせる声を聞いて外に出たが、その時既に側溝に水がたまり戸の隙間から屋内に流入しそうな状態であり、かつ自宅前の道路上の左右約一〇メートル離れた地点にある二個のマンホールの蓋の小穴から、いずれも下水が噴水のように噴き上っていた。

竹村の家屋内に水が流入した後の浸水の速度は非常に速く、午前七時頃には水位が床面にまで達し、午前一〇時頃床上一〇センチメートル程度で増水がいったん止まったが、既に降雨が終息していたにもかかわらず午前一一時を過ぎた頃から午後一時頃まで水嵩が増し、最高床上二五センチメートルまで浸水した。その後午後四時頃から水が引き始めたが、それ以降三〇分ないし四〇分で急速に退水した。

(2) 原告野田及び桑原各本人尋問の結果によると、次の事実が認められ、これを覆すに足る証拠はない。

原告野田は、本件水害当日午前六時頃、隣家からの通報によって浸水が始まったことに気づいたが、その時点で原告野田宅の庭は既に二〇センチメートルほど冠水しており、午前八時過ぎ頃、原告野田宅の床上一〇センチメートルまで浸水した。その後も浸水位は上昇し、正午前に床上約六〇センチメートルまで浸水した後、そのままの状態が午後四時頃まで続き、同時点で水が引き始めた。退水が始まってから完了するまでの時間は短かかった。

(3) 原告宮本本人尋問の結果によると、次の事実を認めることができる。

原告宮本は、水害当日午前六時半頃、町会の役員から浸水が始まるかもしれないという知らせを受け、外へ様子を見に出たところ、道路を水が川のように流れ、マンホールから水が噴き出しているのを目撃した。午前七時頃、原告宮本宅でも浸水が始まり、床上まで急速に浸水し、昼過ぎには床上約六、七〇センチメートルの高さまで達した。水が引き始めたのは午後三時過ぎであり、退水速度は最初は緩慢であったが徐々に速くなり、完全に退水するまでにそれほどの時間はかからなかった。

以上のとおり認められ、《証拠判断省略》、他に右認定を覆すに足る証拠はない。

(4) 原告船津の尋問結果によると、次の事実が認められ、これを覆すに足る証拠はない。

本件水害当日午前八時頃、原告船津が出勤のために家を出たところ、原告船津宅前の下水会所やマンホールから水が逆流するような感じで溢れ出て来るのを目撃し、午前九時頃には原告船津宅の床下に水が流入し、床下(畳の下)四センチメートル、土間面上三一センチメートルの高さまで浸水した。水は、しばらくの間右状態のまま滞留したが、昼ごろには引き始め、一時間弱の間に退水した。

(5) 原告仲村本人尋問の結果によると、次の事実が認められ、これを覆すに足る証拠はない。

本件水害当日の午前七時半頃、原告仲村が、近所の人の浸水を知らせる声で外に出ると、原告仲村宅玄関の正面にあるマンホールの蓋が煮沸した鍋の蓋のように動き、その下から水が約二五センチメートルの高さまで噴出していた。また、原告仲村宅内でも、水洗便所の水が逆流して溢れてきた。マンホールから噴出した水は、原告仲村宅内に玄関から流入し、午前九時近くには床上まで浸水した。午前一一時頃には雨は止んでいたにもかかわらず、その後も水嵩が約五センチメートル増加し、最終的に水位は床上二五ないし三〇センチメートルにまで達した。水は午後四時頃からようやく引き始めたが、退水速度は極めて速く、午後五時頃には玄関の土間面まで引いた。

(6) 原告椿本本人尋問の結果及びこれにより成立を認める甲第三二号証の一並びに昭和六〇年四月八日実施の検証の結果によると、次の事実が認められ、これを覆すに足る証拠はない。

原告椿本は、午前七時頃豪雨によって道路が冠水しているのを目撃し、降雨がなお激しいため、浸水のおそれを感じて注意していた。午前八時三〇分頃、原告椿本宅前のマンホールから下水が逆流して溢れ出ているのを目撃したが、原告椿本宅が約三〇センチメートル盛土をした上に建てられていたため、玄関から水が流入したのは午前九時三〇分頃、床上まで浸水したのが午前一〇時三〇分頃と、他の家屋よりも比較的遅かった。雨は午前一一時頃には降り止んだが、雨が止んだ後も水は引かず、むしろ少し増水した感じであり、結局、最高床上四五センチメートルまで浸水し、午後三時三〇分頃水が引き始め、約一時間で完全に退水した。

なお、原告椿本宅前道路にある薬品店の看板の路面から六二センチメートルの高さの箇所に浸水の痕跡が残ったのが認められた。

(7) 原告小倉正広(以下、小倉という。)の尋問結果及び昭和六〇年四月八日の検証の結果によると、次の事実が認められ、これを覆すに足る証拠はない。

午前七時頃、原告小倉宅の床下にある家庭排水の排水口と、浸水の際の排水を促進するために原告小倉がビニール管で作った排水口の両方から、水が逆流し始め、午前九時頃には床上まで浸水した。浸水位は最高床上四九・五センチメートルに達したが、その水位まで達すると、水が原告小倉方前道路を南から北へ流れたため、それ以上の増水はなかった。そして午後三時過ぎには退水した。

なお、原告小倉宅勝手口の内側の床上七三センチメートルの高さの箇所に浸水痕が残った。

(8) 原告桑原本人尋問の結果(第一回)及び前記ビデオテープ一巻の検証結果を総合すると、次の事実が認められ、これを覆すに足る証拠はない。

原告桑原は、本件水害当日午前七時過ぎに原告桑原が経営する原告大栄産業の倉庫に行ったが、側溝から溢水した水が右倉庫に流入しかけているのを目撃した。午前八時頃、原告桑原が倉庫の避難作業を従業員に任せて、近所に居住する老齢の原告野田れい方の避難作業の手伝いに行った後、午前九時過ぎ頃原告桑原の自宅に帰ると、自宅でも浸水が始まっていた。

原告桑原は、自宅での家財道具の避難作業を一応終えた後、午前一〇時前頃からビデオカメラを持って町内の浸水状況を撮影しに出かけた。降雨は午前一〇時過ぎ頃には止んだが、浸水位は、その後の午前一一時頃にかえって少し高くなった。原告桑原が撮影しながら歩いた街路の浸水位は、浅い所で約三〇センチメートル、深い所では七〇センチメートル以上であった。また、冠水している道路のマンホール部分で水が泡立っているのが確認され、それによってマンホールから水が噴出していることが窺えた。なお、水は午後四時頃引き始めた。

(9) 原告森田商行代表者尋問結果によると、次の事実が認められ、これを覆すに足る証拠はない。

本件水害当日の朝、側溝の水が逆流し、午前八時前には、原告森田商行倉庫前の道路は約一〇センチメートル冠水して浸水が始まっていた。原告森田商行の倉庫の床面は道路面より約三〇センチメートル高くなっているが、浸水位は急速に上昇し、午前九時前には倉庫の床上六〇センチメートルに達した。退水は午後一時過ぎ頃から始まり、午後二時三〇分頃には終わった。

(10) 証人田中の証言によると、次の事実が認められ、これを覆すに足る証拠はない。

本件水害当日午前七時三〇分頃、田中が、その勤務する原告大弥食品に出社したところ、工場社屋前の道路が一部冠水し、浸水が始まっているのを目撃した。浸水速度は非常に速く、一時間以内に原告大弥食品の工場内で六六センチメートルの深さまで浸水した。午後二時近くに退水が始まったが、退水の速度も速かった。

(11) 証人上山の証言によると、次の事実が認められ、これを覆すに足る証拠はない。

本件水害当日、上山は、その勤務する原告錦盛堂印刷の近くにあるマンホールから、泡立つような状態で下水が逆流するのを目撃した。水は、原告錦盛堂印刷一階工場の周囲に浸水防止のために設置された高さ約六〇センチメートルのブロック塀を越えて、工場内に流れ込み、工場の床面から約八五センチメートルの水位まで浸水した。浸水時間は約七時間にわたった。

(12) 証人沼田国利(以下、沼田という。)の証言によると、次の事実が認められ、これを覆すに足る証拠はない。

本件水害当日、沼田は、その勤務する原告生野工芸から二、三〇メートル離れた地点にあるマンホールから下水が湧出し、午前九時半頃から浸水が始まったのを目撃した。浸水位は床上四〇センチメートルに達し、午後三時頃退水が完了するまでの間、約五時間二〇分にわたって浸水が続いた。

(二) 浸水の態様、経緯の検討

右(一)(1)ないし(12)で認定した本件浸水に関する個々の状況のうち、浸水の態様はほぼ共通しているといえるが、浸水開始時や退水時などの時刻の点では異なるところがある。しかし、後者の点は、本件育和地区中でも、各原告の所在地域によって地盤高などに差異があること、及び原告らが避難活動に気を奪われるなどのため、個々の事象について厳密に正確な時刻を記憶することができず、したがって時刻についての認定もかなり広い幅のあるものとならざるをえなかったことなどによるものであって、さして異とするに足りない。そのことを前提として、右個々の浸水状況を総合して推認することのできる本件浸水の態様、経緯は、次のとおりである。

(1) 本件浸水は、マンホール、下水会所、排水口、水洗便所といった下水管渠末端開口部からの下水の逆流噴出によって惹起されたものである(なお、原告宮本和子は、その本人尋問において平野川に架けられた今橋の橋桁から溢水していた旨供述するが、右供述は原告小倉正広の尋問結果及び弁論の全趣旨に照らしてにわかに措信することができず、他に今橋における溢水の事実を認めるに足る証拠はない。)。

(2) 右下水の逆流噴出は午前六時頃から始まり、原告ら方のうち、早いものでは午前七時頃から家屋内に水が流入し始め、そのうちの相当数の家屋が床上浸水したが、その多くは、午前九時前後頃に水位が床上に達した。

(3) 本件水害当日、降雨は午前中に止んだが、浸水位は降雨が止んだ後もかえって上昇し、昼過ぎに浸水位が最高に達した事例が多い。

(4) 退水が始まったのは、本件水害当日午後三時ないし四時頃であり、退水速度はかなり速く、おおむね一時間程度で退水が完了した。

第四本件浸水被害の原因

前記第三の二2の認定のとおり、昭和五七年八月三日に、本件育和地区周辺で発生した本件浸水の原因は、原告ら居住地区に敷設されている下水管渠から、マンホールや排水口等を通って下水が溢水したことによるものである。

ところで、前記下水管渠からの溢水原因について、原告らは、(一) 府計画の内容自体に欠陥があったこと、(二) 市町抽水所のポンプ容量の設定など被告大阪市の下水道計画(以下、市計画という。)の内容に欠陥があったこと、(三) 市町抽水所の排水ポンプの調整運転を行ったこと、の三点を主張している。そこで右主張の当否を判断するのに必要な事実をまず確定したうえで、本件浸水の原因に関する原告ら及び被告らの主張の当否を逐次検討することとする(なお、原告らは府計画及び市計画の不合理性を、むしろ後記第五の営造物の設置管理の瑕疵の主張を理由づける事情として主張するのかとも考えられるのであるが、本件では、浸水の原因、すなわち下水の溢水という現象の原因を探究する過程で、府計画及び市計画に溢水を惹起した要因がなかったかどうかを分析検討する必要があり、また、平野川等の河川及び平野処理区の下水道施設の設置管理の瑕疵の有無を決める前提として本件浸水の原因を解明することが不可欠であるから、ここでは、まず本件浸水の原因について、府計画及び市計画の合理性の点も含めて検討し、そのうえで浸水原因に関する各被告の責任について判断する。)。

一  府計画

請求原因三1、同三2(2)の事実、及び同三2(三)のうち第一段落を除くその余の事実は、原告らと被告国、同大阪府との間において争いがない。

そして、右争いのない事実と、《証拠省略》を総合すると、次の各事実を認めることができる。

1  府計画の背景

(一) 寝屋川水系河川の改修の必要性

第二の一1で認定したとおり、低湿地からなる寝屋川水系流域は、極めて排水条件が悪く浸水を生じやすい自然条件下にあったが、淀川、大和川の治水工事が行われてからは、流域内の大部分が湿田等で保水能力が高かったことから、淀川、大和川の外水氾濫がなければ大きな被害とはならなかった。そのため、淀川、大和川の外水対策は歴史的に実施されていたにもかかわらず、寝屋川流域独自の洪水に対する本格的河川事業は行われず、わずかに平野川沿川で、前記耕地整理、区画整理に伴う河道修正(新平野川の開削)が行われたのみであった。

しかし、戦後になって、大阪市に隣接する寝屋川流域は、交通の利便性もあり、商都大阪の後背地としての社会的要請が高まり、都市化が徐々に進展し始め、それに伴って湿田の排水改良や宅地化等が進められたが、そのためにかえって湿田による保水能力が失われ、寝屋川流域自体の降雨によるいわゆる内水氾濫の被害が顕在化し、昭和二七年、同二八年には数度にわたって浸水被害が発生するに至り、寝屋川水系流域の土地利用の変化に対応した河川改修が必要となった。

(二) 河川改修計画の一般的作成過程

河川改修計画は、まず、当該計画の対象とする降雨を決定し、その降雨のもとで河川にどのような洪水が生じるかを初めから終わりまで定量的に想定して一つの洪水の形すなわち基本高水を算定したうえ、この基本高水の安全な処理計画を立案するという手順で、これを策定するのが一般である。

(三) 旧計画

旧計画は、右(一)記載のような要請のもとに、昭和二九年三月に策定された。旧計画においては、昭和二五年までの資料をもとに、二〇年後の昭和四五年における流域の状況を、現況の市街化率二五パーセントが四五パーセント程度には増加するが農耕地等自然の遊水保水機能も依然残されている、いわゆる田園都市であると想定した。

その内容は、計画対象降雨として明治二九年八月三〇日の大阪での降雨(総雨量一七五・六ミリメートル、最大時間雨量六一・八ミリメートル)を流出係数として〇・二五ないし〇・三五を各採用し、流出量を流出函数法による単位図法で算出する、というものであった。その結果、旧計画における計画高水流量(河川の計画流下可能量)は、最下流の京橋口地点で毎秒五三六立方メートルとされた。

旧計画は、その主要事業である平野川分水路の開削が昭和三八年に、第二寝屋川の開削が昭和四三年にそれぞれ概成したなどの成果が上った。

(四) 旧計画策定後の状況

昭和三〇年代後半からの高度経済成長は、大都市周辺の人口と産業の集中をもたらし、寝屋川水系流域の市街化も旧計画の予想をはるかに上回った。すなわち、東大阪地域(枚方市、寝屋川市、守口市、門真市、大東市、交野市、四条畷市、東大阪市、八尾市、柏原市)の農地面積は、昭和三三年に一万一四五〇ヘクタールであったのが昭和四七年には五一〇〇ヘクタールに減少し、逆に寝屋川水系流域(大阪市域を含む)の人口は、昭和三〇年に一六四万人であったのが昭和四七年には二八〇万人に増加した。このような急激な市街化は、農耕地の減少による遊水機能の低下、急激な人口増加による流出量の増大、地下水の過剰汲上げによる地盤沈下の進行などを招き、治水環境の悪化を一層深刻なものとした。

また、寝屋川流域の七五パーセントを占める区域に寝屋川流域下水道、大阪市公共下水道などの下水道整備が進められたことによって、流出機構が大きく変化した。すなわち、旧計画ではある程度湛水を許容するとされた平野部から、逆に市街地排水が強制的に河川へ放流されるようになった。さらに、昭和三二年六月に八尾で観測された降雨が、旧計画で対象とした明治二九年の規模をはるかに上回るものであったことから、計画対象降雨を見直す必要も生じた。

こうした実情に対処するため、昭和四〇年から治水計画規模を拡大した府計画の策定作業が開始され、昭和五一年二月に建設大臣の認可を得た。

2  府計画の概要

(一) 基本高水の確定

府計画では、計画対象降雨として、昭和三二年六月二六日から同月二七日にかけて八尾市内で観測された既往最大実績降雨(総雨量三二六・一ミリメートル、最大時間雨量六二・九ミリメートル、その降雨波型(パターン)は別表2のとおりである。)が寝屋川水系流域全体に一様に降ったと仮定したものを採用した。そして、寝屋川水系流域を、外水区域については生駒山系の各支川ごとに、内水区域については下水道計画上の各集水区ごとに分割し、分割した各区域ごとに河川への流出量を算出したが、その算出方法は、計画対象降雨下における各時間の降雨強度に対する流出量を別紙1―(1)の合理式によって計算し、それを単位図法(別紙8―(1)ないし(3))によって各時刻ごとに合成するというものである。なお、合理式における流出系数は、当時の河川計画上の最安全値である〇・八〇を用いた。ただし、内水区域は、そのすべてが下水道の計画対象区域であって、下水道計画に定める計画対象規模及び流出計算法によって各集水区の計画排水量すなわち排水ポンプ容量が決められているため、寝屋川水系に排水ポンプ容量以上の水量が流入することはない。したがって、内水区域については、外水区域と同様の流出計算を行ったうえで排水が下水道施設を通じてどのように河川に放出されるかを想定し、排水ポンプで排出できる容量を最大限度として河川への流出量を算出した。なお、市町抽水所からの流出量は、市町抽水所の最大排水可能量を毎秒六〇・〇立方メートルとして算定された。

右の方法で外水、内水の各区域からの河川への流出量を算出したのに次いで、河川の流量が上流から下流に向けてどのように変化していくかを、貯留関数法の一手法であるパルス法を用いて計算し、河道の各地点における基本高水を得る。その結果、最下流の京橋口における基本高水のピーク流量(基本高水流量)は毎秒一六五〇立方メートルとなり、その他の寝屋川水系各地点の基本高水流量は別図1のとおりとなった。

(二) 洪水処理計画

通常、中小流域の河川改修は、河道改修によって洪水を全量流下させることを目的として行う場合が多い。しかし、寝屋川水系においては、旧計画による最下流の京橋口における流下能力を毎秒五三六立方メートルとする工事が概成していただけであり、さらに毎秒一六五〇立方メートルの基本高水流量の全部を河道改修によって流下させるためには寝屋川流域下流部の河川の流下能力を三倍以上に増加させなければならないが、当時既に市街化が進展していた同流域下流部でそのような河道改修工事を行うことは、次のとおり極めて困難であった。

(1) 河川幅を拡げる拡幅方式を採用すれば、海から大阪市の都心部を流れる堂島川、土佐堀川を含めた全川を二、三倍に拡幅しなければならないが、河川敷地の確保には、高度に発達した市街地における建物の撤去、約二五〇橋ある橋梁全部の改築等が必要であり、既成市街地の社会的経済的活動に計り知れない影響を与えるとともに、工事実施に膨大な費用と時間を要する。しかも治水効果は河道改修が全区間完了するまで発揮されない。

(2) 堤防を嵩上げする嵩上方式を採用すれば、寝屋川流域内約二〇〇の全橋梁及び橋梁取付道路、鉄道等の嵩上げが必要で、都市機能に与える影響が大きい。また都市の美観、生活環境上も問題を生じ、さらに治水上も高い護岸の潜在的危険性、内水区域の増大などの重大な問題を生じる。

(3) 河床を掘り下げることによって断面積を増す掘込方式を採っても、寝屋川水系のような感潮河川においては、流下量が増大することを期待できない。

そこで、寝屋川水系の洪水処理方法について、次の(1)ないし(3)の検討が進められた。

(1) まず、河道改修方式により、河床をできるだけ掘下げ、現河川幅で通水断面の最も大きい矩形断面に改修し、水位を都市機能に致命的な影響を与えない程度に抑えることにより、京橋口における下流の旧淀川への流下可能量(計画高水流量)を毎秒約八五〇立方メートルとする。

(2) 次に、放水路方式により、現状の施設、水路を可能な限り有効に利用することとし、左の①、②の方法で毎秒約四六〇立方メートルを処理する。

① 城北運河を利用して、毛馬排水機場から淀川へ毎秒約二〇〇立方メートルを放流する。

② 寝屋川上流部より寝屋川導水路(浄化用水路)を通じて、淀川へ毎秒約二六〇立方メートルを放流する。

(3) 残りの毎秒約三四〇立方メートルの処理については、まず、中央環状道路や恩智川上流部に管路を敷設して排水ポンプで大和川へ放流する案が、成案間際まで至ったが、長距離の管路の維持管理やポンプ能力の問題から結局、採用されなかった。そして、用地取得上、多くの問題があるものの、① 他の方法に比べて治水上、非常に安全であること、② 用地が取得できれば工期は短く、かつ分割施工が可能であって、効果が直ちに発揮できること、③ 常時の維持管理が容易で、公園、防災空地等に有効利用できること、④ 都市計画上、他の都市施設に与える影響が少ないこと、などの理由により、河川の中上流部に調節池を設けて下流の流下能力を超える洪水を貯留する遊水池方式を採用し、毎秒約三五〇立方メートルを処理することとした。

結局寝屋川水系洪水処理計画の最適計画として、現河道改修により毎秒八五〇立方メートルを、城北運河の利用により毎秒二〇〇立方メートルを、寝屋川導水路の利用により毎秒二六〇立方メートルを、治水緑地で調節することにより毎秒三五〇立方メートルを、それぞれ処理することが決定され、寝屋川水系河川の河道改修による計画高水流量配分は別図2のとおりとなった。

(三) 平野川、同分水路の計画流量

平野川流域は、ほとんどすべて内水区域であり、上流の流量は下水道計画によってその最大値が決まる。したがって、洪水量の急激な増加がないから、洪水波型は平たいものとなり、貯留方式は、より大きな容量が必要となって計画上不利である。そこで、平野川、同分水路では、すべて河道改修で洪水処理を図ることになった。すなわち、上流からの流量及び市町抽水所からの放流量の合計毎秒一一〇立方メートルを、平野川へ毎秒六〇立方メートル、同分水路へ毎秒五〇立方メートルにそれぞれ分水し、それぞれ下流部において合流する河川や流入する下水道の流量を加えて、第二寝屋川合流地点では、平野川において毎秒一〇〇立方メートル、同分水路において毎秒九〇立方メートルが、計画高水流量となった(別図2参照)。

3  府計画に基づく平野川、同分水路の改修

(一) 平野川、同分水路の改修計画

府計画における平野川、同分水路の改修は、護岸嵩上げ工事が後記のとおり府計画を先取りする形で既に実施されていたため、護岸の改修、河床の掘削、橋梁の改築、及び平野川分水路排水機場の設置を主な内容とするものであった。

(1) 護岸改修

平野川、同分水路は、密集した市街地の中を貫流していて拡幅ができないため、既存の護岸をできるだけ利用して、下流部から老朽化した護岸の補強及び護岸基礎部の補強(根固め)を行う、その方法として、護岸の前面に、平野川で一二メートル余り、同分水路で一九ないし二〇メートルの長さの鋼矢板を打設し、その鋼矢板打設箇所から既存の護岸を補強する形で前面をコンクリートで被覆する方法を採用した。

(2) 河床の掘削

平野川、同分水路は密集した市街地内にあり、大幅な拡幅、嵩上げが不可能なため、流水断面の拡大は河床掘削によって行うことになり、府計画では、平野川は第二寝屋川合流点から約五・五キロメートルにわたって神子橋地点まで、平野川分水路は全川にわたって河床を二メートル掘り下げることとした。

(3) 橋梁改築

平野川、同分水路には水管橋等を含めて合計一四三の橋梁が架設されており、これらの橋は、主要な幹線道路に架かる橋もあるが、ほとんどが生活道路の橋で、沿川住民の日常生活に不可欠なものである。

府計画では、極力、橋梁の打上(桁下を高くするように橋梁を架け替えること)が生じないよう考慮されたが、計画高水面からの余裕高の確保、河川内にある河積(流水断面)阻害物の撤去、現状河床から二メートルの掘削という観点から、既設の橋梁には、① 桁下の低い橋梁の打上、② 河床掘削に耐えるような下部工の補強、③ 河川内の橋脚の撤去等の改良を施す必要が生じた。そして、木橋のような構造の弱い橋梁及び桁下の低い橋梁など、緊急性のあるものから優先的に改築を進めることとした。なお、橋梁を架け替える場合の施工高は、桁下を護岸高以上にするのが一般的である。しかし、平野川、同分水路に架かる橋梁については、一応、桁下を将来の計画高水位以上とすることを目標とはしているが、周辺に民家が接近していることが多く、取付け道路の嵩上げが極めて困難であるため、止水防潮高欄(別図6)または角落し方式(別図7)によって対処することとした。

(4) 平野川分水路排水機場

平野川分水路の流れる大阪市東部地域は、近年の地盤沈下が著しく、そのため平野川分水路の疎通能力は極端に低下していた。そこで府計画では、第二寝屋川と平野川分水路の合流点に水門を設置し、洪水時にはこれを閉鎖して第二寝屋川の水位の影響を排除したうえで、大容量ポンプによって平野川分水路の洪水を強制排水し、平野川分水路の水位を低下させることとした。この排水機場は、平野川分水路の計画洪水を全量排水する能力を持ち、分水路の水位を一・七五メートル低下させるものであるが、これによって堤防嵩上げと多数の橋梁の打上が不要になるため、沿川の土地利用や都市交通への影響が最少限に抑えられることとなった。

(二) 府計画に基づく改修の進捗状況

平野川、同分水路の昭和五六年度末及び同五七年度末における改修の進捗状況は次のとおりであった。

(1) 護岸 五六年度 五七年度

平野川 八一パーセント 八七パーセント

分水路 五九パーセント 七〇パーセント

計 七二パーセント 八〇パーセント

(2) 河床掘削五六年度 五七年度

平野川 一三パーセント 二八パーセント

分水路 三パーセント 二一パーセント

計 八パーセント 二五パーセント

(3) 橋梁 五六年度 五七年度

平野川 四六パーセント 四九パーセント

分水路 四一パーセント 四八パーセント

計 四三パーセント 四八パーセント

また、平野川分水路排水機場が完成したのは昭和五八年六月であり、本件水害の発生した昭和五七年八月時点では未完成であった。

以上のとおり認められ、これを覆すに足る証拠はない。

二  市町抽水所の雨水ポンプ容量

《証拠省略》を総合すると、次の各事実を認めることができる。

1  計画雨水流出量の算定

(一) 第一次五か年計画

市町抽水所の建設が計画された第一次五か年計画時における計画雨水流出量の算定は、次の手順で行われた。

(1) 算定公式

被告大阪市は、従来、昭和六年実施の都市計画第四期下水道事業までは緩傾斜地区には実験式の一つであるビルクリーチーグラ式(別紙1―(3))、急傾斜地区にはブリックス式(別紙1―(2))を採用していた。しかし、舗装道路の増加等市街地の状況変化により雨水流出率も増大し、平坦地においても、ビルクリーチーグラ式では雨水量が過少算出され実情に適しないことが認められた。そこで、昭和一二年実施の都市計画第五期下水道事業以来、全区域においてブリックス式のみを採用し、それ以降の経験によると、右算定式で特に支障は認められなかったため、第一次五か年計画においてもブリックス式を採用した。

(2) 流出係数

前記都市計画第五期下水道事業計画において、平坦地で〇・五、急傾斜地で〇・六の流出係数が採られて以来、慣行的に右数値は使われており、本件平野処理分区の計画雨水流出量算定に当たっても、平坦地の流出係数〇・五を採用した。

(3) 降雨強度

被告大阪市は、従来から一時間当たり六〇ミリメートルを採用しており、本件平野処理分区の計画雨水流出量算出に当たっても、これをそのまま用いた。なお、大阪管区気象台の明治四四年から昭和二四年までの三九年間の降雨データを統計処理すると、一時間当たり六〇ミリメートルの降雨量は、一二年に一度の頻度となる。

(4) 地表平均勾配

排水区内の上流端と下流端の地盤高の差を両区間の距離で除した地表平均勾配は、平野処理分区の場合、上流端である瓜破川辺幹線付近の地盤高がOP約一三メートル、下流端である市町抽水所付近の地盤高がOP五メートルで、その差が八メートルであり、かつ上流端と下流端との間の距離が七三〇〇メートルであるので、およそ一〇〇〇分の一と計算される。

(5) 排水面積

第一次五か年計画当時の市町抽水所の排水対象総面積は、二三七四・三五ヘクタールであり、そのうち、晴天時等にのみ汚水を市町抽水所に送水し、降雨時には雨水を河川等に直接放流して市町抽水所に送付しない地域の面積(間接面積)は四八一・七六ヘクタール、雨水汚水ともに市町抽水所に送水する地域の面積(直接面積)は、北部の巽地区のそれが二五二・七八ヘクタール、南部の加美苅田地区のそれが一六三四・八一ヘクタールであった。

(6) 算出結果

計画雨水流出量は、巽地区と加美苅田地区の排水面積(直接面積)を分割し、それぞれについて算出した雨水流出量を合算して算定しているが、その結果は、巽地区が毎秒約八・三八立方メートル、加美苅田地区が毎秒約三九・七〇立方メートル、合計毎秒約四八・〇八立方メートルとなった。

(二) 大阪市第二次下水道整備五か年計画(以下、第二次五か年計画という。)

昭和四七年一二月二七日に認可された第二次五か年計画においては、瓜破町地区が新たに平野処理区に加えられ、市町抽水所の排水総面積は二五五七ヘクタールとなった(八尾市七一ヘクタールを含む。)が、そのうち、駒川上流部の二七三ヘクタールは、計画汚水量の三倍までに限って市町抽水所に送水し、それを超過する下水量は直接駒川へ放流するように駒川への放流管が設置されていたため、計画雨水流出量の対象面積から除外された。そして、市町抽水所に接続された前記三本の下水幹線の集水区ごとに巽地区二五三ヘクタール、加美地区三九七ヘクタール、苅田地区一六三四ヘクタールと排水面積を分割し、それぞれの雨水流出量を算定し、それを合算したものを計画雨水流出量とした。なお、対象面積を除くその他の諸元及び算定公式は、第一次五か年計画のときと同一である。

その結果、各地区の雨水流出量は、巽地区で毎秒約八・三八立方メートル、加美地区で毎秒約一二・二一立方メートル、苅田地区で毎秒約三九・六八立方メートルとなり、これを合計した市町排水区の計画雨水流出量は毎秒六〇・二七立方メートルとなった。

2  雨水ポンプ増強の経過

平野処理分区は、前記のとおり市街化が急速に進行しつつある地域が排水対象区となっており、舗装道路の整備や空地の減少などによって雨水流出量も年ごとに増加していたため、市町抽水所の雨水ポンプも、下水管渠整備(面整備)の度合や雨水流出量増大の経過に対応して、順次増設された。

すなわち、第一次及び第二次五か年計画における市町抽水所の計画雨水ポンプ容量は、いずれも巽側が毎秒一〇・五〇立方メートル、加美苅田側が毎秒四二・四八立方メートルの合計毎秒五二・九八立方メートルであったが、昭和四九年一二月二三日に、巽側を毎秒一六・一六立方メートル、加美苅田側を毎秒五二・〇〇立方メートル、合計毎秒六八・一六立方メートルとする内容のポンプ能力増強の認可を得た。

また、市町抽水所の雨水ポンプの現実の設置稼働の経過は、別表15のとおりであり、市町抽水所が現実に毎秒六八・一六立方メートルの雨水排水能力を有するに至ったのは、昭和五五年三月からであった。

以上のとおり認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

三  市町抽水所における調整運転

《証拠省略》を総合すると、次の各事実を認めることができる。

1  調整運転に関する河川管理者、被告大阪市間の協議

(一) 被告大阪市が市町抽水所の放流渠を平野川に設置するに当たっては、下水排流吐口築造のための河川区域内の土地占用及び工作物の設置、並びに河川保全区域の使用について、河川法二四条、二六条、五五条一項に基づく河川管理者である大阪府知事の許可が必要である。そこで昭和四七年四月六日、大阪市長は、大阪府知事に対し、河川区域内の土地占用等についての許可申請を行った。被告大阪府における右許可についての審議の過程で、平野川分水路が流域の地盤沈下によって開削当時の流下能力をなくしていたこと、平野川分水路の沿川で下水道計画が進展し、相当数の抽水所が建設、整備されていたこと、平野川、同分水路の改修は端緒についたばかりで概成には相当期間を要すること、などのため、市町抽水所が機械によるより多量の強制的雨水排水を開始すれば、下流の改修中の護岸や橋梁の安全が脅かされることが問題となった。そこで大阪府知事は、昭和四七年九月六日、被告大阪市に対して次の二条件(以下、本件許可条件という。)を付して前記河川占用等の許可を行った。

(1) 降雨時の放流については、当面の間、その都度河川管理者と協議し、その指示に従うこと。

(2) 降雨時の放流における河川管理者の指示もしくは連絡が円滑かつ徹底されるよう、その体制を確立すること。

右(1)の協議の具体的内容は、下流の安全が保証される水位、換言すれば、それ以上に水位が上昇すると下流が危険にさらされる水位を河川管理者が示し、抽水所管理者はこの水位を超えないように抽水所の排水ポンプの運転操作を行う、というものであった。そして、河川管理者が指示する水位は、昭和四八年にはOPプラス四・〇メートル、同五〇年にはOPプラス四・五メートルと、河川改修の進捗に伴って次第に高くなった。

(二) その後、昭和五〇年に被告大阪市から市町抽水所の雨水ポンプ容量を毎秒一〇立方メートル増量する計画が河川管理者に示された。しかし、同年七月、八月に二度の浸水被害が発生した直後でもあり、放流先河川が増量分の雨水を受け容れる能力を有することが疑問視されたため、河川管理者と被告大阪市との間で協議を重ね、昭和五一年七月一日に右協議結果をまとめた確認書が作成された(以下、本件確認書という。)。

その内容の概略は、次のとおりである。

(1) 平野川及び同分水路に関連する下水ポンプは、左記の危険水位を超えないように運転操作する。

平野川分水路 OPプラス四・三メートル(片江水位計)

OPプラス四・八メートル(巽水位計)

平野川 OPプラス四・二メートル(剣橋水位計)

ただし角落しの閉塞が確認されていない段階では危険水位は次のとおりとする。

平野川分水路 OPプラス三・五メートル(片江水位計)

OPプラス四・二メートル(巽水位計)

平野川 OPプラス二・八メートル(剣橋水位計)

(2) 被告大阪府及び同大阪市は、河川の水位、下水ポンプの運転状況等について緊密な情報交換を行って迅速かつ正確な把握に努め、ポンプのより効果的な運転を図る。

2  調整運転の実施

(一) 実施方法(指示系統、開始基準等)

市町抽水所の日常の運転管理は大阪市下水道局管理部下水道事務所が行っているが、洪水時における排水ポンプの調整運転の指示は、同部施設課の所管となっている。

大阪市北区扇町にある下水道局内には前記1(一)の本件許可条件に従った監視及びポンプの運転操作指示体制の確立強化を図るために、昭和四八年一二月災害対策室が設けられ、昭和五七年八月当時、同室内に、市町抽水所、中央下水道事務所等、大阪市内九か所における降雨量の表示盤及び自動記録装置、平野川ないし平野川分水路における水位観測点一三か所の水位の表示盤及び自動記録装置(百済橋観測点を除く)、市町抽水所の巽側及び苅田側内水位の表示盤及び自動記録装置、並びに同抽水所の二〇台のポンプの運転状況表示盤等が設置されていた。

そして、大雨注意報等の雨に関する情報が大阪管区気象台から発せられると、災害対策室内において施設課長を初めとする同課の職員が継続的に降雨や水位の状況を監視し、原則として河川の水位が危険水位を超えるおそれがあると認められたときは、直通電話で抽水所に対して調整運転を開始するよう指示することとされていた。

ただし、市町抽水所については、排流吐口の直近下流で分派している平野川分水路の巽水門の水位を基準とし、右水位がOPプラス五メートルを超え、かつ降雨状況及び水位の上昇から河川溢水の危険ありと判断した場合に初めて、災害対策室からポンプの調整運転を指示するのが通例であった。市町抽水所について、このように前記確認書で指定された巽水門の危険水位OPプラス四・八メートルを超えても調整運転の指示をしないのは、危険水位設定後の河川改修の進捗によって、河川溢水の実質的な危険水位が(事実上)上昇し、本件水害当時、OPプラス五・三九メートルすなわち護岸の天端付近に水位が達するまでは安全とみられていたこと、及び調整運転による内水溢水の発生を極力避けるため、設定された危険水位を超えても雨水をできるだけ排水し、調整運転開始の時期を可能な限り遅らせるという考慮がされたことによる。また、同様の考慮から、水位の低下がみられたときには、内水溢水軽減のために、設定された危険水位をまだ超えている状態でも早めにポンプの運転を再開して、少しでも排水量を多くするようにしていた。

なお、前記第二の二2(二)認定のとおり、市町抽水所の巽側ポンプ井と加美苅田側ポンプ井との間の連絡ゲートは、降雨によって内水位が上昇すると閉鎖されるが、調整運転が開始されると開放される。これは、右ゲートは本来巽側の浸水防止のためのものであるが、調整運転はまず比較的容量の大きい加美苅田側から開始されて加美苅田側内水区に浸水の危険が生じるのに、右ゲートを閉鎖したままでは巽側内水区のみを保護することになりかねないことから、右ゲートを開き加美苅田側の下水を巽側に流して加美苅田側の浸水の危険を軽減する必要があるからである。

(二) 本件水害当時の調整運転の経緯

本件水害が発生した昭和五七年八月三日当日の午前三時三〇分から午後四時三〇分までの間における市町抽水所のポンプの運転経緯、及びそれに関連した降雨状況、巽水門等の水位の状況は、次のとおりである。

(1) 午前三時三〇分

前夜来の降雨が続き、一三ないし一五号の雨水ポンプを運転した(なお同二時四〇分、既に大雨洪水警報発令)。

(2) 午前三時四一分ないし同五時二八分

降雨が次第に激しくなってきたため、同三時四一分に四、一六、一七号、同四七分に七号、四時一七分に八、一八号、四時三二分に一九号、五時二三分に二〇号の各ポンプの運転を開始し、五、六号を除く全雨水ポンプを稼働させて、毎秒六二・五立方メートルを排水した。巽水門の水位(以下、巽水位という。)は、ほぼ一貫して上昇し、四時五四分、危険水位であるOPプラス四・八〇メートルを超え(以下、水位表示についてはOPプラスを省略する。)、五時二八分には五メートルに達した。また、加美苅田側内水位(以下、内水位という。)も徐々に上昇し、五時二八分にOPマイナスからOPプラスに変わった。

(3) 午前五時二九分ないし同八時一七分

五時二八分に巽水位が五メートルに達したため第一段階の調整運転を開始した。最初に五時二九分に二〇号、同三三分に一九号、同三八分に一八号、同四七分に八号、同五〇分に一六号の運転を停止し、巽水位が五・二五メートルから五・二〇メートルに下がったので、六時五六分に八号の運転を再開した。しかし、巽水位が再び上昇し始め、七時に五・二五メートルを超えたため、第二段階の調整運転として七時に一四号、同九分に一五号を停止した。その二台の停止によって、巽水位はしばらく五・一五ないし五・二メートルで落ち着いていたが、午前八時過ぎ頃から、再び五・二五メートルを超え、かつ市町抽水所の上流にある百済橋地点の水位が増加して上流からの流量増加が認められたため、第三段階の調整運転として、八時一〇分に一七号、同一一分に一三号と、順次ポンプの運転を停止した。

また、平野処理場から平野川分水路への放流を停止するため、平野処理場へ送水する汚水ポンプも、八時一六分に一一号、同一七分に一二号と停止した。この八時一七分以降、運転されているポンプは、四、七、八号の三台で、放流量は毎秒一〇・五立方メートルであり、最大限の調整運転の状態が続いた。

このような一連の調整運転によって、内水は、五時二九分に〇・五九メートル、同三三分に一・六八メートル、同三八分に二・六五メートル、同四七分には五・〇八メートルと極めて急激に上昇し、同五〇分には測定可能水位である五・一二メートルを超え、以後午後二時二分まで測定不能状態が継続した。

また、巽水位は、右調整運転にもかかわらず、じりじりと上昇し、午前九時四五分から同五五分にかけて、巽水門地点の護岸の高さであるOPプラス五・四メートルに達し続けた。

(4) 午前一一時五分ないし午後四時三〇分

午前九時四〇分頃、市町抽水所付近の降雨が終息し、午前一〇時を過ぎると巽水位が徐々に下り始めた。そして午前一一時五分には巽水位が五・一六メートルに下ったため、一六号ポンプの運転を再開し、同二五分に一七号、同三五分に一五号、同三七分に一〇号、同三九分に一四号、同四七分に一三号と運転を再開した。

ところが、ポンプの運転再開の結果、同三九分に五・一二メートルまで下っていた巽水位が再び同五九分に五・三四メートルに上昇した。そこで再び調整運転を行い、同五九分に一三号、午後〇時六分に一五号と一六号、同一二分に一七号と、ポンプの運転を順次停止した。その結果、巽水位が五・一三メートルに下った同二七分に一七号、さらに五・〇八メートルまで下った同三五分に一五号、同四〇分に一六号と、運転を再開した。

その後も巽水位の変化に対応して、水位が上がれば運転を停止し、下がれば運転を再開するというように、細かい運転操作を繰り返したが、全体的には徐々に運転台数が増やされ、午後三時二三分からは、一〇号の汚水ポンプと四、七号、一三ないし一五号、一八ないし二〇号の八台の雨水ポンプによって送水、排水が行われ、調整運転は解除された。

また、巽水位も徐々に低下し、同四時三〇分には五メートルを下回った。内水位も、同二時二分には測定可能な五・一〇メートルに下がり、その後も水位は低下を続けた。

以上のとおり認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

四  府計画についての検討

原告らは、府計画の内容自体の瑕疵について多岐にわたる主張をしているが、これを大別して、基本高水算出過程に関する主張と計画高水流量の決定に関する主張の二つについて、順次検討する。

1  基本高水の算出過程について

原告らは、まず、府計画は、内水区域の流出雨水量について合理式を用いて正確な数値を把握しているにもかかわらず、河川への放流量を下水ポンプ容量を最大限度として制限し、下水ポンプで排水できない余剰雨水についてはこれをそのまま内水区域に滞留させることを前提として基本高水を算定し、しかも下水ポンプ容量算定に当たって、大阪市下水道区域はブリックス式を用いて雨水流出量を過少計算しているにもかかわらず、府計画ではそれをそのまま基本高水算定の前提としている、というのである。

しかし、前記第二の一1(四)掲記のとおり、内水区域は雨水等を河川へ自然流下させることができず、ポンプ等で排水せざるをえないのであるから、内水区域から下水ポンプの容量より多量の水量を河川へ排出することはそもそも不可能である。したがって、府計画が内水区域について、外水区域と同様の雨水の流出計算を行ったうえで、その雨水を河川へ放流するポンプの排出可能容量を最大限度として河川への流出計算を行ったことは、誤っていない。

また、河川への放流施設は、現実には河川流域の下水道計画、すなわち本件では寝屋川流域下水道計画や市計画に基づいて設置される下水処理場、抽水所等なのであり、これら放流施設の排水量または府計画策定時に把握しえた下水道計画における計画排水可能量が、当該内水区域からの最大排水量となる。

したがって、市計画におけるブリックス式による計画雨水流出量算定の当否はともかくとして、被告大阪市がそれに基づいて市町抽水所等のポンプ容量を決定し、これを建設した以上、平野処理区からの雨水等の流出量も右ポンプ容量より多くなることはなく、これを平野処理区からの雨水流出量の最大限度とする府計画の基本高水算定に誤りがあるとすることはできない。この点について、原告らは計画対象降雨のもとで内水区域の浸水が起こり得ないだけの排水ポンプ容量に基づいて基本高水流量を算出すべきであるというが、浸水が起こることがおよそありえない排水ポンプ容量を算出するようなことは、(現実を無視して極端に大容量のポンプの設置が許されるという事情でもない限り、)事実上できないことであり、また、現実に設置されておらずかつ設置計画もない排水ポンプ容量を基本高水算定の基礎に置いてみても、当該容量の内水区域からの排水が現実に行われる可能性がない以上、内水区域からの流出雨水処理に当たって意味がないものといわざるをえない。

2  計画高水流量の決定について

次に、原告らは、府計画は、寝屋川最下流の京橋口地点における計画高水流量毎秒八五〇立方メートルを、もしそれ以上京橋口で放流すると下流部である堂島川や土佐堀川の氾濫を招いて大阪都心部に致命的な影響を与えるとの考え方に基づいて決定し、これを計画高水流量配分として別図2のとおり寝屋川水系流域の各抽水所に排水許容量として割り当てた結果、市町抽水所の排水許容量が、同抽水所に現実に集水される雨水量に比較して極めて不適切なものとなった、旨を主張する。

しかし、府計画は、前記のとおり洪水処理方式として河道改修方式のみでなく放水路方式及び遊水池方式を併用することとしているところ、前記第四の一2(二)の認定事実によれば、府計画がこのようにしたのは、京橋口で毎秒八五〇立方メートル以上放流すれば下流にある堂島川等が氾濫するため、これを防ぐという理由によるものではないことが窺えるところである。このことは、さらに《証拠省略》によって、京橋口から下流部にある旧淀川、堂島川、土佐堀川、木津川、尻無川、安治川等の河川幅は淀川の本線筋であったことから非常に広く、また護岸の高さも高潮の防潮施設として設けられたため非常に高く、毎秒八五〇立方メートル以上の水量を流下させるに十分な河積(流水断面)を得られることが認められる(これを覆すに足る証拠はない。)ことに徴しても明らかである。

府計画において洪水処理方式として前記三方式が併用されたのは、前記第四の一2(二)の認定のとおり、主として寝屋川水系自体の河道改修上の問題、すなわち寝屋川水系のような流域が密集市街地である河川においては、拡幅、堤防の嵩上げ等の河道改修工事が都市機能に極めて重大な影響を及ぼすこと、用地の取得等に莫大な事業費がかかること、改修工事が非常に長期にわたり早期の概成を期待し難いことなどの問題があって、河道改修方式による流下能力増強に限界があったためである。もっとも、原告らの主張を、寝屋川下流域の大阪都心部における河川氾濫対策として堂島川、土佐堀川の改修が必要となる場合には、河道改修の限界が寝屋川水系以上に顕著になり、より改修が困難になる、との趣旨に解するならば、そのこと自体は前記第四の一2(二)(1)の認定事実に徴して首肯しうるところがある。けだし、河幅拡大等の河道改修を計画するには、寝屋川水系ばかりでなく、より下流の河川改修も含めた全体についての検討を経なければ、その当否を決められず、前記第四の一2(二)の認定事実によると、府計画もそうした総合的検討をしたうえで寝屋川水系の洪水処理方法を定めたものと認められるからである。

また、原告らは、府計画は内水区域に滞水が生じることを前提として排水許容基準量を流域の抽水所に割り当てた旨主張するところ、これは要するに市計画(下水道計画)が府計画に基づいて策定されたことを前提とするものであるが、これを認めるに足る証拠はなく、かえって前記第四の一2(一)の認定事実によると、府計画の基本高水の算定に当たって流域の下水道計画における排水量が考慮されていることが明らかであるから、むしろ府計画の方が市計画等を前提として策定されたといえるものである。ただし、《証拠省略》によると、昭和四〇年から旧計画の改定作業が開始され、同四三年には計画高水流量を毎秒一六五〇立方メートルとすることが決定されていたことが認められ(右認定を覆すに足る証拠はない。)、かつ、前記第四の二1の認定事実によれば、昭和四三年当時の市計画は第一次五か年計画の段階であって、その当時の市町抽水所の計画雨水流出量は毎秒四八・〇八立方メートルであり、それが毎秒六〇・二七立方メートルとなったのは昭和四七年の第二次五か年計画のときであることが認められるから、右各時期の先後関係だけからいえば、府計画の策定後に被告大阪市の第二次五か年計画が決定されたことになり、市町抽水所の計画雨水流出量毎秒六〇・二七立方メートルも府計画に基づいて決められたかのようにみえなくもない。しかし、《証拠省略》によると、第一次五か年計画では、市町抽水所の計画区域に瓜破地区等が含まれておらず、この区域を除いて計画雨水流出量を毎秒四八・〇八立方メートルに決定したが、瓜破地区等も平野川流域であって近い将来に市町抽水所の計画区域に含めることが確実であったため、河川管理者には瓜破地区等を含めた区域で算出した計画雨水流出量毎秒約六〇立方メートルを報告し、河川管理者はこれを受けて府計画を策定したことが認められ、右認定に反する証拠はない。したがって、府計画と第二次五か年計画の各策定時期の先後関係から直ちに市町抽水所の計画雨水流出量毎秒六〇・二七立方メートルが府計画を前提にして決められたといえるものでないことが明らかである。他に府計画が原告ら主張のように排水許容基準量を流域の抽水所に割り当てた事実を認めるに足る証拠はないから、原告らの右主張は理由がないというほかない。

五  市計画の内容についての検討

1  府計画の計画高水流量と下水道計画の対応

原告らは、府計画の計画高水流量は、京橋口の毎秒八五〇立方メートルを前提として配分されており、寝屋川水系における内水区域からの流出雨水は、各地点の計画高水流量以上には河川に放流できず、下水ポンプ容量で制限されるため、被告大阪市としては、計画高水流量を超える流量が下水管渠下流の一部地域に集中して溢水することのないよう、十分配慮して下水道を整備する義務があったにもかかわらず、漫然と下水道の普及整備を促進し、排水を完全には河川へ放流できない下水道施設を設置する結果を招いた旨を主張する。

たしかに、(一) 前記第二の二2の認定事実によると、本件水害当時の市町抽水所の雨水ポンプ容量は合計毎秒六八・一六立方メートルであって、府計画における市町抽水所からの計画放流量である毎秒六〇立方メートルを上回ったことが明らかであり、また(二) 前記第四の三2(二)の認定事実によると、本件水害当日である昭和五七年八月三日午前五時二三分から調整運転を開始した同二九分までの六分間、市町抽水所から平野川への放流量は毎秒六二・五立方メートルであったことが明らかであるから、これもまた前記、府計画の予定した毎秒六〇立方メートルの放流量を上回るものであり、このことから、市町抽水所における雨水集水量は、府計画の市町抽水所からの計画放流量毎秒六〇立方メートルを超過するものであったのではないかとの疑いが生じるところである。

しかし、(三)《証拠省略》によると、一般に抽水所に設置される雨水ポンプの容量は、必ずしも計画雨水流出量と一致するものではなく、ポンプの排水機能の経年劣化、及び地盤沈下の進行によるポンプの揚水量の減少を考慮して、計画雨水流出量よりも大きな容量のポンプを設置するのが通例であったとの事実が認められ、これに反する証拠はない。また、(四) 前記第二の二2における認定事実によると、市町抽水所に流入した下水は、直ちに放流ないし送水されるのではなく、いったんポンプ井に貯留されたうえでポンプで揚水されて平野川に放流されることが明らかであるから、ポンプの運転状況によっては一時的に毎秒六〇立方メートル以上放流されることも十分に考えられ、かつ放流先河川の水位を考慮しながらの一時的な超過放流は、河川の氾濫を招く危険がない限り、府計画の禁ずるところではないと考えられる。右のような事情を考慮すれば、前記(一)(二)の事実から、原告ら主張の、被告大阪市が放流先河川の計画高水流量を無視して過大な排水量の下水道施設を設置したとの事実を直ちに推認することはできないというべきであり、他に右主張事実を認めるに足る証拠はない。

そればかりか、かえって前記第四の一2の認定事実によると、府計画は、その基本高水算定の前提となる計画雨水流出量の算出に当たり、大阪市下水道区域については、市計画における抽水所のポンプ能力を雨水流出量の最大限とし、かつ平野川流域については、基本高水を全量、河道改修によって流下処理する計画であったため、基本高水流量と計画高水流量は合致していることが明らかである。しかも、前記第四の二1、2及び前記第二の二3の各認定事実によると、大阪市下水道区域の抽水所のポンプ能力は、市計画で当該集水区域内における計画雨水流出量を算定した結果に基づいて決定されたものであり、下水管渠等の整備も右計画雨水流出量を前提として実施されたことが明らかであるから、結局、被告大阪市の下水道計画と府計画は、少なくとも計画上は整合していたものといってよい。したがって、この点においても原告らの前記主張は理由がないというべきである。

2  平野処理区の計画雨水流出量算定の誤りの有無

(一) 算定公式にブリックス式を採用した点について

原告らは、被告大阪市は、市町抽水所のポンプ容量を計算するにつき算定公式としてブリックス式を採用したが、過去に大阪市下水道区域に発生した多くの浸水例がブリックス式が実情に合わないことを示しており、また、市町排水区二二八四ヘクタールの計画流出量を排出できるポンプ容量を計算するについて流出係数を同一の〇・五としても、合理式で計算した毎秒約一二二ないし一八四立方メートルと、ブリックス式で計算した毎秒約六〇立方メートルの数値の差はあまりに大きく、ブリックス式で算定することは明らかに危険であって誤りであり、本件浸水は、このようにブリックス式によって計画雨水流出量を不当に低く算定し、それに基づいて設置された市町抽水所の排水ポンプが現実の流出雨水を処理しきれずに内水区域に滞留させたことが原因となって生じたものである、と主張する。

まず、前記第四の二1の認定事実によると、被告大阪市は、第二次五か年計画時に市町排水区における計画雨水流出量を算出するについて、算定公式として実験式の一つであるブリックス式(別紙1―(2))を採用し、流出係数〇・五、降雨強度一時間当たり六〇ミリメートル、地表平均勾配一〇〇〇分の一、排水面積は巽地区二五三ヘクタール、加美地区三九七ヘクタール、苅田地区一三六一ヘクタールの各諸元を用いて、各地区ごとに雨水流出量を算定し、それを合算して市町排水区全体の計画雨水流出量毎秒六〇・二七立方メートルを求めたことが明らかである。

一方、《証拠省略》によると、計画雨水流出量の算出における公式として合理式(別紙1―(1))を採用してもよいことが、確かに認められる。そこで、流出係数〇・五、平野処理区のうち市町抽水所へ雨水を排水する地域の面積二二八四ヘクタールの各諸元、及び降雨強度として別紙4のとおりピーク到達時間七五分の場合と四〇分の場合の各五年確率降雨をタルボット式によって計算したもの(到達時間七五分は前記甲第一号証に市町抽水所の到達時間として記載されているもの、同四〇分は須賀証言に基づいたもの)をそれぞれ前記合理式に代入すると、市町抽水所における計画雨水流出量は毎秒一二二・六ないし一八四・〇立方メートルとなることが、計算上明らかである。

したがって、共通の諸元に同一の数値を用いて計算しても、ブリックス式によった場合の雨水流出量と合理式によった場合の雨水流出量が結果的にかなり異なってくる可能性があること自体は、否定することができない。

しかし、各算定式ごとに、雨水流出量算定に当たっての諸元のうち降雨強度や流出係数などの可変的なものの数値に、当該算定式の算定結果の傾向に即したものを用いれば、算定結果の差異は実際上かなり小さくなるものと考えられる。本件でも、降雨強度の数値について前記下水道施設基準解説では気象観測所の記録に基づいて三年ないし五年に一度の降雨強度を選ぶことを基準としているのに対し、被告大阪市は、明治四四年から昭和二四年までの三九年間の降雨記録を統計処理し、証人西村の証言に従うと一二年に一度、また《証拠省略》に従うと数年ないし七年に一度とされる毎時六〇ミリメートルを降雨強度として採用したことが明らかであり、そして、《証拠省略》によると、右降雨強度は昭和三五年当時、実験式(ブリックス式とビルクリーチーグラ式の双方を含む。)を採用していた地方公共団体の中でも高い部類に属するものであり(別表12参照)かつ、流出係数も、被告大阪市が採用した平坦地で〇・五、急傾斜地で〇・六という数値は、昭和三五年当時の実験式採用の地方公共団体の中で決して低い数値ではなかった(別表11参照)ことが認められるから、被告大阪市が雨水流出量算出に当たって採用した諸元の数値との関連でみれば、ブリックス式で算出した平野処理区の計画雨水流出量が不当に低いものと評価することはできないというべきである。

また、原告らは、市町抽水所のポンプ容量を設定する際にブリックス式によって不当に低く算定された雨水流出量を基準としたために、現実の流出雨水を市町抽水所で完全に排水することができず、市町抽水所周辺に内水滞留が集中して生じた旨主張する。

しかし、前記第二の二3(三)(四)及び第四の二1の事実と《証拠省略》によれば、雨水対策としての下水道施設の整備は、単に抽水所の設置及びその排水能力の増強のみで足りるものでなく、これと不可分一体の関係において下水管渠の敷設延長によるいわゆる面整備が実施されなければならず、かつ面整備も、雨水量算定公式によって算出された雨水流出量を基準として、それを流下させるのに必要十分なだけの施設規模で整備計画を策定し、それに基づいて下水管渠の敷設場所、接続状況、口径等を具体的に決定してその敷設を行うべきものであり、本件においては、こうした原則に従い、毎秒六〇・二七立方メートルと計画雨水流出量が算定されたのを前提として、市町抽水所のポンプ容量が右計画雨水流出量を放流しうるだけの容量もしくはそれに若干の余裕を持たせた容量になっていると同時に、下水管渠の流下可能量も右計画雨水流出量に若干余裕を有する流量になるよう整備されているものと認められる(これに反する証拠はない。)。そうすると、かりに原告ら主張のように被告大阪市が計画雨水流出量を過少算出して下水道整備を進めてきたとすれば、計画雨水流出量より著しく多量の雨水が降雨によって生じた場合、たしかに内水滞留が発生することがあるであろうが、その滞留は、雨水が下水管渠に流入すること自体が不能となったことによって、右流入前の段階で内水区域の全域中の不特定の場所に発生することになるはずのものであるということができるのであって、原告ら主張のように、いったん下水管渠で流下集水された(集水することができた)雨水を抽水所のポンプ容量の不足が原因で排水することができない、いわゆる「出口のない下水道」状態になって、抽水所付近の地域に集中して溢水が発生することになるものではない。要するに、ブリックス式による計画雨水流出量の過少算出から直ちに本件浸水のような態様の浸水が発生するとの結論を導くことは、理論的に疑問があるといわざるをえず、結局、両者の間に因果的関連があることについては、これを首肯するに足る立証がされていないというほかない。

なお、既にみた諸事情に《証拠省略》を総合すれば、計画雨水流出量算定に当たってブリックス式と合理式のいずれの公式を採用するかは、単にそれに基づいて設置される下水道施設の豪雨の際の安全性の点のみから決せられるものではなく、地域住民の下水道施設早期整備の要請、地方公共団体の財政状況、及び下水道整備と他の行政需要との均衡等の諸種の観点から、計画規模、事業費、計画策定から施設の設置ないし供用開始の公示に至るまでの期間等の諸点を総合的に検討して決せられるべきものと解するのが相当である(計画雨水流出量の算定についてこうした総合的検討をすることが不当であることを明らかにするような証拠はない。)。そして、《証拠省略》によると、昭和三九年三月二〇日発行の下水道施設基準解説(初版)においては、計画雨水流出量の算定は合理式方法と実験式方法のいずれによってもよいが、単に機械的類似的に計算すると、合理式では大きく実験式では小さく評価するおそれがあるから注意を要する旨記載されている(右下水道施設基準解説は、地方公共団体が下水道整備計画を策定する場合の指導基準として作成されたもので、建設省における下水道計画認可の審査の際の基準ともなり、昭和四〇年頃には下水道施設整備等に関する全国的一般的基準とされている。)ことが認められる(右認定に反する証拠はない。)のであるが、このように下水道施設基準解説が計画雨水流出量算定について実験式と合理式のいずれを採用してもよいとしているのも、前記の総合的検討に基づく算定公式の裁量的選択を許容していることを証するものといえる。さらに全国の地方公共団体の下水道整備計画策定の際における雨水量算定公式選択の実情をみると、成立に争いのない丁第二〇号証(下水道統計)によれば、昭和三五年度末現在で下水道事業を実施している地方公共団体のうち、ブリックス式及びビルクリーチーグラ式の双方を含めた実験式を採用している団体と合理式を採用している団体の各数を明らかにした一覧表は別表11のとおりであって、実験式を採用している団体が九八、(そのうちビルクリーチーグラ式を採用している団体が七九、ブリックス式を採用している団体が一三、両式を併用している団体が六である。)、他方合理式を採用している団体が六八であったことが認められる(右認定に反する証拠はない。)ところであり、このように昭和三五年当時合理式よりも実験式を採用する団体が多く、かつ実験式の中でもブリックス式より小さな数値の計算結果が出ることが別紙1―(2)(3)の計算式自体により明らかなビルクリーチーグラ式を採用する団体が最も多かったという事実も、地方公共団体が実際の計画雨水流出量算定に当たって前記のような総合的検討の結果に従って算定方式を選択したことを証する事情ということができる。

以上のとおりであり、ほかにブリックス式を採用したことが誤りであって、それによって不当に低い計画雨水流出量が算出され、それが本件浸水をもたらしたとの原告らの主張を肯認しうる証拠はなく、原告らの右主張は理由がない。したがって、原告らが合理式によって計画雨水流出量、降雨強度等を算出すべきものとし、合理式による計算結果に基づいてブリックス式採用の不当性、市町抽水所のポンプ容量設定の不当性等を主張している部分は、いずれも採用することができない。

(二) 流出係数の決定について

原告らは、通常、流出係数決定に際しては、道路(舗装道路と未舗装道路に分ける。)、建物、空地の各流出係数を決めたうえで、当該地域内の道路、建物、空地の比率を調査し、前記各流出係数に右比率を乗じたものを合算する方法が採られるのに対し、被告大阪市は合理的理由もなく、単に従来から使用されていて実績があるという理由だけで流出係数〇・五を採用した旨を主張する。

たしかに《証拠省略》によると、ビルクリーチーグラ式とブリックス式を併用していた昭和六年実施の都市計画第四期下水道事業までは流出係数はおおむね〇・五を用い、全市域をブリックス式で統一した昭和一二年実施の都市計画第五期下水道事業以降も平坦地での流出係数に〇・五を使用してきたため、第一次五か年計画及び第二次五か年計画における計画雨水流出量算出についても過去の実績ないし経験上、そのまま〇・五の流出係数を採用した事実が認められ、これを覆すに足る証拠はない。また大阪市下水道事業の沿革において流出係数に〇・五の数値が採用された事情ないし工学的理由についてもこれを認めるに足る証拠はない。

このように流出係数が〇・五と定められた合理的根拠は証拠上認められないのであるが、そのことから直ちに、当該流出係数を市町排水区の計画雨水流出量を算出するための諸元として用いることが妥当を欠くとの結論を導けるものではない。

《証拠省略》を総合すると、次の各事実が認められ、これに反する証拠はない。

(1) 前記下水道施設基準解説は、現行の基準としての流出係数を、慣習上、次のような幅をもって決めており、実情及び重要度によって適当に選択すべきこととしている。

商業地区 〇・六ないし〇・七

工業地区 〇・四ないし〇・六

住宅地区 〇・三ないし〇・五

公園緑地 〇・一ないし〇・二

(2) 第一次五か年計画が認可された昭和四三年当時の平野処理分区における都市計画用途地域の構成比率は、次のとおりであった。

住居地域 六一・八七パーセント

商業地域 二・二二パーセント

準工業地域 二五・九一パーセント

工業地域 一〇・〇〇パーセント

そこで、右認定事実中の(1)の流出係数基準と(2)の平野処理分区の都市計画用途地域構成比率を別紙9のとおり乗じて計算すると(準工業地域は工業地域に含める。)、昭和四三年当時の平野処理分区の流出係数の範囲は約〇・三四二ないし〇・五四〇となる。したがって、被告大阪市が第一次五か年計画で平野処理分区の計画雨水流出量算定に流出係数〇・五を用いたことは、計算上右範囲に含まれることが明らかであるから、妥当であったといえる。

さらに、第二次五か年計画の認可があった昭和四七年については、都市計画用途地域構成比率を認めるに足る証拠はないが、前記(1)の流出係数基準から判断すると商業地区または公園緑地が対象区域の大半を占める事態が生じない限り、左〇・五が前同様の計算に基づく流出係数の範囲に含まれなくなることはなく、かつ平野処理区のその後の拡大及び宅地化の進展からも右のような事態に至っていないであろうことは容易に推認しうる。したがって、昭和四七年時点でも〇・五の数値は基準となる流出係数の範囲に含まれているものと推認することができる。

よってこの点に関する原告らの主張は、流出係数〇・五を採用した合理的理由が明らかでないとの事実が計画雨水流出量算定の不当性と関連を有しないという意味において、失当である。

六  市町抽水所における調整運転についての検討

1  原告らの主張の要旨

調整運転の点に関する原告らの主張の要旨は、昭和五七年八月三日当時、府計画に基づく平野川及び同分水路の河道改修はまだ概成に至らず、他方、市計画に基づく平野処理区の下水道施設は既に整備され使用に供されていたが、この府計画の進捗状況と市計画の進捗状況との間に生じたずれのため、被告大阪市は、市町抽水所に流入する雨水をそのまま平野川に放流すると下流域に溢水等による被害が発生する危険があるとして、市町抽水所の排水ポンプの運転を停止するいわゆる調整運転を行い、その結果、平野川へ放流されなかった下水が下水管渠を逆流、溢水して、市町抽水所周辺の低地に滞留して本件浸水が生じたというのである。

原告らは、右主張において府計画と市計画との進捗状況における齟齬が右調整運転を必要ならしめたこと、及び本件浸水が右調整運転によって発生したことの二つを、それぞれ問題としているといえるので、以下、順次検討する。

2  本件調整運転を必要とした縁由

前記第四の一2及び二2における認定事実によれば、府計画は市計画における計画雨水流出量の算定結果を前提としており、第二次五か年計画における市町排水区の計画雨水流出量毎秒六〇・二七立方メートルと、府計画における市町抽水所からの最大排水量毎秒六〇立方メートルとは、計画上はほぼ整合していたことが明らかであるから、本来、雨水排出のためのポンプ運転の必要があってポンプ容量にも余裕があるにもかかわらずあえてポンプの運転を停止するという調整運転の必要性が、府及び市の計画上当然生じるといったことは、ありえない。

ところで、前記第四の一3(二)の認定事実によれば、府計画に基づく平野川及び同分水路の改修、殊に河道改修の主要な内容とされている河床掘削が、昭和五六年度末で両河川合わせて八パーセント、同五七年度末でも二五パーセントしか進捗しておらず、また同五七年八月三日当時には平野川分水路排水機場も未完成であったことが明らかであり、これに対して前記第四の二1、2及び第二の二1の認定事実によれば、市町抽水所等の下水道施設の整備は、昭和五五年三月の時点で既に合わせて毎秒六八・一六立方メートルの排水量を有する雨水ポンプ二〇台が設置され、市町抽水所に接続した三本の幹線を通して市町排水区全域の雨水が市町抽水所に集水される下水管渠網が整備されていたことが明らかである。

さらに、前記第四の一2及び第三の一2の認定事実によると、府計画は昭和三二年六月に大阪府八尾市で観測された既往最大の降雨(総雨量三二六・一ミリメートル、最大時間雨量六二・九ミリメートル)が寝屋川流域全域に降った場合というおよそ起こる可能性が極めて低い降雨(大雨)を想定して計画対象降雨としているが、本件八月二日から三日にかけての降雨は、寝屋川流域では中竹渕観測所で観測された総雨量一五〇・五ミリメートル、最大時間雨量三九・五ミリメートルが最高であり、府計画の対象降雨を著しく下回るものであったことが明らかであるから、前記第四の三2(二)に認定したような、市町抽水所で調整運転を行って放流量を制限しているにもかかわらず平野川分水路の水位が巽水門地点の護岸の天端に達するまで上昇するという事態が生じることは、府計画が概成していれば考えがたいものといえる。

以上の諸事情に、前記第四の三1に認定した、市町抽水所において調整運転が行われる契機となった本件許可条件及び本件確認書の趣旨が、そもそも平野川、同分水路の改修未了の段階で市町抽水所から計画どおりの雨水量が放流された場合の危険性を考慮したもの、換言すれば府計画に基づく河川改修と市計画に基づく下水道施設整備との進捗状況の齟齬の存在を前提としたものであったとの事情を合わせて考えれば、本件水害当時も右の齟齬は解消されておらず、八月三日当日の豪雨によって平野川分水路が氾濫の危険がある水位まで増水したため、被告大阪市が市町抽水所のポンプの調整運転を行うに至ったものと解するのが相当である。

3  市町抽水所におけるポンプの調整運転と本件浸水との間の因果関係の存否

(一) 本件調整運転の経緯と浸水の経緯との比較検討

前記第四の三2(二)の認定事実によれば、市町抽水所では、本件水害当日、午前五時二九分に二〇号ポンプを停止することによって調整運転を開始し、午前八時一七分には平野処理場への送水もすべて停止して三台のポンプのみで総排出量を毎秒一〇・五立方メートルにまで抑制するという本件水害当日における最大限の調整運転を行い、午前一一時五分までその状態を維持した後一六号ポンプから運転を再開したが、その後も巽水門の水位を観察しながら、ポンプの運転、停止を小きざみに繰り返し、次いでポンプの運転台数を徐々に増加させ、午後三時二三分から合計九台のポンプによって送水、排水を行ったものであり、さらに右調整運転に伴って加美苅田側内水位は、調整運転を開始した午前五時二九分以降、急激に上昇し、午前五時四七分に五メートルを超え、同五〇分には右内水位の測定可能範囲である五・一二メートルに達した後、午後二時二分まで測定不能な状態が続いたことが明らかであるから、午前五時五〇分から午後二時二分までの間は、市町抽水所近辺の下水管渠は満水状態となり通水不能の状態が継続していたものと推認することができる。

他方、本件育和地区の浸水の経緯についてみると、第三の二においてみたとおり、午前六時頃からマンホール、排水口等の逆流噴出が始まり、早いものでは午前七時頃から路上冠水が家屋内に流入し始め、そのうち床上浸水した相当数の家屋についてはその多くが午前九時頃前後に水位が床上まで達し、その後降雨が止んだ後も浸水位は上昇し、昼過ぎに最高水位に達し、午後三時ないし四時頃に水が引き始め、一時間ほどで完全に退水した、というのである。

以上のような調整運転の経緯と浸水の経緯とを比較すると、調整運転が開始されて加美苅田側内水位が五メートルないし五・一二メートルを超えた時刻とマンホール等から水が逆流噴出し始めた時刻、との間、並びに、右内水位が再び測定可能な水位まで下った時刻及び合計九台のポンプの運転が再開されて調整運転が一応解除された時刻と、浸水が引き始めた時刻及び退水が完了した時刻との間には、いずれも客観的な関連性が明白に認められるというべきである。

(二) 他の抽水所における調整運転の状況及び浸水状況

《証拠省略》を総合すると、次の各事実を認めることができる。

平野川分水路の片江抽水所では、本件水害当日午前八時一六分に片江計測点の水位が危険水位である四・三〇メートルに達したため、同一七分から調整運転を開始した。しかし、同一七分、同二〇分、午前九時二分と順次排水ポンプの運転を停止したにもかかわらず、片江計測点の水位は一向に危険水位以下に下降しなかったので、平野川分水路で片江抽水所より下流に位置する深江及び放出の各抽水所からの放流を抑制して平野川分水路の流量負担を軽減し、これによって片江計測点の水位を低下させることにした。そこで、放出抽水所では午前九時から、また深江抽水所では午前九時二分から、それぞれ調整運転を開始した。そして、右各調整運転を行った結果、片江、深江、放出の各抽水所の排水区では、いずれも浸水が発生した。

以上のとおり認められ、《証拠判断省略》他に右証定を覆すに足る証拠はなく、要するに、昭和五七年八月三日当日の降雨状況下で調整運転を行った市町抽水所以外の抽水所の排水区でも、浸水が発生していたことが認められる。

(三) 被告大阪市職員の調整運転指示の方針

《証拠省略》によれば、豪雨の際、被告大阪市下水道局内の災害対策室から市町抽水所等の調整運転を指示する同局管理部施設課職員(以下、市担当職員という。)は、調整運転開始後もなお大量の降雨が続くときは、内水区域に浸水が発生する可能性があることを、従来の経験に徴して十分認識していたことが認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

そして、市担当職員は、右認識に基づいて、前記三2(一)に認定したとおり、平野川分水路の巽水位が危険水位である四・八メートルを超えても市町抽水所における調整運転の開始を可能な限り遅らせ、かつ河川の水位が下降したときはなお危険水位を超えていてもポンプの運転を再開し、また、調整運転を開始するきはポンプ容量の大きい加美苅田側の雨水ポンプから停止するため、巽側との間の連絡ゲートを開いて加美苅田側のポンプ井の下水を巽側に流入させるなど、いずれも加美苅田側の下水をできる限り多量に排水するような措置をとって、内水区域の浸水の防止ないし軽減を図るよう努力してきたのである。

(四) 平野川地区内水対策技術研究会報告

《証拠省略》によると、昭和五三年に学識経験者及び被告国、同大阪府、同大阪市の河川・下水道関係者で構成される平野川地区内水対策技術研究会が設置され、平野川流域の浸水の実態調査と対策の検討を進めて報告書を作成したが、その報告書においては、内水被害の発生原因として、流域の農地の減少に伴う保水性の減少、市街化の進展による雨水流出量の増大、許容湛水量の減少などをあげているほか、平野川、同分水路の改修未了や平野川分水路排水機場の未完成のため、下流側河川の状況によっては下水道の排水機の全能力を発揮できないことも、内水被害を生じる一つの要因として取りあげていることが認められ、右認定に反する証拠はない。そして、右報告書の下水道の排水機の全能力を発揮できないことというのが、抽水所の排水ポンプの調整運転を実施した場合を指すことは、容易に推認しうるところである。

(五) 右各検討事項からの結論

以上(一)ないし(四)の諸点を合わせて考えれば、本件水害当日の市町抽水所におけるポンプの調整運転と本件浸水との間の相当因果関係の存在は、十分肯認しうるものといわなければならない。

(六) 被告大阪市の主張に対する検討

これに対し、被告大阪市は、右因果関係の存在を争っているが、その理由は、(1) 市町抽水所でポンプの調整運転を行わなくても平野処理区内で浸水が起った例もあれば、調整運転を行っても浸水が起らなかった例もあり、(2) 本件浸水の原因として、本件育和地区近辺に降った雨水による内水滞水も考えられ、また、かりに内水滞水と調整運転の競合により浸水を生じたとしても、浸水に対するそれぞれの寄与の割合は特定することができない、というのである。

そこで、被告大阪市の右主張について順次検討する。

(1) 調整運転なしで浸水が発生した事例について

被告大阪市は、調整運転を行わなかったにもかかわらず市町排水区に浸水被害が発生した事例として、別表13の番号1及び6の事例を掲げる。

ところで、前記(一)ないし(四)の事実を総合することによって本件調整運転と浸水との間の因果関係を推認しうる以上、被告大阪市が右推認の前提となる事実と両立しうる前記1及び6の事例をあげて調整運転を実施しなくても浸水が生じるとして右因果関係の存在を争う場合には、被告大阪市において両事例における市町排水区での降雨時間、降雨強度等の降雨状況、市町抽水所における排水ポンプの稼働状況、市町排水区の浸水態様等について立証する必要があると解するのが相当である。しかるに、まず降雨状況についてみると、《証拠省略》によって大阪管区気象台及び八尾、枚岡、枚方の各観測所の総雨量、最大時間雨量を認めることができるものの、同じ寝屋川流域でも地域によって降雨状況にかなりの相違がみられることは証人須賀の証言によって認められるとおりであって、右観測結果から直ちに市町排水区の降雨状況を推認することはできず、また降雨経過についてはこれを認めるに足る証拠はない。次に、排水ポンプの稼働状況については、右両事例当日に市町抽水所で調整運転を行わなかった旨をいう証人島田忠雄(以下、島田という。)の証言があるが、直接島田の所持する資料に基づく証言でないためにわかに措信することができず、他に右両事例当日における排水ポンプの稼働状況を認めるに足る証拠はない。また右両事例当日に市町排水区において浸水被害が発生したことは、《証拠省略》によって認定しうるものの、浸水の態様、経過についてはこれを認めるに足る証拠がなく、かえって《証拠省略》によると、右1の事例においては本件育和地区がほとんど浸水していない事実すら窺えるのである。このように右両事例の具体的状況が明確に認定することができない以上、被告大阪市主張の右二つの浸水の事例をもって、前記(一)ないし(四)の事実から本件調整運転と浸水との間の因果関係を推認するのを妨げる事由とすることはできないというべきである。

さらに、《証拠省略》によると、1の浸水は昭和四六年六月に市町抽水所が完成してわずか約一年後のことであり、加美苅田側下水管渠は昭和四六年度末の段階でも下流の一部しか幹線が接続されておらず、加美苅田地区における下水道による排水の可能な面積は一三〇ヘクタールにとどまり、今林仮抽水所も未完成であったことが認められ、また、前記第四の二2の認定事実によると、市町抽水所に設置されていた雨水ポンプのポンプ容量は、1の昭和四七年七月一二日当時で毎秒二八・一六立方メートル、6の昭和五〇年八月七日当時で毎秒三八・一六立方メートルにとどまっており、市町抽水所の雨水ポンプの増強は、集水区の下水管渠整備の進展に対応して行われてきたことが明らかであるから、第二次五か年計画の計画雨水流出量毎秒六〇・二七立方メートルに基づく下水道施設としては、右二つの浸水当時の施設は、いずれも著しく未整備の状態であったというべきである。そして、《証拠省略》によっても認められるように、下水管渠の整備状況が浸水発生の有無の要素の一つであることはたしかであるから計画雨水流出量毎秒六〇・二七立方メートルに対応した下水道整備が概成した段階における本件浸水と比較検討しうるのは、せいぜい、計画雨水流出量をわずかに下回る毎秒五八・一六立方メートルにポンプ容量が増強された昭和五二年七月以降の事例にとどまるというべきであり、前記二つの浸水例と本件浸水を比較すること自体が必ずしも妥当ではないといわざるをえない。

(2) 調整運転を行ったが浸水が発生しなかった事例について

被告大阪市は、市町抽水所で調整運転を行ったにもかかわらず市町排水区で浸水が発生しなかった事例として、別表13のうち、前記1及び6を除いた事例を掲げる。しかし、右各事例をもって、調整運転を行っても浸水しないことがあるとして本件調整運転と浸水との因果関係を争う場合には、被告大阪市において降雨強度、降雨時間等の降雨状況、市町抽水所の排水ポンプの稼働状況(特にこの場合は、調整運転の状況)を具体的に立証すべきであることは、前記(1)と同様である。しかし、14を除く前記各事例における降雨状況、市町抽水所の排水ポンプの稼働状況については、全証拠によってもこれを認めるに足りず、したがって、右各事例をもって、本件調整運転と浸水との因果関係を推認するのを妨げる事由とすることは、たやすくできないというべきである。

しかし、右立証不十分をひとまずおくと、調整運転の実施が直ちに浸水の発生につながるものでないことは、たしかに被告大阪市の主張するとおりである。たとえば右14の事例については、《証拠省略》によると、市町抽水所において、昭和五七年八月一日午前三時から同日午前七時五〇分頃までに二八・五ミリメートル、同日午前一〇時三〇分から同月二日午前三時三五分までに九二ミリメートルの雨量の降雨が記録され、巽水門の水位が同月一日午後八時から同九時の間、及び同月二日午前〇時過ぎから同日午前三時三〇分までの間、危険水位を超えたため、市町抽水所では同月二日の右危険水位超過時間のうちの一定時間、調整運転を実施した(具体的な実施時間帯及び実施程度については、これを認めるに足る証拠がない。)が、調整運転開始の頃にはほとんど雨が止んでおり、かつ調整運転開始後の降雨時間も短かったために、市町排水区内での浸水は発生しなかった、との事実を認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はない。そして、被告大阪市があげる他の事例についても、降雨の経過、ポンプの運転状況等を認めるに足る証拠はないが、14の事例と同様の状況であったため調整運転を行っても浸水が発生しなかったものと推認することができないではない。すなわち、証人須賀、同島田の各証言と弁論の全趣旨によって浸水発生の有無については、調整運転の時間の長短及び運転停止したポンプ数など調整運転の程度のほか、総雨量、時間降雨強度、降雨の分布状況、先行降雨の有無、程度などの降雨状況も関連しているのであって、調整運転によって浸水が発生するのは、本件水害当日のように先行降雨によって地中の雨水残留率が減少し、かつ調整運転開始後も継続的な強い降雨があるなどの事情によって市町抽水所に市町排水区から多量の雨水が流出集中した場合であると推認することができるからである。

しかし、このように調整運転それのみでなく、降雨状況という他の要因が加わらなければ浸水が発生しないということから、直ちに調整運転と浸水との因果関係の存在を否定すべきこととなるものでは決してない。けだし、既にみたとおり、およそ下水道事業計画で設定された降雨強度を上回る降雨によって市町抽水所自体の排水可能量を超える雨水が市町抽水所に集中した場合は格別、本件水害当日の最大時間降雨量三九・五ミリメートルは市計画の設定した降雨強度毎時六〇ミリメートルを大幅に下回るものであるから、市町抽水所自体としては市町排水区からの流出雨水を完全に排水しうるだけの能力を具備していたということができ、本来排水できるはずの雨水が滞留したのは、やはりポンプの調整運転が行われたためであるとみるほかないからである。

したがって、本件調整運転が、調整運転開始後の降雨という要因と相まってではあるにせよ、浸水という結果の発生に確実に寄与しているものと認められる以上、両者の間に因果関係が存在することを認めてよいと解するのが相当である。

(4) 内水滞水説について

被告大阪市のいう内水滞水が具体的にどのようなものか必ずしも明確ではないが、下水道や側溝の流下能力を超える雨量の降雨があったことなどによって、雨水が側溝などを通って排水されず、降雨地に溢水滞留する現象をいうものとすれば、まず、原告椿本がその本人尋問において、本件水害当日の午前七時頃、激しい降雨の最中に道路が冠水しているのを目撃して、雨水量が側溝の排水能力を超えたために溢水したと考えた旨供述し、また原告竹村も同日午前六時一〇分頃側溝に水がたまっているのを目撃した旨供述しており、これらの供述と《証拠省略》によって認められる本件水害当日午前六時から九時までの三時間の市町抽水所における降雨が約七三ミリメートルという激しいものであったことを合わせると、いわゆる内水滞水が本件浸水の一因となった旨の被告大阪市の主張が一見裏付けられたかのようにもみえる。

しかし、前記のとおり、被告大阪市の下水道計画は、毎時六〇ミリメートルの降雨強度における計画雨水流出量を対象に策定されているのであるから、前記のように計画雨水流出量算出が誤りといえない以上それに基づいて整備された下水管渠も、毎時六〇ミリメートルの降雨下における雨水流出量を流下させることができる構造のものが設置されているはずであるといえる。そして、前記第三の一2認定のとおり、本件水害当日の寝屋川水系流域の降雨強度は最大で毎時三九・五ミリメートルで、市計画の計画降雨強度をはるかに下回っていたから、被告大阪市の公共下水道施設は右降雨下における雨水流出量を優に全量流下させうる機能を具備していたというべきであり、側溝も雨水桝等から下水管渠に接続していることを考えると、右降雨のみのために側溝が流入雨水を通水しきれなくなって溢水することは考えられないことである。また、本件水害当日、降雨が終息した後もなお浸水位が上昇を続けているのが前記のとおり多くの原告らに目撃されているが、この現象は、内水滞水を原因とするのでは説明困難なものであり、これに対し、本件浸水が市町抽水所における調整運転によって下水管渠が通水不能となったことに起因するものとした場合には、下水道上流域で集水された雨水が幹線等を通って本件育和地区付近に到達するまでに相当時間がかかったため降雨終息後になお浸水位が上昇したものであると、右現象を合理的に説明できるのである。

ところが、抽水所における河川への雨水放流が抑制されれば、下水管渠が下流の抽水所接続部分から順次満水状態となって通水不能に陥り、側溝から雨水が下水管渠に流入することも困難になるから、さらに降雨が継続すれば側溝からの溢水という事態が発生することは考えられる。そしてこのような溢水状態を内水滞水と呼ぶのであれば、前記の本件調整運転の経過や降雨状況から考えて、本件水害当日も一部地域で内水滞水した水が家屋内に流入したであろうことが推認され、原告椿本や同竹村が目撃した状況もこのようにして生じたものであるとみることができる。しかしこのような内水滞水は、それ自体まさに調整運転に起因したものというべきであって、被告大阪市主張のように調整運転による下水の滞留と競合する別個の原因としてとらえるのは相当でないことが明らかである。

よって、市町抽水所における本件ポンプの調整運転と本件浸水との間の因果関係を争う被告大阪市の主張は、いずれもこれを採用することはできない。

七  結論

以上検討してきたところを総合すると、次のとおりである。

府計画及び市計画はいずれもその内容自体に不合理な点は見当たらず、また市町抽水所から平野川への最大放流可能量についても両計画に不整合は認められない。しかし両計画の現実の進捗状況に齟齬が生じ、本件水害当時、市計画に基づく平野処理区の下水道施設の整備は既に完了していたのに対して、府計画に基づく平野川及び同分水路の改修は未了の状態であった。

本件水害当日、豪雨による多量の流出雨水が下水管渠を通じて市町抽水所に集水されたが、未改修の平野川分水路の水位(巽水位)が溢水氾濫の危険性のある水位に到達していたため、市町抽水所では右下水を平野川に放流することができず、排水ポンの運転を順次停止するいわゆる調整運転を行い、その結果、市町抽水所近辺の下水管渠が通水不能となり、滞留下水が下水管末端開口部等から溢水して原告らの家屋等を浸水させた。

本件浸水はこのような原因、経過によって発生したものと解するのが相当である。

第五被告らの責任

一  被告国、同大阪府の責任(一)

第四で検討したとおり、本件水害の直接の原因は市町抽水所において排水ポンプの調整運転が実施されたことであるが、被告大阪市が右調整運転を行ったのは平野川、同分水路の改修未了のため降雨の際にこれら諸河川の水位が急激に上昇し、そのため市町抽水所から雨水を放流できなかったことによる。すなわち、平野川、同分水路の改修未了が本件水害の一因を成しているといえるのである。

そこでこの点に関する河川管理権を有する被告国及び河川管理費用等の負担者である被告大阪府の責任の存否について、平野川、同分水路の管理の瑕疵の存否の観点から検討する。

1  河川管理の瑕疵について

(一) 国賠法二条一項所定の瑕疵

国賠法二条一項所定の営造物の設置または管理の瑕疵は、営造物が通常有すべき安全性を欠き、他人に危害を及ぼす危険性のある状態を指し、かかる瑕疵の存否については、当該営造物の構造、用法、場所的環境及び利用状況等を総合考慮して、事故ないし災害という結果発生の危険性、それについての予測可能性及び結果回避可能性の諸要件を当該事例ごとに具体的個別的に検討して判断しなければならない。けだし、営造物の設置管理に当たり、当該営造物の形状性質から通常予測される結果発生の危険性に対して、これを防止するに足る措置(その措置が具体的な営造物ごとに異なるものであることはいうまでもない。)が施されていた場合には、営造物が通常有すべき安全性を欠いた状態にあるとはいえず、換言すれば、当該営造物の形状性質等から通常予測できないような結果が発生してもそれが当該営造物の瑕疵に基づくものとはいえず、そのような結果発生を防止する措置まで当該営造物について採られる必要はないからであり、また当該結果発生の時点だけをみれば営造物が安全性を欠如した状態にあるかのようにみえても、その安全性欠如の状態がたとえば第三者ないし自然力によって惹起され、営造物管理者に結果発生を回避しえないと認められる特段の事情があるときには、営造物の設置管理のうえで欠陥ないし瑕疵があるとはいえないからである。そして、右営造物の安全性は、当該営造物の特性を考慮し、自然的ないし社会的条件のもとにおける当該営造物の機能、役割をも合わせて検討しなければならないものであり、河川の場合についていえば、その管理の瑕疵の存否は、河川の特性ないし河川管理の特殊性を考慮してこれを決すべきこととなるのである。

(二) 河川管理の特性

本来、河川は地形に沿った水流から自然発生した公共用物であって、常時流水を有するか小量の降雨で流水を生じる水脈から成り立ち、管理者による公用開始のための特別の行為を要することなく自然の状態において公共の用に供されるものであるから、もともと洪水等の自然的原因による災害をもたらす危険性を内包しており、この点、当初から人工的に安全性を備えた物として設置され、管理者の公用開始行為によって公共の用に供される道路その他の営造物とは、性質を異にする。したがって、河川管理は、その対象に本来的にかかる災害発生の危険性が内在していることから予測される災害に対処すべく、河道の拡幅、掘削、流路の整備、放水路、遊水池の設置等の治水事業を実施して、河川の通常備えるべき安全性を確保していくほかない。ところが、治水事業には、事業の達成までに相当長期間を要するという時間的制約のほか、国民生活上の他の諸要求との調整を図りつつ配分された限られた予算枠内において、全国に多数存在する未改修ないし改修不十分な河川について改修の必要性、緊急性を比較しつつ、その程度の高いものから逐次実施するほかないという財政的制約、改修を実施するに当たっても緊急に改修を要する箇所から段階的に、また原則として下流から上流に向けて行うことを要するという技術的制約、さらに流域の開発等による雨水の流出機構の変化、地盤沈下、低湿地域の宅地化及び地価の高騰による治水用地の取得難といった社会的制約、などの諸制約が必然的に伴うものである。しかも、河川管理には、道路管理における危険区間の一時閉鎖等に相当する簡易かつ臨機的な危険回避の手段が存在しない。

このような河川管理の特殊性により、すべての河川について通常予測し、かつ回避しうるあらゆる水害を未然に防止するに足る治水施設を完備するには相応の期間を必要とするから、現状の未改修または改修不十分な河川の安全性としては、右諸制約のもとで一般に施行されてきた治水事業による河川の改修、整備の過程に対応した、いわば過渡的安全性をもって河川が通常有すべき安全性とせざるをえず、その意味において、河川管理の場合と、当初から通常予測される災害に対応する安全性を備えたものとして設置され公用開始される道路その他の営造物の管理の場合とでは、「通常有すべき安全性」の実質的内容自体が異なったものとなるのである。

(三) 河川管理の瑕疵についての判断基準

右(二)の説示から明らかなように、当該河川の管理の瑕疵の存否は、過去に発生した水害の規模、発生頻度、発生原因、被害状況、降雨状況、流域の地形その他の自然的条件、土地の利用状況その他の社会的条件、改修を要する緊急性の有無及びその程度など諸般の事情を総合的に考慮し、前記諸制約のもとでの同種、同規模の河川管理の一般水準及び社会通念に照らして是認しうる安全性を具備しているか否かを基準として判断すべきである。そして既に改修計画が定められ、これに基づいて現に改修中である河川については、その改修計画の内容及びそれに基づく改修工事の実施状況が全体として右の見地からみて格別不合理なものと認められないときは、その後の事情の変動により当該河川の未改修部分について水害発生の危険が特に顕著となり、当初の計画時期を繰り上げ、または工事の順序を変更するなどして早期の改修工事を施工しなければならないと認めるべき特段の事由が生じない限り、右部分につきいまだ改修が行われていないとの一事をもって河川管理に瑕疵があるとすることはできないと解すべきである。

(四) 右判断基準の適用範囲

河川管理の瑕疵についての右判断基準は、平野川のような人口密集地域を流域に有しかつ改修工事が重ねられることによって人工的整備の度合が高くなったいわゆる都市河川の管理についても、前記河川の特及び諸制約が存すること自体には変わりはないから、等しく妥当するというべきであるが、平野川分水路のように元々が放水路ないし運河であったものに関してはなお若干の検討の余地がある。すなわち、放水路ないし運河は、行政主体等の人工によって開削されて公共の用に供されたものであり、公物の成立過程の点からみれば放水路等は河川よりもむしろ道路と共通した講学上の人工公物というべきであるからである。しかし、前記のとおり、河川とその他道路等の営造物とで「通常有すべき安全性」の内容に差異があるのは、両者の公物成立過程における違いによるのではなく、道路等の営造物と対比した場合の河川の特性及び河川管理の特殊性に由来するものであり、そして、放水路等は、流域からの流出水を海または他の河川に導水して溢水氾濫を防止することを目的の一つとし、いったん開削され公用開始されるとその段階で河川の支川ないし分流としての実質的機能を備え、洪水による氾濫の危険性を抽象的にせよ内在させ、また、公用開始された時点では相当の安全性が付与されるよう計画、施工されていても、流域の土地利用形態が事後的に変化し、あるいは流水作用によって危険箇所が発生するなど、新規補修、改修の必要性が生じた場合には、本来の河川と同様の河川管理上の諸制約が問題となるなどの点において、既に相当程度改修が進展した自然公物たる河川と共通の特性及び管理上の特殊性を有しているといえる。したがって、本件平野川分水路のような人工的水路の管理の瑕疵についても、前記河川管理の瑕疵に関する判断基準を適用してよいということができる。

(五) 河川法等の規定

なお、河川管理に関し、原告らは、河川法一条の定める同法の目的にそって、同法一六条一項が河川管理の一態様としての河川工事に関し、工事実施基本計画を定めるべき旨定め、かつ同条三項が右計画を定めるに当たって降雨量、地形、地質その他の事情によりしばしば洪水による災害が発生している区域について災害発生の防止ないし軽減に必要な措置を講ずるよう配慮すべき旨定め、さらに右基本計画作成の準則として、同法施行令一〇条一項一号が、洪水、高潮等による災害の発生防止または軽減に関する事項については、過去の主要な洪水、高潮等及びこれらによる災害の発生状況並びに災害の発生を防止すべき地域の気象、地形、地質、開発の状況等を総合的に考慮すべきことを定め、同条二項二号が、河川工事の実施の基本となるべき計画に関する事項として基本高水並びにその河道及び洪水調節ダムへの配分、主要な地点における計画高水流量、主要な地点における流水の正常な機能を維持する必要な流量を定めるべき旨定めていることをとらえて、同法は、河川管理者に対して一定地域における自然水などを河道に集中させ、流水を溢水させることなく安全に流下させ、それによって洪水などによる災害の発生を防止することを要求している旨主張する。

なるほど、右諸規定によれば、河川法が、計画高水流量などを基本とした工事実施基本計画を策定し、総合的治水対策として河川改修事業を実施するに際し、洪水などによる災害発生の防止に必要な事項を十分に調査検討し、災害常襲地域についての防止措置に関して最大限の配慮をすべきことを、河川管理者に要求していること自体は、明らかである。しかし、河川改修事業の実施に際しては前記諸制約が必然的に伴うものであり、これを考慮しないで右事業を実施することは実際にはできず、前記河川法の諸規定も、これら諸制約の枠内において可能な限りの河川の安全確保に取り組むべきことを規定したものと解するのが相当である。

2  平野川、同分水路の改修経過

(一) 被告大阪府の河川改修に対する投資状況

《証拠省略》によると、次の各事実を認めることができる。

昭和四七年度の大阪府総予算四九七〇億円のうち、河川費は二〇六億円であり、寝屋川流域の改修に投資されたのは五九億円(河川費の二九パーセント)であり、さらにそのうち平野川流域への投資は一五億円(河川費の七パーセント)であった。

また、本件水害発生直前である昭和五六年度には、被告大阪府の総予算一兆二八二八億円のうち河川費は四九一億円であり、そのうち寝屋川水系の改修への投資額は二一四億円(河川費のうち四四パーセント)であり、さらにそのうち平野川流域に投資されたのは六七億円(一四パーセント)であった。

大阪府下の河川数は一五六本であるから、平野川流域の河川数五本は全体の約三パーセントにすぎないが、その平野川流域河川の改修のため、被告大阪府は毎年度の河川事業費のうち少なくとも七パーセントを投資し、昭和四八、四九、五五、五六年度のように一〇パーセント以上投資する年度もあった。

以上のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。

(二) 旧計画に基づく改修経過

前記第二の一2(三)、第四の一1(三)の認定事実に《証拠省略》を総合すると、次の各事実を認めることができる。

(1) 昭和二九年三月に旧計画が策定されると、被告大阪府は寝屋川水系改修工営所を設置し、寝屋川水系の改修事業に着手したが、その主要な事業は第二寝屋川の開削と、平野川分水路の開削であった。そのうち第二寝屋川は恩智川及び寝屋川の洪水流量の負担軽減を目的としたもので、昭和三〇年から開削工事に着手し、約一一〇億円の事業費を投入して昭和四三年に延長一一・六キロメールの河川として概成した。なお、土地価格の高騰に備え、第二寝屋川開削用地を先行的に取得、確保し、もって事業の円滑な推進をはかるため、昭和三五年に財団法人大阪府開発協会(現在の大阪府土地開発公社)が設立された。

平野川分水路の開削については前記第二の一2(三)認定のとおりである。

(2) また、寝屋川の改修については、昭和二八年ないし三〇年の鴻池水門の改築を初めとして、下流部は昭和三八年から、中流部は第二寝屋川の概成を契機として昭和四四年から、そして上流部は昭和四〇年から、各改修工事に着手し、昭和四五年頃にすべての改修が概成した。また、恩智川の改修については、柏原市の区域の一部では昭和四一年頃から改修工事に着手していたが、前記第二寝屋川の概成を契機として、東大阪市、八尾市の区域でも本格的に工事に着手した。

(3) 平野川下流部(城見橋ないし平野川分水路分流点)については、新平野川開削工事によって現在とほぼ同じ護岸法線ができていたが、被告大阪市が旧河川法九条による被告大阪府の委任を受けて、昭和二八、二九、三二、三四年度において城見橋から今川合流点までの区間で約五万一〇〇〇立方メートルの浚渫を行ったほか、護岸嵩上げや護岸根固めの工事を部分的に施工した。しかし、昭和三〇年代からの産業発展に伴う地下水等の汲上げで大阪市東部地域の地盤沈下が著しく、平野川下流部でも護岸高に不足をきたしていたため、被告大阪市は、河川法施行法一〇条に基づく被告大阪府の委託を受けて昭和四〇年度から護岸嵩上げと老朽化に伴う補強を兼ねた護岸改修に着手することになったが、浸水被害が頻発する平野川上流部の工事を優先的に進めたため、昭和四六年度までの七か年で城見橋と日吉橋の間の河川延長約七五〇メートルを改修するにとどまった。

平野川上流部は、昭和三二年から三三年にかけて、平野川分水路分流点から積善橋までの間について災害関連助成工事として被告大阪府が法線是正護岸改修工事を施工していたが、積善橋より上流は川幅も狭小でかつ蛇行していたため流水の疎通を欠き、降雨時には幾度も浸水に見舞われていた。そこで、平野川分水路開削完了に引き続き、被告大阪市は昭和三九年度より緊急性の高い平野川上流部の改修に着工したが、その内容は川幅の拡幅による河積の増大と、流水の疎通を図るための河川法線の修正であった。その後、昭和四三年には余慶橋付近まで改修が進んだ。しかし、用地買収交渉の難航による改修の遅れ、さらに昭和四一年(二回)、同四二年(一回)の出水による大きな浸水被害の発生を契機として、昭和四四年から事業の促進を図るべく、緊急四か年計画として、竹渕西水路より上流は被告大阪府が、それより下流は被告大阪市がそれぞれ分担して施工することとなり、その結果昭和四八年度末までには百済橋の下流約一〇〇メートルと樋之尻橋付近を除いて改修が概ね完了した。

以上のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。

(三) 昭和四七年の災害と対応

《証拠省略》を総合すると、次の各事実を認めることができる。

(1) 昭和四七年には寝屋川水系流域で二度にわたって大きな浸水被害が発生した。まず七月一一日から一三日にかけて梅雨性の豪雨があり、その降雨量は同月一二、一三日の両日で八尾において総雨量二三七・五ミリメートル、最大時間雨量二〇ミリメートルを記録したが、この豪雨により、床上浸水六一三八世帯、床下浸水三万七二七三世帯、浸水面積一八平方キロメートルの被害が発生した。

また、九月一六日には台風二〇号の影響による豪雨があり、総雨量は枚方で一二二ミリメートル、最大時間雨量は八尾で四一・五ミリメートルを記録したが、この豪雨によって、浸水面積一七平方キロメートル、床上浸水八九〇二世帯、床下浸水五万二五〇五世帯という、七月の被害を上回る規模の浸水被害が発生した。

(2) 昭和四七年に発生したこれらの浸水被害は、平野川、同分水路の護岸高の低い部分からの溢水を一つの原因として発生したものであるため、被告大阪府は、同年から二段階の本格的な護岸改修工事に着手した。

第一は、右水害の翌年である昭和四八年の出水期を目指して、昭和四七年の出水時の河川水位プラス二〇ないし三〇センチメートルの高さまで護岸の応急嵩上げをするもので、平野川では城見橋直上流部分、丸一橋と剣橋、大池橋と生中橋の間の各区間、平野川分水路では天王田大橋と永田大橋、門田大橋と上水時大橋の間の各区間において、改修工事を実施した。

そして、第二段階として昭和四八年ないし五〇年の三か年で時間雨量三〇ミリメートルに対応した護岸嵩上工事を、平野川では丸一橋から今川、駒川との合流点までの区間、平野川分水路では全川にわたって、総額六六億円の事業費をかけて実施し、右護岸を五メートルないし五メートル七、八〇センチの高さにしたが、これは結果的に当時策定中の府計画における護岸高を満たすものとなり、府計画を先取りすることとなった。なお、平野川の日吉橋と丸一橋の区間では昭和四七年から府計画の護岸高への嵩上げ及び護岸補強工事を行った。

計画高までの護岸嵩上げは、鉄筋コンクリート擁壁に基礎杭を打設する方法で行うものであったが、平野川分水路の内代橋から今里中橋までの間及び翠岸橋から北巽橋までの間の各区間については、護岸工事実施に必要な幅の側道がなく杭の打設ができないため、薬液注入で地盤を補強し、護岸支持力を確保する方法を採らなければならなかったことや、工事について採光、通風などを理由に沿川住民の協力が得られない地域もあったことから、工事は遅延しがちであった。

以上のとおり認められ(る。)《証拠判断省略》

(四) 府計画に基づく改修経過

前記第四の一2及び同3(一)の各認定事実に、《証拠省略》を総合すると、次の各事実を認めることができる。

府計画は昭和五一年二月に建設大臣の認可を得たが、護岸高の確保については前記(三)のとおり既に昭和五〇年までに府計画を先取りする形での護岸嵩上げ工事が概成していたため、それ以降の改修は前記第四の一3(一)掲記のとおり護岸の補強、河床掘削、橋梁の改修に重点を置いたものとなった。

まず、護岸の補強工事は、平野川上流部については旧計画時代から一貫して実施されてきた改修工事を継続実施したが、昭和四八年度末までに改修未了の区間は用地買収が難航した部分ばかりであった。特に百済橋の下流部については、ほとんど土地収用によるほかない状態に至ったほどに交渉が難航し、昭和五四年度にようやく用地が確保されて昭和五六年末に改修が完了し、これをもって平野川上流部の護岸改修工事がほぼ全川概成した。なお、両国橋から余慶橋までの区間については、計画河床の変更によって昭和五一年度から五四年度にかけてブロック護岸の法尻に鋼矢板を打設して根固めを行った。

また平野川下流部の護岸補強工事は、前記のとおり昭和四七年度以降に日吉橋から順次上流へ施工し、平野川分水路においては昭和五〇年度より下流側から順次施工されてきた。平野川、同分水路の各地点における改修状況は別図16及び別表16のとおりであるが、その結果、昭和五七年の時点においては、平野川は猪飼野新橋と万才橋の間、及び百済橋直上流部を除いた沿川、平野川分水路は第二寝屋川合流点から下丁ノ田橋までの区間の護岸補強工事が概成した。

次に、河床掘削(切下げ)工事は、平野川下流部においては、昭和五四年の出水を契機として昭和五五年度以降に護岸補強工事の完了した下流から始められた。そして、切下げ方法は、上流までの河床切下げを早期に行い、全川にわたる治水効果を発揮するため、まず計画河床より一・五メートル上までの掘削を上流まで完了した後、残りの一・五メートルを掘削するという二段階施工方式が採られた。また、平野川分水路における本格的河床切下げ工事は昭和五六年度以降に着手したが、その河床切下げ工事は、近鉄鉄橋より下流については比較的未改修の橋梁が少ないことや、平野川分水路排水機場の昭和五八年完成予定に合わせて下流側の高水位の低下をはかるため、一度で計画河床まで切下げる方法で施工することとし、近鉄鉄橋より上流については平野川同様二段階施工の方法で実施することとした。なお、平野川、同分水路における河床掘削工事の具体的経過は別表16のとおりである。

橋梁改修については、昭和四七年四月に河川管理者と橋梁管理者(大阪市)との間で橋梁工事についての覚書がかわされ、互いに協力して事業に当たることとなった。橋梁工事については当初昭和六一年度完成を目標とし、一五年を三期に分けて、昭和四七年からの五か年においては、洪水に対する抵抗力が弱いと判断される橋、主として木橋を中心に架替えが行われた。木橋は、全てが河川内に橋脚を有し、河積の阻害も大きく、対策が急がれていたため、松森橋(橋脚はコンクリート杭)を除いてこの五か年中に全て着工されている。そして、昭和五二年からの五か年においては、永久橋の中で河積阻害の大きいものを選び、かつ河川護岸工事が下流側から進行していることもあって、下流側の橋を優先して改修工事が行われた。このような方針に基づいて実施された橋梁改修の具体的経過は、別表16のとおりである。

以上のとおり認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

3  平野川、同分水路(以下、平野川等という。)の管理の瑕疵に関する判断

府計画の内容について、原告ら主張の本件水害発生の直接の原因となりうるような欠陥ないし瑕疵の存在を認めることができないことは、前記第四の四において検討し説示したとおりであるが、さらに、前記第四の一及び右第五の一2における認定事実に基づいて旧計画、府計画における平野川等の寝屋川水系河川の改修計画及び改修の実施状況を全体的に観察し、かつ寝屋川水系の自然的条件、社会的条件等諸般の事情を総合考慮すると、(一) 本件平野川等を含む寝屋川水系流域は、もともと排水条件の悪い低湿地であり、これに都市化の進展が重なって、従来田畑空地によって維持されていた保水能力が極端に減少し、しかも流域の下水道整備が進められることによって短時間内に多量の雨水が流出するようになったため、雨水流出量の河川流下能力超過による溢水の危険性は年ごとに増大してきており、そして、(二) これに対応すべく河川改修計画を策定、実施しても、計画策定当時の予想をはるかに上回る流域の都市化の進行によって、計画概成後直ちに、一部地域では改修工事実施の中途において、新たな河川改修計画を立てる必要に迫られることになり、また、(三) 平野川等の改修工事実施に当たっても、用地取得、沿川住民との折衝、橋梁道路等既存施設の改修後河川への整合など、種々の困難の中で、ともすれば遅延しがちになるのを克服しつつ、各地域ごとに段階的に改修が進められてきたのであるから、平野川等の改修計画内容及びその実施状況について、河川管理の一般水準及び社会通念に徴して特に不合理な点を指摘することはできないというべきである。

なお、この点に関して、原告らは、府計画が大阪市の下水区域についてブリックス式により過少に算出された排水ポンプ容量によって最大流出量を制限された流出雨水量を前提として基本高水流量を算定したのは、内水区域に余剰雨水が滞溜する結果となることを前提とするものであるから、河川管理者としては、余剰雨水を遊水池や治水緑地等によって吸収する対策を講じなければならないのに、府計画における治水緑地等の計画は外水区域からの流入雨水を処理するものにすぎず、内水区域の余剰雨水による溢水には全く考慮していないのであり、結局、府計画は内水区域の溢水対策を当該内水区域担当の下水道管理者に任せて、河川管理の責任を放棄したことを示したものにほかならない旨主張する。

しかし、本来、河川管理は、原告らも主張するとおり、流域から河川に流入してきた雨水等を、溢水等の氾濫を惹起させることなく安全かつ迅速に海まで流下させ、流水の正常な機能を維持しつつ河川の適正な利用の増進を図ることを目的とするものであり、河川管理者の諸権限及び責任は、右目的を達成するのに必要かつ有効な諸事項に及び、かつその範囲内にとどまるものである。

したがって、流域からの流入水が、河川を流下する途中で氾濫し、堤防決壊、溢水等によって沿川流域に浸水被害を惹起させたときは、前記河川管理の目的を十分達成していない典型的な場合であるから、河川管理者の責任の存否が問題となることはいうまでもないが、その前段階として、河川の形状や河床の土砂の堆積など河川の機能を阻害する諸事情によって、流域からの流出水が全量、速やかに河川に流入することを妨げられている場合もまた、流入水の安全かつ迅速な流下が困難になっているといえるから、河川管理が問題となるべき場合である。しかし、右のような流域からの流入阻害が河川管理上の問題となるのは、本来ならば流域からの排水がその量のいかんにかかわらずすべて河川に迅速に流入、流下しうるのに、河川内の機能に関連する障害によってそれが妨げられている場合であるのに対し、原告らの右主張の場合は、もともと被告大阪市の抽水所の排水ポンプ容量によって河川への流入可能量自体が一定量に定まっているために余剰雨水の内水区域における滞留が生じることがあるというものであって、平野川等の河川内部の機能障害に起因して滞留が生じるというものではないから、平野川等の河川管理いかんによって解決しうる範疇に属する問題ではない(たとえば、河底に堆積した土砂を除去するといった方法で解決しうる問題ではない。)と解するのが相当である。

そして、平野川に放流されるまでの大阪市公共下水道区域内における雨水処理計画の策定及びその実施は、被告大阪市の所管であり、被告大阪市がその裁量と責任をもって行うべきことであるから、府計画が内水区域の溢水対策を策定することなく、それを当該区域の下水道管理者に委ねていることも、非難されることではなく、この点における河川管理の責任を問題とする原告らの主張は失当である。

以上みてきたように、平野川等の改修計画及びそれに基づく改修の実施状況には格別不合理な点は認められないから、平野川等に管理の瑕疵があるというためには、改修計画策定後の事情の変動により、平野川等の特定未改修部分もしくは平野川等そのものに水害発生の危険性が特に顕著になり、右特定未改修部分もしくは平野川等について、寝屋川水系河川の中で特に優先して早期に改修工事を施工しなければならないと認めうる特段の事由の存在を必要とするところ、右特段の事由の存在は本件全証拠を総合してもこれを認めるに足りない。

よって、前記河川管理の瑕疵についての判断基準によって検討した場合、平野川等の改修未了について管理の瑕疵ありと判断することはできないといわざるをえない。

二  被告大阪市の責任

1  調整運転の実施について

昭和五七年八月三日の本件育和地区の浸水が市町抽水所における排水ポンプの調整運転を直接の原因とするものであることは、前記第四において検討し説示したとおりであるが、原告らは、右調整運転について、被告大阪市は過去の浸水記録から本件調整運転による浸水結果を十分に予測し、または予測しえたのであるから、これを回避すべき義務を負っていたにもかかわらず、あえて右調整運転を実施したものである旨主張する。

たしかに、《証拠省略》を合わせると、本件水害以前にも、昭和五四年六月二七日ないし七月二日、同年九月三〇日ないし一〇月一日等の水害の際に、被告大阪市が市町抽水所において調整運転を行った事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。また、抽水所で調整運転を開始して排水量を制限した後に多量の雨水が抽水所に集中すれば内水区域に滞留する結果が発生することは社会通念上十分に考えられるところであり、現に前記第四の六3(三)の認定のとおり、市町抽水所に調整運転の指令を発した市担当職員も右のような場合の浸水発生の可能性を十分認識していたのであるから、市担当職員は本件調整運転によって市町排水区の殊に市町抽水所周辺地域に浸水が発生することを予測しえたというべきである。

しかし、前記第四の三及び同六3における認定事実によれば、豪雨の際、災害対策室で各河川の水位を監視している市担当職員が市町抽水所に調整運転の指令を発するのは、単に水位計測点である巽水門地点の水位が河川管理者との協議で定められた危険水位に達しただけでなく、水位上昇の度合や降雨状況からみて下水の河川への放水を続けると河川の溢水氾濫の危険があると実質的に判断した場合であり、また本件水害当日において、市町抽水所で調整運転を実施して放水量を極力制限していたにもかかわらず、巽計測点での水位は上昇を続け、結果として同地点での護岸の天端付近にまで達した、というのであるから、かりに市町抽水所で調整運転を実施することなく雨水等の放流を続けたならば護岸越流による河川溢水等の事態が発生したであろうことは、容易に推測しうるところといえる。したがって、右事態の発生を防止するためのやむを得ない措置として本件調整運転を実施したという点を、被告大阪市の責任の存否の判断に当たってどのように考慮するかが問題となるのである。

ところで、民法七二〇条一項は他人の不法行為に対して自己または第三者の権利を防衛するために不法行為者またはそれ以外の者に加害行為を行った場合について、また同条二項は他人の物から生じた急迫の危難を避けるためにその物を毀損した場合について、加害行為または他人の物に対する毀損行為をした者が損害賠償責任を負わない旨を規定しているが、本件のようないわば自然的不可抗力的事象に起因する危難を回避するためにやむを得ず他人の財産に危害を加えた行為については明文の規定がなく、この場合も右と同様のことがいえるかどうかが問題となる。

そこで、この点について検討すると、被告大阪市は河川自体の溢水等によって沿川住民に被害が生じることを避けるために調整運転をするものであることは、前記事実に徴して明らかといえるところ、まず保護法益の種類についてみると、その調整運転をしないことによって単に河川の護岸からの溢水を惹起するにとどまる場合には、その調整運転によって保護される法益は、沿川住民の財産権にほぼ限られるということができ、この場合には、右保護法益は、本件についていえば、調整運転を原因として生じた内水浸水によって侵害された本件育和地区住民の財産権と、おおむね種類を同じくするものであるといえる。しかし、調整運転をしないことによって惹起される事態が単なる護岸からの溢水にとどまらず、さらに護岸の決壊にまで及ぶ場合は、その調整運転によって保護される法益は、沿川住民の財産権だけでなく、住民の生命、身体の安全にも及ぶものである(特に、人口の密集した市街地域における河川の場合はそうである。)。また、法益侵害の程度についても、平野川等のような中小河川について、調整運転をしないことによって起こる護岸からの溢水と調整運転による内水溢水とでは同じような程度の浸水被害を招来するといってよいが、護岸の決壊まで起こる場合には、調整運転による内水溢水の被害に比して著しく広汎かつ重大な浸水被害を惹起することになりかねないといえる。そこで、本件における護岸決壊の危険性についてみると、本件水害当時、平野川下流部や平野川分水路に一部、府計画に基づく護岸補強工事未了の箇所が存在していたことは前記第五の一2の認定のとおりであり、証人須賀の証言及び弁論の全趣旨によって、本件調整運転が行われていなければ護岸決壊の事態が生じるおそれがあったことが、少なくとも窺えるところである。もっとも、河川改修計画に基づく本格的護岸改修が施工されるようになった昭和四〇年以降の平野川等流域における浸水被害のうち、護岸決壊による事例はこれを認めるに足る証拠がなく、その他、本件調整運転を実施しなければ右未改修護岸等が決壊するに至ったことを端的に示す証拠まではなく、その意味で、護岸決壊のおそれというのは前記溢水の危険にくらべてかなり抽象的なものであることを否定することができない。しかし、平野川等のような人口密集地域を流れる河川においていったん護岸決壊の事態が発生した場合に惹起される人命の損傷、家屋の流失、広範囲の浸水等の結果の重大性にかんがみれば、調整運転によって保護される法益と調整運転によって侵害された法益との比較衡量を行う場合に、前記護岸決壊の危険性が抽象的であることを理由にこれを考慮の外におくことは相当でなく、少なくとも補充的ではあるが重要な判断資料とすべきものと解される。

そしてさらに、既にみた本件の具体的事情に徴すると、かりに被告大阪市が市町抽水所で調整運転を行わずに雨水放流を続け、放流先河川の溢水等を招いたとすれば、被告大阪市は、それによって浸水被害を蒙った沿川住民から、抽水所の雨水ポンプを停止する措置を講ずれば下流河川の溢水等を回避しえたにもかかわらず、下流での溢水等の危険性を認識しつつあえて雨水放流を続けたとして責任を追及されるに至ったであろうことが容易に考えられる。すなわち、被告大阪市は、雨水ポンプの調整運転を行っても行わなくても、市担当職員の不法行為責任を追及されるという、いわば二律背反的な立場に置かれるのであり、そのいずれの場合も被告大阪市の損害賠償責任を認めるとすれば、被告大阪市に放流先河川の増水という現象に起因した溢水等について結果責任を負わせるに等しくなるというべきである。また、証人須賀の証言によると、調整運転の指示を行う地位にいる市担当職員は、調整運転による内水溢水の危険を考慮して、放流先河川の水位が危険水位を超えても、その後の水位の上昇程度や降雨状況からこれ以上放置すれば河川溢水等の発生する危険が極めて高いというぎりぎりの段階まで雨水ポンプ停止を指示しないことが認められるから、本件具体的状況下でそれ以上に、市担当職員に雨水ポンプによる排水を継続させ、当然予見される河川溢水等の結果発生を放置するよう要求することは、あまりに無理を強いることといわざるをえない。

もともと、民法七二〇条の規定の趣旨の一つとして、他人の不法行為または急迫の危難に対し防衛または避難の行為をする者にその行為による責任を問うとすれば、その者に右不法行為または危難を回避することを許さずこれを甘受すべきことを強いることとなって酷に失する、ということがあるのであるが、このことと、本件におけるように護岸決壊の危険があるため調整運転という避難行為によって保護される法益の価値がその避難行為によって侵害された法益の価値よりかなりの程度に優越しているなどの前記の事情を合わせ考えれば、本件における市担当職員の調整運転指示の行為は、民法七二〇条の規定の趣旨を類推することによってその違法性が阻却されるものと解するのが相当である。したがって、本件調整運転実施の指令を発した市担当職員について不法行為は成立せず、被告大阪市も国賠法一条に基づく損害賠償責任を負わないと解すべきである。

2  調整運転の事前通報について

原告らは、被告大阪市は、少なくとも事前に住民に対して調整運転によって生じる浸水の危険を通報し、危険回避の対応策を講じうる余裕を与えるべきであったのに、これを怠った旨主張する。

そこで検討すると、《証拠省略》によると、次の各事実が認められる。

本件水害当時の大阪市下水道局における勤務時間外の緊急連絡体制は、大阪管区気象台によって大雨に関する各種の注意報等が発令されると、同注意報等が同気象台から消防局を経て下水道局管理課長に通報され、管理課長から同課長代理、施設課長等に連絡されるというものであり、連絡を受けた管理課長、同課長代理、施設課長、その他必要数の職員が下水道局災害対策室に入室し、同室内に設置された計器によって河川の水位の状況、降雨状況、抽水所のポンプの運転状況等の監視に当ることになる。本件水害の際も、その前日である昭和五七年八月二日午後一一時四〇分に大雨洪水雷雨注意報が発令されたため、当時管理課長代理であった島田が管理課長からの連絡を受けて同月三日午前一時三〇分頃災害対策室に入室し、他の職員とともに監視連絡体制をとった。そして、同日市町抽水所において調整運転が開始された直後に、島田は、市町抽水所の所轄部署である東南下水道事務所に対し、調整運転を開始した旨を連絡し、さらに同日午前六時頃、その後の降雨状況、河川水位の上昇等から浸水の危険ありと判断した東南下水道事務所長が、育和地区と南百済地区の各連合町会長に対し、それぞれ電話連絡をした。

なお、本件水害後の昭和五八年七月からは、雨に関する注意報が発令され、かつ巽水門における水位が四・八〇メートルを超え、さらに市町抽水所のポンプの調整運転を実施したときは、その旨を下水道局から市民生活局に連絡し、市民生活局では、東住吉、平野、生野の各区役所を通じて、各区内の消防署、土木局公営所、下水道事務所、水道局営業所等の協力のもとに、広報車等で地域住民に対する広報活動を行い、平野川等の河川の水位の異常上昇及び浸水の危険等を住民に知らせて注意を呼びかけるようになったが、本件水害当時はこのような具体的降雨に際しての広報体制は確立されておらず、リーフレット「大雨に備えて」の配布ないし回覧等によって一般的に大雨に関する注意を喚起するにとどまっていた。

以上のとおり認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

ところで、被告大阪市が調整運転の際、もしくはその後の降雨状況、内水位の上昇程度から内水溢水の発生について予見しえたことは前記第五の二1のとおりであり、調整運転が違法なものでないとしても、それが内水溢水惹起の原因となる以上、被告大阪市は、調整運転に付随して、溢水発生前に事前に調整運転の開始を危険地域の住民に通報し、避難活動の実施を呼びかけて浸水被害の軽減を図るべく努める義務を負っているものと解するのが相当である。そして右認定事実に徴すると、昭和五八年七月以降のような広報活動が本件水害当時にも実施されていたとすれば、地域住民は溢水前に余裕を持って避難措置を講じることができ、被害が軽減されたであろうことが窺えなくはないから、本件水害当日の調整運転の事前通報が不十分であったかのようにみえなくもない。しかし、前記認定のとおり、本件水害当日も下水道局から東南下水道事務所を通じて育和地区と南百済地区の各連合町会長宅に調整運転開始の連絡が行われている。そして、連絡を受けた右町会長らがどのように対処したかを明確に認定しうる証拠はないが、原告宮本はその本人尋問において町内会の役員から浸水の危険を告げられた旨を明確に供述しており、その他何人かの原告らが浸水が始まるとの呼びかけがあった旨を供述していることからみて、右町会長らが溢水の危険を地域住民に呼びかけたことも窺えるところである。

これらの事情を合わせると、被告大阪市は、完全なものとは到底いえないものの、住民に対する必要最小限度の通報措置を採ったものといってよく、被告大阪市に原告らのいう通報義務の懈怠があったとしてその損害賠償責任を認めることまではできないというべきである。

3  下水道施設の設置管理の瑕疵について

本件水害の直接の原因となった市町抽水所の調整運転、及びそれに付随した内水地域の住民への調整運転実施の通報措置について被告大阪市に責任を認めることができないことは、前記第五の二1、2で説示したとおりであるが、さらに右調整運転が行われるに至った契機として、市町抽水所に集水された雨水を放流先である平野川の改修未了のために放流できなかったこと、すなわち、市町排水区の公共下水道施設(以下、本件下水道施設という。)が降雨時に平野川への放流可能量を上回る量の雨水を市町抽水所に集中させるものであったことに関する被告大阪市の責任の有無について検討する必要がある。原告らはこの点をとらえて、本件下水道施設に営造物としての設置管理の瑕疵があり、被告大阪市が損害賠償責任を負う旨主張するので、以下、本件下水道施設の設置管理の瑕疵の存否について検討する。

(一) 公共下水道施設の役割、機能

下水道が一般に、周辺環境の改善、便所の水洗化、水質の保全等の役割を持つこと、さらに大阪市の場合は、上町台地を除くほとんどの地域が海水面または河川洪水面以下の低地であるという地形のため、大阪市の下水道が雨水をポンプで排水して浸水を防止することもその重要な役割として担っていることは、前記第二の二1で示したとおりである。もっとも、公共下水道施設については、大阪市下水道に限らず一般に、市街地等における雨水の迅速な排除及びそれによると降雨の際の浸水防止が、汚水の排除処理とともにその重要な役割となっているものであり、特に都市化の進展しつつある地域においては、雨水の地中への浸透度の減少及び地表近くでの一時的貯留能力の減少によって雨水流出量が著しく増大し、その迅速な排除のために公共下水道の整備が緊急の課題になっていると考えられる。

(二) 河川と公共下水道

河川と公共下水道は、いずれも雨水等を原則として自然流下によって排水するという点で、同一の機能を有し、かつ役割分担が行われているといえる。すなわち、公共下水道は都市における雨水や生活排水等を排除処理し、河川なこれを山地等からの流出水と合わせて海まで流下させるものであり、また、利水の点では、河川は流域に生活用水、産業用水等を供給するが、このような水資源は清浄でないとその効用を果せないところ、この点については、公共下水道が、生活、生産等によって生じた汚水を浄化して排出し、河川の水質を保全する役割を分担しているのである。

公共下水道は、このように河川と機能面で共通する点があり、かつ河川と一定の役割分担を行っているが、その営造物としての性格は河川と決して同一ではない。すなわち、河川は前記一で判示したとおり、元来、地形に沿った水流から自然発生したものであり、常時流水を有するか小量の降雨で流水を生じる水脈から成り立ち、管理者による公用開始行為を要せず、自然の状態のままで公共の用に供されるのに対し、公共下水道は、本来都市排水を排除するために街路下に網の目のように配管設置された下水管渠等から構成される人工的な公共用物でありかつ前記第二の二3(一)でみたとおり、公共下水道管理者は、設置した公共下水道の供用を開始しようとするときは供用開始公示を行わなければならず、この公示がされたときは、当該排水区域内の土地所有者らは公共下水道に接続した排水設備設置を義務付けられるのである。

この点に関して証人井前は、下水道の中には人工の水路ばかりでなく自然の水路を利用したものもあり、むしろ自然の水路に手を加えたのが下水道であると考える旨供述し、営造物の性格の面においても、下水道を河川と類似するものととらえている。

しかし、本来的理念的下水道は、前記のとおり人工的営造物として、河川とは対蹠的に位置付けられるものであり、また放水路や運河のように設置と同時に河川の流水の一部を分担して河川の流量負担を緩和するという機能を有するに至ることもないのであって、実質的にも下水道の営造物としての性格に河川のそれとの類似性を見出すことは困難といわざるをえない。

また、公共下水道の機能について、証人井前は自然の水路や小川とまったく同じである旨供述するが、前記のとおり雨水の流下排除の点では河川と共通するものの、公共下水道の機能はそれに尽きるものではなく、むしろ汚水の人工的処理排除を主要な機能として備えている点で自然の水路とは著しく異なっているというべきものである。すなわち、下水道事業は沿革的には生活環境の衛生化によって伝染病を予防するために開始されたのであり、その他、地域環境の改善、し尿処理対策、水質の保全などで公共下水道が重要な機能を果して来たことは、前記第二の二3で認定した大阪市公共下水道事業の沿革によっても明らかである。また、河川法は、河川について、災害発生の防止、河川の適正利用、流水の正常な機能の維持の見地から総合的に管理することによって、国土の保全と開発、公共の安全保持及び公共の福祉の増進を図ることをその目的として掲げる(同法一条)のに対し、下水道法は、下水道の整備を図り、もって都市の健全な発達及び公衆衛生の向上に寄与し、あわせて公共用水域の水質の保全に資することを目的とする旨規定している(同法一条)が、かような両法の目的の差異も、河川と下水道の右のような機能的差異に由来するものと考えられる。

よって以上検討してきたところを総合すると、公共下水道は、その成立過程からみても、また機能面からみても、河川のように自然的原因による災害発生の危険性を内在させているために通常備えるべき安全性の確保について治水事業の実施による段階的達成を予定したものではなく、当初から通常予測される災害に対応した安全性を備えたものとして設置され公用開始されているのであり、その点で道路等と同様の性格を有するものと解するのが相当である。

(三) 公共下水道施設の設置管理の瑕疵について

本件下水道施設に関する設置管理の瑕疵を判断するに当たっては、前記第五の一1(一)に説示したとおり、当該公共下水道施設が通常有すべき安全性を備えていたかどうかを当該公共下水道施設の構造、用法、場所的環境、及び利用状況等から、具体的個別的に検討すべきであり、その際、通常有すべき安全性の具備については、特に浸水(溢水)発生の危険性、浸水発生の予測可能性及び浸水防止措置の実施可能性の諸要素について分析検討する必要があるものと考えられる。

ところで、前記(二)で説示した公共下水道施設の営造物としての特性にかんがみれば、公共下水道施設が通常有すべき安全性を備えているというのは、計画上予定される降雨強度に対応した雨水流出量を迅速かつ滞りなく抽水所に集水したうえで全量、河川等に放流することができ、内水滞留を生じさせない機能を具備していることを意味する。そして、右安全性の有無は、当該下水道施設自体の規模、流下及び排水能力のみならず、放流先河川の流下能力まで含めて検討して決めるべきであり、たとえ当該下水道施設自体は計画雨水流出量を十分流下、放流できる能力を備えていたとしても、放流先河川が抽水所等からの放流雨水を受け入れることができるだけの流下能力を備えていなければ、現実には雨水を排水することは不可能であり、のちに詳しくみるとおり別途に排水しえない余剰雨水について適切な滞留防止措置を講じておかない限り、当該公共下水道施設は内水滞留の危険性を有するものとして、安全性が欠如していると解すべきである。

(四) 本件下水道施設の設置管理の瑕疵の存否について

前記第四の二に認定したところから明らかなように、被告大阪市は、昭和四七年に建設大臣の認可を受けた第二次五か年計画において、市町排水区につき、毎時六〇ミリメートルの降雨強度に対応した巽、加美、苅田の各地区からの雨水流出量合計毎秒六〇・二七立方メートルを流下排水する能力を有する施設整備を行うことを決定し、昭和四九年には、右雨水を全量放流できるように、市町抽水所の雨水ポンプ容量を従前の毎秒五二・九八立方メートルから毎秒六八・一六立方メートルに増強する計画を策定して認可を受け、以後、市町排水区の面整備の進捗状況に応じて別表15のとおりに雨水ポンプの増設を行い、その結果、昭和五五年三月には市町排水区の面整備はほぼ完了し、市町抽水所には一三台の雨水ポンプ(総排水量毎秒六八・一六立方メートル)が設置され、これにより、本件水害当時、本件下水道施設は、計画雨水流出量毎秒六〇・二七立方メートルを市町抽水所まで流下集水し、全量を平野川に放流することができる能力を備えるに至っていたものである。

これに対し、前記第四の一2(三)、同3(二)及び第五の一2(四)の認定のとおり、雨水放流先である平野川は、府計画による改修工事が概成した段階では市町抽水所からの放流量をほぼ全量受け入れて流下することができるようになるが、本件水害当時、市町抽水所の放流地点から下流に当たる平野川下流部及び平野川分水路の府計画に基づく改修工事は、河床掘削が平野川下流部では昭和五五年度から、平野川分水路では昭和五六年度から、それぞれ着工されたばかりであり、護岸補強及び橋梁の改修がともに未了であり、平野川分水路排水機場も未完成であった。すなわち、本件水害当時、平野川は、市町抽水所からの放流量を完全に受け入れて流下しうる能力を具備していない状態であったのである。そして、前記第四の三1で認定したとおり、降雨時に河川の水位が一定の高さに達したときは下流の氾濫を防止するために雨水ポンプの調整運転を行う旨を、河川管理者と被告大阪市が協議して取り決めているが、この事実は、河川改修と下水道整備の実施状況に齟齬が存するため、放流先河川の状態によっては抽水所からの排水を制限せざるをえないことを、河川管理及び本件下水道施設の管理に関わる者が認識して確認し合ったことを示すものにほかならない。

また、抽水所のポンプの調整運転によって内水滞留が惹起される危険性があることは、《証拠省略》によっても認められるところであるが、さらに具体的には、《証拠省略》によると、昭和五五年頃作成されたものとみられる平野川地区内水災害対策技術研究会の報告書においては、集中的な豪雨の場合や前期降雨が十分あった場合など雨の降り方によって異なるという留保付きではあるものの、現況では毎時二〇ないし三〇ミリメートルの降雨で水害が発生する恐れがあるとしていることが認められ、これに、証人金盛の、昭和六〇年現在で平野川、同分水路の流下能力は毎時三〇ないし四〇ミリメートルの降雨量に耐えられる程度のものであり、本件水害当時はもう少し低かった旨の証言、及び証人須賀の、毎時三五ミリメートル程度の降雨量までは排水できる旨の証言、並びに前記第三の一2及び第四の三2(二)に認定したとおり、実際に、本件水害当日寝屋川水系で観測された時間降雨量が午前五時で一二ミリメートル程度(市町抽水所)、午前六時で二七ミリメートル程度(同)が最高であったにもかかわらず、市町抽水所で調整運転を実施せざるをえなくなった、との事実を合わせると、平野川、同分水路は、毎時六〇ミリメートルの降雨強度の降雨による雨水量を大幅に下回る雨水量しか流下することができない状態にあったことは明らかであるといえる。

そして右各証拠ないし事実と、《証拠省略》によって、大阪市職員組合、被告大阪市従業員組合と被告大阪市下水道局管理職員の間で本件水害に関する交渉討議を行った際、下水道局長が、下水道事業と河川事業との間にアンバランスがあることが浸水被害の第一の原因である旨発言した事実が認められる(これを覆すに足る証拠はない。)ことを合わせると、被告大阪市自身、本件水害当時において、本件下水道施設に、両事業実施の齟齬に起因する調整運転による内水滞留ないし溢水の危険性が存在したことを認識していたことが認められ、このことは、前記ビデオテープ一巻の検証結果中にある、被告大阪市職員の「多少むずかしいんですが、やはり河川と下水道両者のバランスがなかったからと。そういうことでの浸水でございますので、市の責任ということになりましょうか。」などの説明部分からも裏付けられるものである。

以上の諸事情を総合すれば、本件下水道施設は、本件水害当時において、降雨の際に市町排水区から市町抽水所に雨水が集水されても、放流先である平野川等の状況によってはこれを放流することができずに雨水ポンプの調整運転を余儀なくされる場合があり、その結果、計画降雨強度以下の降雨においても、市町抽水所周辺の内水区域に雨水を溢水滞留させる危険性を内在するものであったことが明らかである。

また、河川改修事業と下水道整備事業とでは、それぞれの事業規模、事業内容、投入事業費及び事業実施における諸制約の内容、程度の差によって、河川改修事業の方がはるかに長期の施行期間を要すること、第二次五か年計画に基づく本件下水道施設の拡張整備事業は、府計画に基づく平野川等の改修事業よりも早期に着工されていること、並びに市町抽水所建設の際に本件許可条件が付され、かつこれに基づき河川管理者と被告大阪市との間で前記協議がされたことなどの前記諸事情に徴すると、被告大阪市は、第二次五か年計画策定時に既に、本件下水道施設の整備が完了しても平野川等の改修未了のために市町抽水所に集水した雨水を放流することができない場合があることを十分予測することができたものというべきである。

さらに、前記のとおり、降雨時に多量の雨水が抽水所に集中しているにもかかわらず排水ポンプの運転を制限すれば下水管渠が通水不能の状態に陥り、そこにさらに多量の雨水流入が継続すれば、抽水所近辺の下水管渠開口部からの雨水の溢水が惹起されることは、容易に予測しうるところというべきであるから、結局、被告大阪市は、第二次五か年計画策定当時から、本件下水道施設に内在する前記危険性の存在及びそれに基づく浸水の発生について、予測することが少なくとも可能であったものということができる。

そして、以上の事情のもとにおいては、被告大阪市は本件施設整備の進展の度合に対応して、余剰雨水による浸水を防止するに足る施策を計画実施すべきであったのであり、かつ、本件においては、右浸水防止措置の実施が不可能で浸水結果の発生が不可避の事態であったと認めうる事情は、本件全証拠を総合してもこれを認めるに足りないのである。

この点に関し、被告大阪市は、下水道整備計画の実施途上の各段階において、改修未了の放流先河川のその時点における受入能力を特定し、それに下水道施設の雨水流出量を整合させることは到底不可能であり、放流先河川において河川改修計画に基づく改修が着実に実施されている以上、河川改修計画と並行して、改修後の河川の受入能力に基づいた下水道整備計画の実施に努めるのが、浸水被害の防止、周辺環境の改善という要請に応えるべき行政主体としての当然の責務であり、そして、その過程において、行政主体、法体系、制約条件などの相違から双方の事業の進捗度に遅速の差が出てもやむを得ない現象であって、その差異から生じる結果について行政主体が法的に責任を負うべき理由はまったくない旨を主張し、証人井前の証言は、右主張に沿ったものである。たしかに本件の場合、既に認定したとおり府計画は、近い将来において実施が予定されている市計画を前提として策定され、両計画の整合性は府計画概成時において初めて達成されることが当初から予定されていたものであり、かつ市計画の実施状況をその時々の府計画に基づく河川改修の進捗度と完全に合致させることは、実際上不可能といえるから、公共下水道の早期整備の必要に迫られる被告大阪市が、河川改修に先行して、河川改修計画完了段階の河川の流下能力に対応した規模能力の下水道整備を進め、その結果河川改修の進捗状況との間に隔差が生じたこと自体は、いちがいに不当とすることはできない。しかし、このように下水道事業を河川改修事業に先行させて進め、概成させることによって前記のような浸水被害発生の危険性を内在させ続けた以上は、それと併せて有効な浸水防止策を講じて危険性を解消させる必要があるというべきであり、改修完了河川の受入能力をいわば先取りした形で下水道事業を実施する必要があったということだけで直ちに、本件下水道施設が前記危険性を内在させていたために発生した浸水の結果を回避する可能性がなかったものとし、本件下水道施設の管理者である被告大阪市を免責させることになるものでは決してないというべきである。

また、右の点に関し、被告大阪市は、下水道整備の実施に当たって、浸水発生防止のため可能な限りの措置を採ってきた旨主張し、《証拠省略》を総合すると、次の各事実を認めることができる。すなわち、被告大阪市は、(1) 昭和四六年、苅田地区のうち苅田平野市町幹線の上流部二七三ヘクタールの流出雨水について、計画汚水量の三倍を超える量を直接駒川に放流する雨水吐口を駒川上流部に設置し、(2) 昭和四八年、鷹合平野幹線から今川へ毎秒二・五立方メートルを直接放流する内径一八〇〇ミリメートルの放流管を設置し、(3) 昭和四九年、苅田平野市町幹線上流部の地域からの流出雨水のうち最大毎秒約二〇立方メートルを今川に直接放流する雨水吐口を今川最上流部に設置し、(4) 昭和五〇年、降雨時に今林地区のうち特に地盤高の低い八ヘクタールからの流出雨水毎分五〇立方メートルを直接平野川に放流する今林仮抽水所を設置し(昭和五五年、排水対象面積を五〇ヘクタールに拡大し、ポンプ容量を毎分二二〇立方メートルに増強した。)、(5) 昭和五〇年以降逐次、駒川、今川沿いに、直接雨水を駒川、今川に放流する逆流防止弁付の小口径放流管を設置し、(6) 昭和五七年四月には、天王寺弁天幹線及び弁天抽水所を完成、通水させて、上野台地東部の平野川との間、約一二〇〇ヘクタールの地域から流出する従来は平野川に放流されていた雨水のうち、最大毎秒約二四立方メートルを、直接大川に放流して、平野川の流量負担の軽減を図った、などの措置を講じた。さらに、被告大阪市は、本件水害後に完成ないし完成予定の施設としては、(7) 昭和五六年度から、都市河川緊急整備事業により、木津川平野線及び新庄大和川線の街路下に豪雨時に一四万立方メートルの雨水を貯留し、河川の水位が低下した後河川へポンプ排水する内径一〇メートル、延長約一・九キロメートルの街路下調節池の建設工事に着工し、昭和六〇年度には木津川平野線下の延長約一・三キロメートル、雨水貯水量一〇万立方メートルの調節池を完成させて供用開始し、また、新庄大和川線下の調節池の建設を進め、昭和六二年度に完成の予定であり、かつ別に前記都市河川緊急整備事業の一つとして昭和五六年度に今川調節池の建設工事に着手し、施工してきた。右の今川調節池建設工事は、都市化に伴って水源を失った今川の下流に水門を設けて河床を掘り下げ、豪雨の際、近接する下水道幹線から今川上流端に雨水を直接越流させて、約一〇万立方メートルの雨水を貯留し、平野川の水位低下時に水門を開けて排水する機能を持つものであるが、同工事は昭和六〇年度に完成した。これらの調節池事業は、平野川等の改修事業に準じたものとして、被告大阪府の委任に基づき被告大阪市が工事を実施し、事業費は被告国、同大阪府、同大阪市が三分の一ずつ負担した。次に(8) 被告大阪市は、市町排水区上流部の雨水を他水系の住吉川へ導水放流する総延長一二・二キロメートル、最大流量毎秒七三立方メートルの平野住之江幹線及び住之江抽水所の建設を昭和五八年九月に都市計画決定し、昭和五九年度より着工し、昭和七〇年度に完成の予定である。以上のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。右認定事実によると、被告大阪市は、市町抽水所が完成した年度から、市町排水区の雨水の一部を直接河川に放流したり、地下に貯留することによって、市町抽水所への流入雨水量を軽減し、あるいは他地域からの平野川への放流量を減少させて間接的に市町抽水所からの雨水放流量を増加させるなど、市町排水区での浸水被害を防止するための種々の措置を実施してきたものといえる。そして、《証拠省略》によって認めることのできる、本件育和地区では昭和五八年九月二二日の浸水を最後として、また市町排水区内では昭和五九年六月二六日、二七日の浸水を最後として、浸水被害が生じていないという事実(これを覆すに足る証拠はない。)は、平野川等の河川改修の進展、概成と相まって、被告大阪市の右のような浸水防止事業の成果が実ったものとして評価されなければならない。

しかし、本件下水道施設のような営造物は、既にみたとおり、河川のように管理者がそれを設置して安全性を具備した状態で供用開始することが通常考えられない営造物とは異なり、人工的にこれを設置して供用を開始することが必ず考えられるものであるから、供用開始時において通常有すべき安全性を具備していなければならず、かつその管理の過程で右安全性を継続的に維持していかなければならない性質のものである。

また本件は、たとえば、いわゆる過渡的安全性を具備させる一応の措置を講じている河川について、それだけでは防止しえない氾濫による被害を防ぐために、管理者が将来に向かって社会通念に照らしてどのような河川管理施設をどの時間と費用によって設置すべき義務を負うかが問題となる場合とは異なり、本件下水道施設が、その供用開始時から、その有する下水処理能力をかなり下回る降雨強度の降雨による雨水量によってすら浸水被害を生じさせる危険性を内在させていたこと自体が問題となる場合であり、前記のとおり被告大阪市が本件下水道施設の供用開始時に既に浸水発生のありうることを予測することができたにもかかわらず、本件下水道施設の設置またはその後の管理に合わせて、これと同時にその下水処理能力に充たない降雨強度の降雨による雨水量で浸水が発生することを十分防止しうるに足る程度の施策を講じないままにしておいた以上、本件下水道施設は通常有すべき安全性を欠如していたものというほかなく、この場合にはまた、供用開始時ないしそれ以降も継続的に、本件下水道施設が当然備えておくべき安全性を具備させる措置を講じていなかったのであるから、たとえ十分な浸水防止措置を講じるにつき財政上その他の制約があったとしても、特段の事情がない限り、これを理由に被告大阪市が免責を得ることはできないと解するのが相当であり、そのように解するのが国賠法二条一項の趣旨に沿うものというべきである。そうすると本件においては、被告大阪市が前記のいくつかの浸水防止に有効と思われる措置を講じたものの、本件下水道施設に内在する危険性が解消されるには至らず、本件水害による浸水被害を防止できなかった(本件水害までに採られた防止措置は応急的ないし間接的なものが多く、本件のような内水溢水形態の浸水防止に効果的であると考えられる雨水調節池が一部完成したのは本件水害後の昭和六〇年度のことである。)のであるから、他に浸水の回避が不可能であると考えられる特段の事情が証拠を総合しても認められない以上、被告大阪市は損害賠償責任を免れないといわざるをえない。

(五) 結論

よって、市計画上予定された降雨強度毎時六〇ミリメートルを下回る本件八月豪雨のもとで、前記危険性を顕在化させて本件育和地区の浸水を惹起した本件下水道施設には、その設置または管理に瑕疵があり、被告大阪市は原告らに対して国賠法二条一項に基づく損害賠償責任を負担する。

三  被告国、同大阪府の責任(二)

さらに本件で、原告らは、被告国及び同大阪府に対し、一で検討した平野川、同分水路の管理責任のほか、被告大阪市の調整運転実施行為及び本件下水道施設の設置管理の瑕疵を前提として損害賠償責任を追及しているので、以下この点について検討する。

1  被告大阪市に対する調整運転の指示について

原告らは、市町抽水所の放流先河川が未改修であって現実の排水許容量が毎秒六〇立方メートル以下であったため、市町抽水所はそれでなくとも小さな雨水ポンプの排出能力をさらに抑えて運転することとなり、昭和五七年八月二日から同月三日の間、被告大阪府の河川担当職員が市町抽水所担当の被告大阪市職員に対して市町抽水所における調整運転を指示して調整運転を実施させ、これが原因となって本件水害が発生した旨を主張する。

前記第四の一3(二)及び同三の認定のとおり、本件水害当時、市町抽水所の放流先河川である平野川等の改修が未了であり、そのため平野川等の水位の状況によっては市町抽水所から雨水を放流できず調整運転を実施せざるをえない場合もあったのであって、この点は原告ら主張のとおりである。しかし、昭和五七年八月二日から同月三日にかけて被告大阪府の河川担当職員が市町抽水所担当の被告大阪市職員に対して調整運転を指示した事実は、本件全証拠によってもこれを認めるに足りず、かえって前記第四の三2に認定したとおり、市町抽水所の調整運転実施については、豪雨の際に大阪市下水道局災害対策室で降雨状況、平野川等の各計測点における水位などを監視している市担当職員が、そのまま放流を続けると下流域における氾濫の危険があると判断した場合に所轄抽水所に調整運転の指令を発していたのである。

したがって、この点に関する原告らの主張は理由がない。

2  調整運転の結果を予見、回避すべき義務について

原告らは、要するに、河川管理者は河川管理の必要性から危険水位を設定し、この危険水位を基準として市町抽水所の排水ポンプの調整運転を行うよう被告大阪市に指示していたのであるから、過去の浸水データ等も合わせて、河川管理者は本件調整運転による浸水の発生を予見しえたのであり、したがってこれを回避すべき義務があったにもかかわらず、これを怠って本件水害を発生させた旨を主張するのである。

たしかに、前記第四の三1の認定事実によると、河川管理者は、昭和四七年九月六日、被告大阪市に対して河川占用等の許可を与える際に本件許可条件を付し、下流の改修中の橋梁護岸等の安全確保のために、一定の水位を超えないように抽水所の排水ポンプの運転操作を行うべき旨の指示を与え、昭和五一年七月一日には調整運転を行うべき具体的危険水位を明示した確認書を取り交したのであるから、河川の水位が危険水位に達したときは、抽水所に雨水が集水されているにもかかわらず、排水ポンプの調整運転によって雨水の放流が制限されることを十分認識していたと推認することができる。そして、雨水の放流を制限している状態の抽水所へ、さらに多量の雨水が流入すると抽水所周辺の下水管渠が通水不能となって溢水が惹起されることは容易に予見しうるから、結局、河川管理者は、危険水位を設定した時点で、調整運転による浸水の発生を予見しえたものと解するのが相当である。

しかし、調整運転を行うことなく排水を続けた場合には護岸溢水ないしは護岸決壊の発生する危険性があり、このような調整運転によって保護される法益と調整運転によって侵害される法益の比較衡量等の結果、調整運転の実施に関して被告大阪市が損害賠償責任を負わないと解されることは、前記二1で検討したとおりであるから、調整運転実施の契機となったというべき河川管理者による危険水位の設定及びそれを基準として排水ポンプの運転操作を行うべき旨の被告大阪市に対する指示についても、前記二1と同様に考えて、河川管理者は損害賠償責任を負わないと解するのが相当である。したがって、この点に関する原告らの主張も理由がないというほかない。

3  大阪市公共下水道計画の認可行為について

原告らは、河川管理者は河川改修が完了して本件のような浸水が発生しなくなる見通しがたってから被告大阪市の下水道計画を認可すべきであり、この見通しが立っていない段階で被告大阪市の下水道計画を認可したこと自体において、被告大阪府及び同国に河川の設置管理の瑕疵があると主張する。

前記二で判示したとおり本件下水道施設に設置または管理の瑕疵が存する以上、このような瑕疵ある施設の整備計画を認可した行為についても問題のあることが考えられなくはないが、下水道法または都市計画法に基づく下水道計画の認可は、河川管理とはまったく別個の行政行為であり、しかも建設大臣等による認可行為の違法は国賠法一条一項の問題となるが、原告らの主張する同法二条一項の河川管理の瑕疵の問題とはならないものであり、また、全証拠を総合しても、右認可行為に独自の具体的な違法事由のあることが明らかにならないから、いずれにしても原告らの主張は失当である。

第六損害

一  原告一、二の損害

1  被害事実

前記第三の一1、2で認定した本件浸水の規模、態様及び経緯の事実に、《証拠省略》を総合すると、本件浸水による原告一の被害状況がいずれも請求原因五1の(一)(浸水中の生活破壊)、(二)(復旧作業と退水後の労苦)、(三)(家屋、家財の損傷)、(四)(休業損害)、(五)(健康上の被害)、(六)(精神上の苦痛)記載のとおりであること、及び原告二の被害状況がいずれも同五2の(一)(浸水中の生活破壊)、(二)(家屋、家財の損傷)、(三)(精神上の損害)記載のとおりであることを認めることができ、右認定に反する証拠はない。

2(一)  包括請求について

原告一、二は、(1) 本件浸水によって個々の原告が蒙った被害内容を遺漏なく計上し、あるいは応急措置後の家財等の減価額を正確に査定することは不可能に近く、また復旧に要した費用の客観的立証も困難であること、(2) 各個別項目ごとの損害を評価積算した総和が当該原告が蒙った損害額を正確にあらわしているとは必ずしもいえないこと、(3) また、原告各個にそれぞれ別個かつ独自の損害額の主張立証をさせることは、原告数が極めて多い本件では徒らに訴訟遅延を招くことを理由として、本件水害による損害を、生活基盤(平穏な家庭生活の利益)そのものに対する侵害によって生じた一個のものとして包括的に把握すべき旨主張する。

たしかに、本件のような水害は、平穏な家庭生活という生活基盤そのものを破壊する点にその特性を見出しうるのであり、かつ不法行為による損害賠償請求における訴訟物は財産的損害と精神的損害とで区分されることなく社会的法益侵害の個数ごとに一個のものとしてとらえるべきであることからも、原告の、平穏な家庭生活の利益の侵害という点で個別の財産項目の減少価値の総和を超えた非財産的損害をも併せ含んだ一個の損害として把握しようとする試み自体は、それなりに評価しうるものである。そして、かような損害概念の定立が、後記のとおり家庭生活の基盤の破壊という点で原告一及び同二の各類型内で個々の原告の資産、生活状況等を捨象したある程度共通の侵害内容を抽出することを可能なものとするのであり、このような損害額算定の方法は、従来採られてきた個々の損害費目ごとに損害額を算定して合算するいわゆる個別損害積算方式と比較して、はるかに訴訟経済に資することも否定することはできない。

しかし、より詳細に検討すると、浸水による家屋ないし家財道具の毀損、汚損は、家屋ないし家財道具自体の経済的価値の減少を招来するだけでなく、それが原告らの営む日常生活に密着した必要不可欠の財産であるため、その財産の使用等による原告らの平穏な家庭生活の利益に対する侵害をももたらすとはいえるものの、そのことから、家屋ないし家財道具の経済的価値の減少を直ちに平穏な家庭生活の利益の侵害と同一視し、前者が後者に当然に包摂されるものとみることができるというには、かなり疑問がある。けだし、例えば原告一についてみても、家屋自体が持家であるか借家であるか、また住居内に保有する家財道具の種類、数量、財産的価値等の事情は、各原告ごとに多種多様であって、家屋ないし家財道具の浸水による経済的価値の減少分としての損害額は各原告ごとにまったく異なったものとなり、また休業損についても原告の職業、年齢等によって算定額に著しい差異が存在するものであり、住居の汚損による日常生活への支障の態様、程度の点において共通し同一視できるところがあるというだけであるから、両者は評価対象たる事実は共通のものを含んでいるといえるにせよ、損害評価の点では相当明確に区別すべきものであるからである。したがって、個々の家財の経済的価値の減少等を平穏な家庭生活の利益への侵害という概念で直ちに代替することはできないというべきである。

また右原告らの主張は、家屋、家財道具といった個々の被害品目についての金銭的評価及び積算の不能ないし著しい困難を回避し、本件水害による損害に関する訴訟上の主張立証を容易ならしめようとするものとして理解できなくはないが、実際上、財産的損害と非財産的損害を包括して平穏な家庭生活の侵害という一事で被害状況を示したところで、個別損害積算方式に代わる損害額算定の基準、方法を明確にしたことにはならず、損害額算定が容易でないことに変わりはないのである。

さらに、家財の経済的価値の減少等については他に損害保険評価方式等の定型的損害額算定方法を採用することによって損害額算定がある程度可能となること、原告一、二が主張する包括一律請求の方法は、結局は財産上の損害額の算定までも裁判所の裁量に一任することとなって相手方の反論防御の機会を奪う結果となりかねないことも考慮すると、右包括一律請求の方法をあえて認めることは相当でないというべきである。

以上の理由で、原告一、二が主張するような財産的損害と非財産的損害を包括した一個の損害概念の定立及びこれに基づく請求は、にわかに採用することはできず、原告一、二主張の平穏な家庭生活の利益概念は、非財産的損害を包括する限度でのみ意味を持ちうるにすぎないと解するのが相当である。

(二) 一律請求について

原告一、二は、本件水害によって侵害された生活利益は、被害の種類が同じであれば各家庭ごとにその価値に差があるものではなく、本件では生活圏の主要部分で直接被害を受けたかどうか、すなわち床上浸水と床下浸水で被害の種類を分け、それぞれについて一律の損害額を認定すべき旨主張する。

そこで検討すると、本件水害によって原告らが蒙った損害として、財産的損害と非財産的損害を包括した一個の損害概念を定立して損害額算定の基礎とすることが妥当でないことは前記(一)の説示のとおりであるから、財産的損害と非財産的損害を区別して考察する必要がある。

そしてまず、財産的損害については、原告らの職業、資産状態、生活水準、生活様式等によって個別性が極めて強く、かつ原告ら相互間の隔差もかなり大きなものであるから、損害額を一律に認定することは妥当でないというべきである。

これに対して本件水害による被害のうち財産的損害として把握できないもの、すなわち浸水によって余儀なくされた各種の生活上の不自由、避難活動、復旧作業等の労苦、居住家屋や日常愛用する家財道具が水浸しとなり、あるいは汚損されたことに対する不快感ないし精神的苦痛は、前記1の認定事実により、その内容、程度について床上浸水と床下浸水とによって区分された原告一、二の各類型内では、個々の原告の資産状況等に関係なく概ね共通なものとして認めることができる。そしてこれらの被害は、結局、原告らが精神的な面で損害を蒙ったものとして評価することができるのであり、慰謝料の支払を受けることで補填される性質のものである。よって、原告一、二の損害額一律認定の主張は慰謝料額算定の限度で理由があるというべきである。

3  損害額

そこで以下、本件水害によって原告一、二が蒙った損害額について検討する。

まず財産的損害については、前記2で説示したとおり各原告ごとに個別的にその損害額を主張立証する必要があるところ、原告一、二は前記2のとおり財産的損害と非財産的損害を包括した一個の損害概念を措定し、これに基づく一律額の賠償を請求するのみで、個々の原告の蒙った財産上の損害額についての主張は何らしていない。また、証拠上も《証拠省略》の各被害報告書には家屋、家具等の被害品目と金額が計上されているが、見積書、領収証など右計上損害の裏付けとなる資料がまったく提出されておらず、その他各原告の財産的損害の内容、金額を認めるに足る証拠はない。

次に、原告一、二の非財産的損害について検討すると、本件水害によって原告一、二がその平穏な家庭生活の利益に受けた被害は前記1認定のとおりであり、これによると、原告一、二はいずれも、汚水の中で長時間にわたる浸水の恐怖にさらされていたこと、浸水によって日常生活において種々の不便を余儀なくされ、特に原告一は就寝や食事について非常な不自由を強いられたこと、通常の河川溢水と異なりマンホールや水洗便所からの下水の溢水という通常人に極度の不潔感嫌悪感を抱かせる態様の浸水によって家屋や家財を汚損されたこと、家財等の避難作業、復旧作業及び清掃作業等に多大の労苦と出費をかけざるをえなかったことが認められる。

そしてかような被害状況や右被害が被告大阪市の本件下水道施設の供用開始当時から浸水被害の発生を予測させるような設置管理の瑕疵によって生じたものであること、及び右被害の発生につき原告らに特段の斟酌すべき落度は認められないことなどの諸般の事情を考慮すると、原告らの本件水害による平穏な家庭生活利益の侵害によって蒙った精神的損害を補填するに足る慰謝料は、原告一については三〇万円、原告二については一〇万円を下らないものと解するのが相当である。

次に原告一、二が本件訴訟の提起、追行を原告ら訴訟代理人に委任したことは当裁判所に顕著な事実であり、本件事案の内容、難易度、審理経過、認容額等諸般の事情を考慮すると、本件水害と相当因果関係のある損害として被告大阪市に対して賠償を求めうる弁護士費用は、原告一につき各五万円、原告二につき各二万円をもって相当と認める。

二  原告三の損害

(原告三の損害のうち、弁護士費用の部分については、22において一括して判断する。)

1  原告島伝

(一) 商品

《証拠省略》を総合すると、原告島伝は、各種玩具の製造、販売、各種プラスチック製品の加工業を目的とする株式会社であって、肩書住所地に本社事務所兼倉庫、その付近に二つの倉庫を有して営業しているものであるが、本件水害によって、倉庫に積まれていた玩具類入の箱が荷崩れを起こすなどしたため、商品である玩具類の約三分の一に当たる別紙損害目録一(四)(1)記載の商品が本件水害によって浸水し、原告島伝において衛生上の観点等から商品価値をなくしたものとみなして、これを廃棄処分したことを認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はない。

そして廃棄した商品の数量、単価については、これを正確に認定しうる仕入台帳等の資料が提出されていないが、原告島伝代表者が、廃棄商品の数量については倉庫から搬出して廃棄する際に逐一勘定して控え書等に記載し、単価については仕入台帳から把握した旨供述していること、前記検甲イ第五八ないし第六〇号証に撮影された状況によると商品の廃棄状態が乱雑であるため数量の把握が一見困難のようにみえるが、《証拠省略》によると、右廃棄商品は倉庫から搬出された段階では梱包された状態のままであって、各梱包ごとの数量把握をすれば全体の数量算出はそれほど困難ではないと認められること(前記第五八ないし第六〇号証に撮影された状況は右数量勘定をした後のものであり、また《証拠省略》は数量把握作業を撮影したものと、それぞれ推認することができる。)、《証拠省略》によると、原告島伝は第一五期確定決算報告の際に右廃棄商品の数量と単価の品目ごとの積を合算したものを損害額として確定決算報告書に計上していること(右認定に反する証拠はない。なお合算過程で一部誤算が認められ、別紙損害目録一1の正確な合計額は五五五七万一九三四円であることが計算上明らかである。)などに徴すると、廃棄商品の単価及び数量はかなり正確に把握されていたものと認めることができる。

また、右各証拠を合わせると、原告島伝の商品である玩具には、その性質上、浸水によって商品価値ないし経済的価値が直ちに喪失ないし減少するとは考えられないものが含まれていることを推認しうるが、他方で、原告島伝代表者尋問の結果と弁論の全趣旨によると、原告島伝の商品中には紙製のものも多く含まれており、この紙製品は、本件浸水によって商品価値を喪失したことが認められる。そして本件水害当時の復旧作業の間に商品価値を厳密に正確に評価し、廃棄物とそうでない物を選定することが容易にできることでないことは、みやすいところであり、さらに、いったん下水で汚損された玩具を市場に出すことはできないと判断した旨の島伝代表者の前記供述もおおむね首肯しうるというべきである。

以上の諸事情を総合すれば、原告島伝の商品損害額は、(若干控え目ではあるが、)廃棄商品の単価と数量の積の合算額五五五七万一九三四円の七割に当たる三八九〇万〇三五三円をもって相当と認める。

なお、前記のとおり原告島伝は、第一五回確定決算報告書中で商品損害分を損金として処理しているが、右商品損害額が課税上どのように考慮されたかについてはこれを認めるに足る証拠がなく、結局これによる損害の減少額については立証がないといえる。

(二) 改修工事費用

原告島伝は、中澤建設に支払った改修工事費用として三五〇万円を損害に計上しているが、《証拠省略》によると、改修諸工事のうちまず商品台の付替工事については、従前の商品台が昭和四三年に設置されて以来既に一〇数年以上使用されていたもので相当傷んでおり(原告島伝代表者自らそのことを認めている。)、その付替工事が本件浸水を契機として行われたものであっても、本件浸水に起因して付替えをしなければならなくなったというほどのものではなく、またその他の改修工事の内容としては、出入口水止枠、排水ポンプの新設など将来の水害防止対策工事がほとんどであり、これらに要した費用は本件水害によって蒙った被害の復旧費用には該当しないものであり、右復旧費用に該当するのは、浸水の際、水圧によって破損した倉庫シャッターの取替費用一四万八八〇〇円及びそれに付随した鍵の取替費用一万〇五〇〇円並びにモルタル補修費用四万五〇〇〇円であり、また解体処理費及び運搬雑費等諸経費合計三二万五〇〇〇円のうち右復旧工事に関連した少なくとも右金額の一割を下らない三万二五〇〇円であることが認められ、これに反する証拠はない。

したがって、原告島伝の改修工事費用のうち本件水害による損害相当額は二三万六八〇〇円となる。

(三) 機械修理代等

《証拠省略》によると、原告島伝はフォークリフト、電話機のコネクター部分、クーラーがいずれも本件浸水によって作動不良となる被害を蒙り、フォークリフトの修理費用等として一万二〇〇〇円、コネクター交換費として二万四〇〇〇円、クーラー点検費用として一万〇六四〇円をそれぞれ支出したこと、水害直後の排水作業のために水の吸込クリーナーを購入して九万九三六〇円を支出したことを認めることができ、これを覆すに足る証拠はなく、右支出費用額は合計一四万六〇〇〇円となることが計算上明らかである。

(四) 復旧費用

《証拠省略》によると、原告島伝が昭和五七年八月六日から同月三〇日にかけて、浸水被害の後片付けのために高田を除くアルバイトの者を八名雇い、総額三〇万四〇〇〇円を支払ったことが認められ、これに反する証拠はない。しかし、高田に対する三万円の支払については、その裏付けのために提出された、原告島伝代表者尋問の結果により成立を認める甲イ第一七号証が、昭和五八年八月分のタイムカードの用紙に記載されたものである点で、その信用性ないし本件浸水との関連性が極めて疑わしく、ほかにこれを認めるに足る証拠はない。

(五) 逸失利益

原告島伝は、昭和五七年度分の売上高、期中仕入高、売上原価を同五五年度、同五六年度のそれと比較した減少分等に、同五五年度、同五六年度の売上高、期中仕入高、売上原価に対する利益率を乗じ、その結果の平均値を採るという方法で逸失利益を算出し、これを本件水害による損害と主張している。

たしかに《証拠省略》によると、昭和五七年度は、昭和五五年度、同五六年度と比較して純売上高、期中仕入高、売上原価、売上総利益のいずれも原告島伝主張のとおり大幅に減少していることが認められるものの、右諸数値の変動は昭和五五年度と同五六年度の間にも見られるところであり、昭和五六年度は昭和五五年度に比べて純売上高が七三六万六七七三円、期中仕入高が三一六万四六三七円、売上総利益が九五七万七四二六円といずれも減少し、売上原価が二二一万〇六五三円増加していることが認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

一般に企業の仕入高、売上高、売上利益は、企業内外の社会的、経済的諸要因が複雑な影響を及ぼすものであり、原告島伝は昭和五五年度以降の三か年、売上高、売上利益等いずれも減少傾向にあつたことは右認定事実から推認するに難くないところであり、原告島伝代表者尋問の結果中、これに反する部分は措信することができない。

したがって、昭和五七年度の売上高等の減少の程度からみて、これに本件水害の影響がまったくなかったとまで断定することはできないものの、他の社会的経済的要因との関連の中で、本件水害が原告島伝の売上高にどの程度の影響を及ぼしたかを推認することまでは到底できず、この点について具体的主張立証のない本件においては、結局、原告島伝の昭和五七年度における売上高等の減少と本件水害との相当因果関係を認めることができないといわざるをえない。

(六) 損害の填補

原告島伝が本件水害による損害の填補として火災保険会社から三〇〇万円の支払を受けたことは、原告島伝と被告大阪市との間において争いがない。

そこで前記(一)ないし(四)の各損害金合計三九五八万七一五三円から右損害填補額三〇〇万円を控除すると、残額は三六五八万七一五三円となる。

2  原告サンコー

(一) 商品

《証拠省略》によると、原告サンコーは玩具及びクリスマス用品の加工販売を業とする株式会社であり、肩書住所地に事務所兼倉庫等及びその付近に二つの賃借倉庫を有するものであるが、本件水害によって、これらの倉庫に保管されていた商品の一部が浸水したこと、原告サンコーは右汚損された商品を、水洗いするなどして乾燥させれば販売できる商品と廃棄処分せざるをえない商品とに区分けしたうえ、廃棄処分をせざるをえなかった商品についてのみ損害を受けたものとして本訴でその賠償を請求していること、以上の各事実を認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はなく、これによれば、原告サンコー主張のとおりの損害(二〇〇万〇三八四円)が生じたことが窺えないではない。

しかし、原告サンコーにおいて廃棄された右商品の数量、単価に関する証拠は原告サンコー代表者の妻が作成した前記甲ロ第二号証のみであり、その作成時期及び作成過程が明確でなく、また原告サンコー代表者も、廃棄された商品の数量について、浸水した商品の九割以上であるとか、毎月末に店卸しをしているので分ると思う旨などの曖昧な供述をするにとどまり、かつ単価については具体的にこれを証拠づける供述をしていない。そして、ほかには右甲ロ第二号証の裏付けとなりうる証拠が見当たらないから、廃棄商品の数量、単価を原告サンコーの主張のとおり認めるにはなお立証が十分でないといわざるをえない。

要するに、原告サンコーは、本件水害を原因として商品を廃棄処分したことによりかなり多額の損害を蒙ったことまでは認められるが、その額を厳密に確定するまでには至らないということになる。

ただ、原告サンコーが本件水害の填補として火災保険会社から一〇〇万円の支払を受けたことは原告サンコーと被告大阪市との間において争いがないところ、これと前記各認定事実に弁論の全趣旨を合わせれば、原告サンコーが商品廃棄によって蒙った損害の額は右保険金支払額程度はあったものと認められるから、原告サンコーは、商品廃棄による損害を受けたものの、全額保険金で填補されたとするのが相当であり、それ以上に賠償を求めうる損害はないというべきである。

(二) 修理代等

(1) 《証拠省略》によると、原告サンコーは、右リフトの下の部分に水が溜り、リフトの支柱が錆びてきたため、右部分にコンクリートを流し込んで嵩上げをして、水が溜まるのを防止する工事を行い、その費用として一万円を支払った事実を認めることができる。しかし、この工事が将来の浸水に備えての予防的工事であり、本件水害によって蒙った被害の回復という性格のものでないことは右認定事実に照らして明らかであり、それに要した出費を本件水害による損害と認めることはできない。

(2) 《証拠省略》によると、原告サンコーは、本件水害によって、原告サンコー所有のライトバンの車体が浸水して同車のバッテリーが使用不能となったため、バッテリー交換のために八五〇〇円を支払い、また同社所有の別の乗用車の車体も浸水したため、洗車または内装の清掃のために一万二〇〇〇円を支払い、さらに同社所有の応接セットも浸水によって廃棄せざるをえなくなったため、応接セットを新規購入して、その代金として七万九八〇〇円を支払った事実を認めることができる。なお右応接セット購入代金の領収証である前記甲ロ第七号証は日付が本件水害後半年以上経過した昭和五八年三月二二日付となっているが、原告サンコー代表者尋問の結果によると、本件水害後、原告サンコー事務所の応接間の床の改修が昭和五七年一二月までかかり、それが完了した時点で新しい応接セットを購入して設置したことが認められるから、これによって右領収証の日付と本件水害発生日との差については十分納得のいく説明がされているというべきであり、その他に前記認定を覆すに足る証拠はない。

もっとも、前記バッテリー及び応接セットに関する本件水害による損害額は、厳密には被告大阪市主張のとおり本件水害当時の当該物品の価値すなわち既存の物品の購入価格から耐用年数に応じた減価償却を施した金額を意味するから、新規購入物品の価格をそのまま損害額と認めることは妥当とはいえない。しかし、本件のような事例における減価償却率の決定について確立された基準があるわけではなく、また既存物品の購入価格の立証が一般に新規購入価格の立証よりも困難であることを考慮すると、代替物品購入の場合に直ちに損害額の立証なしとするのも相当とはいい難い。そこで控え目に見積って新規購入価格の三割をもって本件水害による損害と認めるのが相当であり、したがって、右バッテリー及び応接セットについての損害額は、右の順に二五五〇円、二万三九四〇円となることが計算上明らかであり、これに前記洗車及び清掃費一万二〇〇〇円を加えた本項目に関する損害額合計は三万八四九〇円となる。

(三) 休業損害

《証拠省略》によると、原告サンコーでは、同代表者、その妻、従業員二人が本件水害後一五日間、後片付け等の復旧作業に従事し、かつ他の会社に勤務する右代表者の娘二人及び後片付けのために採用したアルバイトの者一人も復旧作業に従事したこと、昭和五七年八月分の原告サンコーから支給した給料は、右代表者が八〇万円、代表者の妻が二一万円、従業員二名がそれぞれ二一万六〇〇〇円及び一二万六五〇〇円であること、以上の各事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。しかし、右代表者の娘二人及びアルバイトの者に対する支給額については、これを認めるに足る証拠がない(前記甲ロ第二号証は前記(一)のとおり、それだけでは証明力が十分ではない。)。

また、原告サンコー代表者尋問の結果によると、右代表者らが本件水害による復旧作業に従事していた一五日間も、原告サンコーはまったく休業していたわけではなく、電話等による注文の受付等の営業活動はわずかずつではあるが行っていたことを認めることができるから、復旧作業等によって営業を行えなかった期間は控え目に見積って七日間に限られるものと認める。

そこで、八月の通常営業日数を二五日とみなして、前記各支払給与を二五で除した後、右休業日数七を乗じて右休業期間の給与相当額を算出すると、原告サンコー代表者が二二万四〇〇〇円、その妻が五万八八〇〇円、従業員二名がそれぞれ六万〇四八〇円、三万五四二〇円となり、その合計額は三七万八七〇〇円である。

(四) よって、(二)の(2)及び(三)の損害額の総計は四一万七一九〇円となる。

3  原告田渕商事

(一) 商品

《証拠省略》によると、原告田渕商事は、天然皮革、合成皮革、塩化ビニール、レザーシートなどの材料の卸問屋であるが、本件水害によって大阪市東住吉区今林二丁目九番一〇号所在の倉庫内に保管してあった原反の一部が浸水し、当初は浸水した原反も乾燥させれば使用できると考えて種々の方法で乾燥させていたが、昭和五七年一〇月末の時点で結局乾燥しきれなかったもの、カビが生えて商品価値を失ったものなどを一メートル当たり一律に一〇〇円で売却し、その売却価格と仕入価格との差額(前者が後者よりもはるかに安い。)を損害として計上していることが認められ、右認定に反する証拠はない。

なお、損害として計上されている商品の数量及び単価についてはそれを一覧表として記載している前記甲ハ第二五号証が提出されているところ、《証拠省略》によると、単価は仕入原価を記載し、また、数量についても、本件水害直後に浸水した原反の数量(メートル数)を確認して乾燥の手順を計画する資料とし、その後毎月一度の店卸の際も浸水した原反とそうでないものとを区分し、かつ、前記の一律に一メートル当たり一〇〇円で売却した際にも原反の数量を確認しているうえ、前記甲ハ第二五号証記載の本件水害当日の被害原反の数量と昭和五七年一〇月三一日時点での被害原反の数量との差に相当する分は、乾燥して通常の商品として出荷したものであって、これは売上伝票等で容易に確認できるものであることが認められる。

これらの事情を総合すると、前記甲ハ第二五号証の証明力は十分であるということができるから、本件水害によって浸水し、原告田渕商事が一メートル当たり一律一〇〇円で売却せざるを得なくなった原反の品名、数量、単価は、いずれも甲ハ第二五号証によって損害目録三(四)(1)記載のとおりに認められ、その売却価格との差額分の実損害は四一二万二八八五円であることが計算上明らかである。

(二) フォークリフト修理代

《証拠省略》によると、原告田渕商事は、本件水害によって同社が保有するフォークリフトが浸水して作動不良を起したので、その修理を依頼し、修理代金として一四万円を支払ったことを認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はない。

(三) 後片付けの諸費用

《証拠省略》によると、次の各事実を認めることができる。

(1) 原告田渕商事の倉庫の棚に敷いてあった棚板は、材質が水に弱いものであったため本件水害で浸水した部分が使用不能となり、その取替費用として二七万九〇〇〇円を支払った。

(2) また、棚板の取替え等によって収納できなかった原反の一部を倉庫の床に直接立て掛けておいたところ、本件浸水後に残っていた床の湿気が商品に移り、カビが生えてきたため、湿気が伝わらないように床の上に角材を敷き、その上に原反を乗せたが、右角材の購入費用として二万四〇〇〇円を支払った。

(3) 本件水害によって倉庫の中に水が溜り、それを汲み出すために水中ポンプを賃借し、賃料として五〇〇〇円を支払った。

(4) 本件水害後、原告田渕商事の従業員全員が後片付けなどの復旧作業を行った際、夜食として九四〇〇円相当の食料等を購入した。

(5) 本件水害後、下水によって浸水した倉庫を消毒し、その消毒液の購入費用として一四六〇円を支払った。

以上のとおりであり、右認定に反する証拠はない。

なお、原告田渕商事は、水害の被害状況を撮影した写真代も損害として計上しているところ、《証拠省略》によると、原告田渕商事が本件水害の被害状況撮影のためのフィルム代として八六〇円、現像代として一五一〇円をそれぞれ支払っていることが認められるが、右出費については、本件水害との必然性ないし関連性を認めがたく、本件水害による損害として認めることはできない。

したがって、右(1)ないし(5)の合計三一万八八六〇円をもって本件水害によって原告田渕商事が蒙った後片付けなどの費用に関する損害と認める。

(四) 人件費等

《証拠省略》によると、原告田渕商事では本件水害後の倉庫整理や原反の乾燥作業のために従業員に日曜出勤を依頼したり、アルバイトの者を雇い、さらに仕入先会社の空地を借りて原反を天日乾燥する際に仕入先の従業員にも手伝いを依頼し、原告田渕商事の従業員の日曜出勤手当として四万五〇〇〇円、アルバイトの者三名への手当として合計二二万五〇〇〇円、乾燥作業を手伝ってもらった仕入先従業員への手当として六万円を、それぞれ支払ったことを認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はない。したがって本件水害によって原告田渕商事が蒙った人件費等に関する損害は三三万円となる。

(五) よって(一)ないし(四)の損害額合計は四九一万一七四五円となる。

4  原告河田

(一) 機械修理等

《証拠省略》によると、原告河田は肩書住所地において弱電関係、自動車関係の各種精密部品の加工工場を経営する者であるが本件水害によって、(1) 工場の機械類が約七〇センチメートル浸水し、機械油がすべて流出したため、その補充のために日和油業株式会社(以下、日和油業という。)及び三栄樹脂から各種の機械油を購入し、日和油業に対して二〇万三三〇〇円、三栄樹脂に対して一二万七八〇〇円、を支払ったこと、(2) また一部の機械のモーターないしクラッチ関係部分が本件浸水によって作動不良となったため、二見精機株式会社(以下、二見精機という。)に修理及びモーターの取替えを依頼し、その修理費用等として七万三一〇〇円(修理費一万九六〇〇円、ベアリング入替え五〇〇〇円、モーター取替え四万八〇〇〇円)を支払ったこと(ただし、原告河田は、二見精機支払分については七万二六〇〇円の限度で請求している。)、(3) 機械の配電盤が浸水によって故障したためファナック株式会社に修理を依頼し、その修理費用として五万七四〇〇円を支払ったこと、(4) 菱電工機サービスエンジニアリング株式会社(以下、菱電工機という。)から納入を受けていた自動盤主軸モーターが浸水によって作動不良となり、菱電工機に右モーターの交換を依頼して、その費用として一二万〇四〇〇円を支払ったこと、以上の各事実を認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はない。

ところで、原告河田は、このほかシチズン製挽物加工機の修理代等としてヤマサキセイキ株式会社(以下、ヤマサキセイキという。)に支払った金額、並びにモーター等の取替費用として株式会社宮野鉄工所(以下、宮野鉄工所という。)に支払った金額についても、損害項目に計上している。しかし、原告河田本人尋問の結果により成立を認める甲ニ第一号証の一、同第二号証の一(いずれも請求書)によると、原告河田が本件水害によるものと主張する修理及び部品取替えの日付は、ヤマサキセイキが昭和五七年九月一三日(甲ニ第一号証の一)、宮野鉄工所が同月七日(甲ニ第二号証の一)といずれも本件水害当日より一か月以上後であり、原告河田が本件水害による機械修理のために要した期間として主張する二週間よりも以後の日付である。この点について、原告河田は、右修理等はいずれも本件水害直後に行われたものであり、前記甲ニ第一号証の一、同第二号証の一の日付の記載が誤りであるかのように供述するが、異なった会社の発行した二通の請求書の記載日付がともに一か月余りも誤っているとは到底考えられず、しかも両請求書にはそれぞれ当該修理等よりも以前に、すなわち甲ニ第一号証の一には昭和五七年八月一七日付、甲ニ第二号証の一には同年九月三日付で、それぞれ原告河田が機械部品を購入したことを示す記載が見られるところから、当該修理等の日付に関する右各請求書の記載はいずれも正確なもののように認められる。してみると、ヤマサキセイキの挽物加工機の修理等はいずれも右請求書の記載日に行われたとみるのが相当であるから、原告河田は、右修理等が本件水害によるものと主張する以上、本件水害後一か月以上修理等が遅延するに至った合理的事情について立証する必要があるが、その立証はない。したがって、右ヤマサキセイキによる修理ないし宮野鉄工所によるモーター等の取替えと本件水害との関連性は、証明不十分というべきであり、右修理等に要した費用を本件水害による損害として認めることはできない。

次に、原告河田は、前記認定事実のとおり既存のモーターが浸水で作動不良になったため新規モーターとの取替えを行っているが、モーターのような重要部品の取替えにおいては既存部品の減価償却を考慮すべきであって、新規部品の購入価格をそのまま損害とするのは相当でない。そして、原告河田所有の前記既存モーターの減価償却後の価格は、弁論の全趣旨により、(控え目ではあるが、)新規購入価格の三割と認め、二見精機に支払ったクラッチモーター取替費用四万八〇〇〇円のうち一万四四〇〇円、菱電工機に支払ったモーター取替費用一二万〇四〇〇円のうち三万六一二〇円を本件水害による損害とする。

次に、原告河田は工場の機械の嵩上げ工事費九八万一二五〇円を本件水害による損害として計上しているが、《証拠省略》によると、右工事は将来同様な水害が発生した場合に機械の浸水を防止するものであり、本件水害による被害の復旧という性格のものではないことが認められるから、右工事費用を本件水害による損害ということはできない。

よって本項目に関する原告河田の損害額は、

日和油業関係 二〇万三三〇〇円

二見精機関係 三万九〇〇〇円

三栄樹脂関係 一二万七八〇〇円

ファナック関係 五万七四〇〇円

菱電工機関係 三万六一二〇円

の合計四六万三六二〇円となる。

(二) 休業期間中の支払給料

《証拠省略》によると、昭和五七年度に原告河田が従業員五名及び専従者に支払った給与は一五八五万八一四九円であることが認められ、右認定に反する証拠はない。そして《証拠省略》により年間実労働日数は約三〇〇日と認められるから、前記年間給与総額を三〇〇で除すると、一日当たりの給与支払額は五万二八六〇円となる。

ところで、原告河田は、本件水害後二週間は機械の修理のため休業せざるをえなかったことを理由として、本件水害による休業日数を一五日とする。しかし、《証拠省略》によると、原告河田は、昭和五七年八月一七日に同年九月一三日に修理したのと同一機械の部品を購入していることが認められ、弁論の全趣旨によると、これは機械の通常の使用による損耗であると推認しうるから、右機械の修理が同年九月一三日に行われていることを併せ考えると、原告河田は右機械を本件水害後二週間の期間内に使用して稼働していたことがあるものと窺われるのであり、《証拠省略》中、本件水害後二週間は機械が動かせなかったので仕事ができなかったとする部分は、にわかに措信しがたいというほかない。ただ、前記(一)の認定事実によって、本件水害後二週間のうちには、機械の修理等のためにまったくもしくはほとんど仕事ができなかった期間も含まれていることは十分認められるところであり、右事実と弁論の全趣旨により、その期間を七日と認める。

したがって、前記日額支払給与五万二八六〇円に七日を乗じた三七万〇〇二〇円が、原告河田の休業損害となる。

(三) 逸失利益

原告河田は、昭和五五年度、同五六年度の所得から二年間の平均日額収入を算出し、それに休業日数として一五を乗じたものを原告河田自身の本件水害による所得減少分として計上している。しかし、企業所得は単なる商品の生産量のみでなく、原材量等の仕入価格及び数量の変動、販売先や販売量の変動等の種々の企業活動業績が複合して生み出されるものであり、その所得高は一年のうちでも月によって変動し、毎日一定の所得が継続して計上されるというものでは決してない。したがって、原告河田が本件水害によって工場の操業に打撃を受けたことは否定できないものの、それが原告河田の所得にどのように影響したかを算定することは困難というべきであり、原告河田主張の逸失利益算定方法も合理的なものとはいいがたい。

(四) 銀行支払金利等

原告河田は、本件水害のための機械の修理費用が多額に必要となったため、昭和五七年九月、被災中小企業緊急融資として住友銀行から四〇〇万円の融資を受けたとして、その支払利息及び補償料等を損害として計上している。

そこで検討すると、《証拠省略》によると、原告河田が昭和五七年一〇月二八日に住友銀行から四〇〇万円の融資を受けた事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。しかし、《証拠省略》によると、融資金の使途として運転資金と記載されているだけであることが認められ、これに右融資金を本件水害による故障機械の修繕費用にのみ使用したわけでないことは、原告河田自身がその本人尋問において供述(自認)していることを考え合わせると、本件水害による被害と右融資との関連性は明確とはいえず、他にこの点を認めるに足るほどの証拠はないから、右融資の利息等を本件水害による損害と認めることはできない。

(五) よって原告河田の(一)及び(二)の損害額合計は八三万三六四〇円となる。

5  原告嘉長

(一) 原材料、完成品

《証拠省略》によると、原告嘉長は、紙製品の製造、販売を業とする株式会社であるが、本件水害によって工場の土間の部分が二〇センチメートルほど冠水したため、そこに積み重ねて保管されていた上質紙、ボール紙、ビニール等の原材料や日記、電話帳等の製品の一部が浸水し、また工場床下に作られた保管庫にも水が入り、そこに保管されていたバインダー金具も浸水したため、これらをすべて廃棄処分した事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

ところで、浸水によって廃棄された原材料の単価の点に関して上質紙、FCボール紙、Y一〇二台紙ボールの単価については、《証拠省略》によって、別紙損害目録五(四)(1)記載のとおりに認めることができるが、その余の原材料の単価については、証人長田の証言によると、原告嘉長の主張に沿う前記甲ホ第一号証の記載部分も、長田の記憶に基づいて記載したにすぎないことが認められるから、客観的裏付けに足りないところがあることを否定することができない。

さらに、廃棄された原材料の数量については、《証拠省略》によると、(1) 本件水害直前の昭和五七年七月末の店卸の際の在庫表と対照しつつ確かめたものの、その後の変動については若干の推測も混っていること、(2) またFCボール紙のように残量がすべて浸水したため浸水数量を正確に把握することができたものもある一方で、在庫の一部が浸水した場合には正確な枚数まで数えたわけではなく、たとえば一包み二五〇枚といった単位で数えたこと、(3) ビニールは一〇七センチメートル幅で巻取って棒状にしたものを立て掛けておいたところ、浸水により下部から三〇ないし五〇センチメートルほど水を吸ったので、浸水部分を切り離して廃棄したが、廃棄部分の長さについては目測にとどまること、(4) 製品にする前に、製品に必要な各種の紙をまとめて区分して重ねていたところでは、一部が浸水しても代替がきかないため、当該区分全体を廃棄対象としたこと、(5) 原告嘉長においては以上のようにして数量を算出して前記甲ホ第一号証に記載したことが認められるから、そこに記載された原告嘉長の主張に沿う数量は、概数というにとどまり、その厳密な正確性については疑いが残るところである。

また、バイダー金具については、その性質上、浸水によって直ちに使用価値を全面的に失って廃棄処分しなければならないものかどうか疑問が残る。

次に、完成品についても、原告嘉長の主張に沿う廃棄数量、単価を記載した前記甲ホ第一号証についてみると、《証拠省略》によれば、そこに記載された単価は原紙の仕入値と印刷代から概括的に割り出したものであり、また廃棄数量も概括的なものにとどまっていることが認められるから、右甲ホ第一号証によって概括的なところを知りうるとしても、その厳密な正確性については疑問が残るところである。

以上の点を合わせ考えると、原告嘉長の原材料、完成品についての損害は、控え目に見積っていずれも請求額の七割、すなわち原材料については二六万四〇三七円、完成品については二四万四三〇〇円とするのが相当であり、その合計額は五〇万八三三七円となる。

(二) 逸失利益

原告嘉長は、本件水害による逸失利益として、昭和五四年度ないし五六年度の売上総利益の平均値と本件水害の発生した昭和五七年度の売上総利益との差額を計上している。

しかし、売上総利益は、たとえば原材料の仕入価格の変動や売上実績等の諸種の要因によって複合的に影響を受けるものであり、昭和五七年度の売上総利益の減少がすべて本件水害に起因するものでは決してない。

このことは、《証拠省略》によって、昭和五七年度の売上総利益の前年度にくらべての減少額が一〇〇万〇三〇九円であるのに対し、昭和五六年度の売上総利益の前年度にくらべての減少額が二九二万四五七七円であり、本件水害のあった年度よりもその前年度の方が大幅に売上総利益が落ち込んでいることが認められることからも窺えるところである。

したがって、本件水害が原告嘉長の売上総利益に何らかの影響を与えたか否か、及び影響を与えたとしてどの程度かなどを的確に判断することは不可能といってよく、逸失利益についての原告嘉長の主張は失当である。

(三) よって、原告嘉長の損害額合計は五〇万八三三七円となる。

6  原告魚谷

(一) 原材料、製品、半製品

《証拠省略》によると、原告魚谷は肩書住所地で生菓子用容器の木箱及び絵馬等の製造を業とする者であるが、本件水害によって工場部分が床上約四五センチメートルまで浸水し、立て掛けてあった約二メートルの長さの製材板のうち約四五センチメートル及び別紙損害目録(四)(2)(3)記載の品目の製品、半製品がいずれも相当数量、水に浸って変色するなどして価値を失ったため、右製材板の浸水部分及び水に浸った製品、半製品をすべて廃棄処分することを余儀なくされた事実を認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はない。

ところで、まず原告魚谷は、その本人尋問において、右廃棄原材料の価格三〇万円の算出根拠について、木材の年間仕入価格一三二〇万六六九三円を仕入台帳に基づいて割り出し、それを一二で除した一一〇万〇五五七円が本件水害当時保管されていた木材の価格であって、そのさらに三〇パーセント相当の金額が本件浸水によって廃棄した部分の価格である旨説明(供述)する。しかし、年間仕入価格算出の基礎資料である仕入台帳は、本件で証拠として提出されておらず、また原告魚谷は、その本人尋問において、年間仕入価格を一二で除したものが本件水害当時の保管原材料分である根拠として、一、二か月間の使用分の木材は常置しているからである旨供述するが、同時に原告魚谷は、右本人尋問において、木材の仕入価格はその時々によって異なるとも供述しているから前記説明を全面的に排斥することはできないものの、これをそのまま受け容れることもできないというほかなく、そして、原告魚谷は、それ以上の合理的説明はできないことを認める趣旨の供述をしているのである。

また、廃棄した製品、半製品についても、まず数量については、原告魚谷の主張に沿うものとして、原告魚谷本人が作成した報告書的な前記甲へ第四、第五号証があるものの、証拠価値が高いとはいえず、次に単価については材料費と加工費が計上されているが、いずれもその具体的算出過程、算出根拠が原告魚谷本人尋問の結果その他全証拠を合わせても、はっきりしないというほかない。

このように原材料、製品、半製品については、前記のとおり相当数量が本件水害の際に水に浸って廃棄しなければならなくなって、かなりの金額の損害を蒙ったことまでは十分認められるものの、その廃棄した数量及び単価のいずれについてもこれを正確に認定しうる証拠がなく、したがって、原材料等に関して原告魚谷が蒙った損害額は、右事情と弁論の全趣旨により、請求額のいずれも三割程度、すなわち原材料については九万円、製品については七万円、半製品については九万円の限度で認めるにとどめるのが相当であり、その合計額は二五万円となる。

(二) 機械設備修理

《証拠省略》によると、原告魚谷は、本件水害によって原告魚谷の工場にある機械類が水に浸り作動不能となったために修理を余儀なくされ、修理代として八〇万円を支払った事実を認めることができる。なお右甲へ第六号証(請求書)は、その作成日付等が昭和五八年七月になっていて、右修理と本件水害との関連性について疑いを生じさせるのであるが、他方、右甲へ第七号証(領収証)の作成日付は昭和五七年九月一八日となっており、原告魚谷の供述に沿ったものであるから、前記事実を認定することができるものということができ、他にこれを覆すに足る証拠はない。

しかし、右修理費用のうち取替部品の価格については既存部品の減価償却を考慮すべきであるところ、弁論の全趣旨によると、既存部品の本件水害当時の減価償却後の価格は新規部品価格の三割を下らないものと認められる。したがって、右修理代金八〇万円のうち新規部品価格六〇万二〇〇〇円についてはその三割に当たる一八万〇六〇〇円が既存部品価格となり、これとオーバーホール代二〇万円との合計から値引分二〇〇〇円を控除した残額三七万八六〇〇円が本件水害による損害額となる。

(三) 後片付けの費用

原告魚谷は、後片付けの費用として、実質上、本件水害による休業損害及び逸失利益を計上している。

そこで検討すると、《証拠省略》によると、原告魚谷は本件水害による被害の後片付けに七日間を要し、その間、仕入先等への連絡業務等を行ったのみで、主たる業務である木箱等の製造は一切行っていなかったこと、魚谷商店における年間実働日数は三〇〇日であること、原告魚谷は、昭和五七年度に、同人の妻である魚谷紀美子に対して専従者として一四四万円、従業員魚谷好光に対して二七九万円、同魚谷初枝に対して一〇二万円、同吉田扶美子に対して七三万〇五〇〇円の給与を支払ったこと、以上の各事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。したがって、原告魚谷が本来の業務を休業したにもかかわらず支払わざるをえなかった給与は、年間支給額を三〇〇日で除したものに七日を乗じた額であり、具体的には別紙損害目録六記載のとおり専従者魚谷紀美子については三万三六〇〇円、その他の従業員については合計一〇万五九四五円となる。

また、《証拠省略》によると、本件浸水被害の後片付けのためにアルバイトの者を雇い、二万八〇〇〇円を支払ったことを認めることができ、右認定に反する証拠はない。

ところで、原告魚谷は、昭和五六年度と同五七年度の自己の年間所得の平均額を三〇〇日で除したものに七日を乗じた額を請求しているが、これは本件水害による原告魚谷の逸失利益を請求するものにほかならない。しかし、企業所得は、単なる生産高のみでなく売上実績等種々の要因が複合した結果として生じるものであり、本件水害による休業が原告魚谷の年間所得高にどのように影響したかを推認することは極めて困難である。したがって、右逸失利益の算出につき、原告魚谷主張のような単純な日割計算は適切とはいいがたく、他に適当な算出方法、算出根拠についての主張立証をしない本件においては、原告魚谷自身の逸失利益を損害として認めることはできない。

(四) 以上、(一)(二)によって認めうる原告魚谷の損害は七六万八一四五円となる。

7  原告田上金属

(一) 商品

《証拠省略》によると、原告田上金属は各種錺鋲の製造、販売を業とする株式会社であるが、本件水害によって別紙損害目録七(四)(1)記載の商品が水に浸かり、サビなどが生じて不良品となったため、これらをすべて廃棄処分したこと、ニッケル鋲(一〇〇〇入)を除く廃棄商品の仕入単価が別紙損害目録七(四)(1)の単価の記載のとおりであることを認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はない。しかし、右ニッケル鋲の仕入単価については、原告田上金属代表者尋問の結果によると、甲ト第一ないし第二〇号証(いずれも納品書)中に該当する記載がないことが認められ、したがって、被害報告書の性格を有する前記甲ト第二二号証(原告田上金属の主張に沿うものである。)だけが裏付証拠であることとなり、その単価の正確性については、他の品目の単価の記載が正確であるので、間違いはないものとほぼ窺えるものの、なお厳密には若干の疑問が残る。また原告田上金属代表者尋問の結果によると、前記甲ト第二二号証記載の廃棄商品の数量は、原告田上金属代表者が本件水害直後に点検調査してメモに書き付けたものを整理したものであることを認めることができるから、右甲ト第二二号証によって廃棄商品の数量をおおむね原告田上金属主張のとおり認定することができるが、その裏付けとなるメモが証拠として提出されていないため、その厳密な正確性についてなお僅かに疑いを残すものである。

そこで、本件水害による損害額としては、前記ニッケル鋲については請求額の八割に当たる六万円、その余の商品についてはいずれも請求額の九割に当たる合計二四五万八九八〇円をもって相当と認め、したがって、廃棄商品全体の損害額は二五一万八九八〇円となる。

(二) 機械設備

《証拠省略》によると、本件水害によって原告田上金属所有のコンプレッサー一台が水に浸って作動不良となったため廃棄したこと、右コンプレッサーの本件水害当時における減価償却後の帳簿価格が三万円であったこと、以上の各事実を認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はない。

(三) 事務所修理

《証拠省略》によると、原告田上金属の事務所の床に敷いてあったカーペットが本件水害によって汚損されたため、これを取り替え、新しいカーペットの購入代金として五万円を支払った事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。しかし本件水害による損害としては既存カーペットの減価償却を考慮し、右支払代金の三割に当たる一万五〇〇〇円をもって相当と認める。

(四) ゴミ棄代

原告田上金属は、本件水害による損害としてゴミ棄代三万円を計上しているが、右ゴミの具体的処理方法、それに要した費用の具体的内訳等について立証がなく、右金額を本件水害による損害として認めることはできない。

(五) 後片付けの費用

《証拠省略》によると、原告田上金属は、昭和五七年度に、同社代表者に対して五七七万二〇〇〇円、その他、従業員田上賀博に対して四七三万四〇〇〇円、同田上ユミエに対して二四一万八〇〇〇円、同井上昭子に対して三五五万一〇〇〇円(ただし、請求額はそのうち三一五万五五〇〇円を基礎にして算出されているので、以下、この限度で計算する。)、同田上道子に対して五二万二〇〇〇円、合計一六六〇万一五〇〇円の年額給与を支払ったこと、原告田上金属の年間実働日数は約三〇〇日であること、以上の各事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。なお、原告田上金属は本件浸水被害の後片付けに二週間かかり、その間まったく商売ができなかった旨主張し、原告田上金属代表者もこれに沿った供述をするが、他の原告三の休業日数及び休業期間中の稼働内容等に徴すると、右供述を全面的には措信しがたく、このことを弁論の全趣旨によって、本件水害による被害復旧のために完全に休業せざるをえなかった期間は、(若干控え目ではあるが、)七日間と認める。したがって、原告田上金属が同社代表者及び従業員らに支給した給与の年額を三〇〇で除し、これに七を乗じたものをもって、原告田上金属の本件水害による休業損害とするのが相当であり、その金額は合計三八万七三六八円となる。

(六) よって、以上(一)ないし(三)及び(五)の損害額は、合計二九五万一三四八円となる。

8  原告高砂薬業

前記第一の一及び第三の二の認定事実に、《証拠省略》を総合すると、原告高砂薬業は和漢薬の製造、卸販売を業とする株式会社であるが、本件水害によって、大阪市東住吉区杭全六丁目一番一四号所在の原告高砂薬業の倉庫(以下、杭全倉庫という。)が一メートル以上浸水し、布袋(ロゴス)または木箱に入れて杭全倉庫一階部分に保管していた別紙損害目録八(四)(1)記載の品名、仕入単価、数量の漢方薬の原材料が水に浸かり、その性質上乾燥させた状態で保管する必要のあるものが多いことや、衛生上の理由から、水に浸った原材料をすべて廃棄処分せざるをえなかったこと、そこで廃棄業者に依頼して右原材料を廃棄処分し、その費用として三万五〇〇〇円を支払ったこと、以上の各事実を認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はない。そして、廃棄した原材料の数量、仕入単価については、被害報告書の性格を有する前記甲チ第四号証に別紙損害目録八(四)(1)の計上数値と合致する記載が認められ、その他に直接右数量、単価の裏付けとなる証拠は提出されていないものの、証人浅野の証言によると、右甲チ第四号証の単価は各原材料の仕入単価を記載した書面から引用したものであり、かつ原材料は各品目ごとに一定の数量ずつ袋ないし箱に入れて保管してあったため、廃棄する際にもその数量は容易に把握しえたことが認められること、前記甲チ第四、第六号証により、原告高砂薬業の第三四期決算報告書(甲チ第六号証)において水害損として計上されている金額と右甲チ第四号証記載の合計金額とが合致していることが認められることを合わせると、右甲チ第四号証の記載はこれを正確なものと評価することができる。

したがって、本件水害による原告高砂薬業の損害は、前記廃棄のための費用を含めて、その主張どおりの二二三万七九〇〇円であると認める。

9  原告ツヂイチ

(一) 原告ツヂイチについては、代表者辻本を本件第二四回口頭弁論において尋問し、原告ら代理人による主尋問が終了し被告ら代理人による反対尋問の開始直後に続行となったが、その後、次の尋問予定期日までの間に代表者辻本が病気で入院して反対尋問の続行が困難となり、かつ他の当事者らの関係の証拠調べはすべて完了して判決をなすに熟するに至っていたため、被告ら代理人による反対尋問を経ないまま結審するに至った。以上の経過は当裁判所に顕著な事実である。そして、このように当事者の意図的な妨害等によることなく反対尋問の機会を得られなかった本人尋問の結果は、単に反対尋問の機会がなかったとの一事をもって証拠資料とすることができないと解すべきではなく、合理的な自由心証によりその証拠力を決しうると解するのが相当である(最二小判昭和三二年二月八日民集一一巻二号二五八頁)。もっとも、右尋問結果の証拠評価において、反対尋問を経ていないという事情を十分に考慮すべきことはいうまでもない。

以上のことを前提として、原告ツヂイチの本件水害による損害について検討する。

(二) 原材料、半製品、完成品

《証拠省略》によると、原告ツヂイチは、公団型吊戸棚、流し、一般家具等の製造を業とする株式会社であり、もっぱら日東ステンレス工業株式会社(以下、日東ステンレスという。)との間で、日東ステンレスからベニヤ板等の原材料を仕入れ、それを裁断して吊戸棚等を製作して日東ステンレスに納入し、代金は原材料代と製品代とを相殺決済するという取引を行っていたところ、本件水害によってベニヤ板、化粧板等の原材料、パーツ化工品等の半製品、完成品である吊戸棚の相当数量が浸水し、廃棄処分を余儀なくされたことを認めることができ、右認定に反する証拠はない。しかし、原告ツヂイチ代表者尋問の結果によると、右廃棄原材料等の数量については、廃棄に当たって、代表者辻本や従業員らが数量を確認してメモに控え、そのメモ類を前記甲リ第二号証に整理したことが認められるが、右メモ類等の右甲リ第二号証の数値を客観的に裏付けうる証拠はない。また、単価については、原告ツヂイチ代表者は、右尋問において、原材料及びパーツ化工品のうち扉の単価は日東ステンレスからの仕入単価であり、その他のパーツ化工品については当時の原告ツヂイチ内部での単価基準表、製品については日東ステンレスへの納入単価に基づく旨を供述するのであるが、いずれもその裏付けとなる証拠がなく、かつ製品単価については原材料代、加工費のほかに原告ツヂイチの利益相当分を含んでいることが明らかといえるから、本件水害による損害としては右利益相当分を控除すべきところ、右単価中の利益相当分の割合等についてはこれを認めるに足る証拠はない。

以上の諸点に前記のとおり原告ツヂイチ代表者尋問の結果が反対尋問を経ていないものであることを考え合わせると、原告ツヂイチの主張に沿う前記甲リ第二号証の数量、単価の記載の正確性、及びその記載に従った合計金額(損害目録九(四)(1)ないし(3)に一致する。)をそのまま損害として認めることの妥当性はいずれも疑わしいものというほかない。以上の諸事情に弁論の全趣旨を合わせて、原材料、半製品、製品に関する原告ツヂイチの損害としては、その主張額の二割に当たる四五万四九八五円をもって相当と認める。

(三) 機械等修理費用

《証拠省略》によると、本件水害によって原告ツヂイチ所有の庄田鉄工製サイザーが浸水して作動不良となったため、その修理を余儀なくされ、修理費用として八七万円を支払った事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

また、《証拠省略》によると、原告ツヂイチ所有の自動車二台が本件水害によって浸水し、作動不良となったために、これらの修理を余儀なくされ、その修理費用として三三万六五〇〇円を支払った事実を認めることができ右認定に反する証拠はない。

(四) 復旧費用

《証拠省略》によると、原告ツヂイチは、本件水害によって浸水した原材料等を廃棄するために委託したトラックによる廃棄物運送の費用として五〇万二〇〇〇円を支払った事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

また、原告ツヂイチは、復旧作業のために人夫を雇い、これに支払った費用として二五万円を請求しているが、右支払については原告ツヂイチ代表者尋問の結果以外に裏付証拠がなく、かつ同尋問の結果が右のとおり反対尋問を経ていないものであることを考慮すると、右金額を損害として認めることはできない。

(五) 従業員に対する見舞金

原告ツヂイチは、従業員に対する見舞金として六〇万円を支出したとして、損害に計上しているが、その支出の必要性、本件水害との関連性については原告ツヂイチ代表者尋問の結果も不明確といわざるをえず、これを本件水害による損害として認めることはできない。

(六) 従業員の休業補償

《証拠省略》によると、原告ツヂイチは本件水害による被害の復旧作業のために三日間の休業を余儀なくされたこと、原告ツヂイチの年間実働日数は約三〇〇日であること、原告ツヂイチは昭和五七年七月一日から同五八年六月三〇日の一年間に従業員らに対して三〇六六万二二二二円の給与を支払ったこと、以上の各事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。したがって原告ツヂイチが本件水害による休業にもかかわらず従業員に支払わざるをえなかった給与相当分は、右年額給与を三〇〇で除した後、三を乗じた三〇万六六二二円となる。

(七) よって(二)ないし(四)、(六)で認めた原告ツヂイチの損害額は、合計二四七万〇一〇七円となる。

10  原告大栄産業

《証拠省略》によると、原告大栄産業は裁縫用具等日用品の製造販売を目的とする有限会社であるが、本件水害によって別紙損害目録一〇(四)記載の品名の原材料、半製品が浸水し、廃棄処分にした事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。そして裁縫台半製品を除く原材料、半製品の単価については、《証拠省略》によって、Gポプメルヘン柄五五〇円、アイロン台裏紙二九円三〇銭、テックス六六円、フェルト二七円、パーチクルボード一三五円とそれぞれ認めることができ、右認定に反する証拠はない。裁縫台半製品の単価ついては、原告大栄産業代表者がその尋問(第二回)において、右単価は材料代と、下請に製作させた加工賃等とを合計した製造原価を意味し、五五〇〇円と計算しうる旨供述するところ、その供述は一応首肯しうるものと認められるが、ただ、損害報告書である前記甲ヌ第二号証のほかに客観的な裏付証拠がないから、その正確性に多少の疑問が残る。また、廃棄数量については、別紙損害目録一〇四(1)ないし(6)記載の数量に前記甲ヌ第二号証記載の数量が合致し、かつ原告大栄産業代表者尋問の結果(第二回)によると、アイロン台裏紙については一〇〇枚ずつ束ねられており、他の原材料等についても同様な状態で保管されていて、数量の確認に困難はなかったであろうことが認められるが、原告大栄産業代表者自身が数量を確認したわけではなく、その他右廃棄数量の裏付けとなる証拠はないから、廃棄数量の厳密な正確性については若干の疑問がある。

そこで、裁縫台半製品については原告大栄産業の計上額の七割に当たる二五万〇二五〇円、その他の原材料についてはいずれも計上額の八割に当たる合計四七万三三三六円の限度で、本件水害による損害と認定するのが相当であり、右総合計は七二万三五八六円となる。

11  原告竹村

(一) 原材料

《証拠省略》によると、原告竹村は、竹村マーク製作所の屋号で肩書住所地において各種マーク類の製造を業とする者であるが、本件水害によって工場や倉庫等に保管していた原材料が浸水し、そのうち高純度のアルミニウムについては表面に曇りが生じて製品加工が不可能となり、その他、別紙損害目録一一(四)(1)記載の原材料について廃棄処分を余儀なくされたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

しかし、廃棄した原材料の損害額算定の基礎となる数量、単価についての原告竹村の主張に沿う証拠としては、原告竹村本人尋問の結果(第二回)のほかには、原告竹村の従業員からの報告書である前記甲ル第三号証が提出されているのみである。そして、廃棄数量の点については、原材料の品目や数量からみて確認が困難ではなかったであろうことは推認しうるものの、原告竹村自身が数量を確認したわけではないため、前記甲ル第三号証を厳密に正確とまではいえず、また、単価についても、原告竹村は、右本人尋問において甲ル第三号証の記載は仕入単価によった旨を供述するものの、その裏付けとなる仕入台帳等の証拠は提出されていない。したがって、前記甲ル第三号証の廃棄原材料の数量、単価に関する記載の正確性についてはいずれも疑問を残すものであり、廃棄原材料の価格としては、控え目に見積って別紙損害目録一一(四)(1)イないしホの計上額の七割に当たる合計二四万三〇六四円をもって相当と認める。

そして、原告竹村が右廃棄原材料のアルミニウムをスクラップとして売却し、その代金として二万八五〇〇円を取得したことが《証拠省略》によって認められるから、損益相殺として前記二四万三〇六四円から二万八五〇〇円を控除した二一万四五六四円が本件水害による損害額となる。

(二) 機械修理代

《証拠省略》によると、本件水害によって原告竹村所有の乾燥炉、回転式乾燥機、真空焼付機、表面研磨機が浸水して接触不良が生じたため修理を余儀なくされ、修理代金として合計三五万一〇〇〇円を支払ったこと、また原告竹村所有の冷凍機も浸水によって作動不良となったのでモーター部分とポンプ部分を新規部品と取り替え、その代金として二八万円を支払ったこと、以上の各事実を認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はない。

ただし、冷凍機の部品の取替えについては既存部品の減価償却を考慮すべきであり、弁論の全趣旨により、冷凍機についての本件水害による損害としては新規部品購入価格の三割に当たる八万四〇〇〇円をもって相当と認め、したがって機械修理等による損害は四三万五〇〇〇円となる。

(三) ダンボール箱、アングル棚、コピスター

(1) 原告竹村は、その本人尋問(第二回)において、製品を梱包するダンボール箱約三五〇枚が浸水したため、これを廃棄処分し、右ダンボール箱の仕入単価が一枚約八〇円であった旨供述するが、原告竹村自身、右数量及び単価は原告竹村の記憶に基づく概算にとどまる旨を供述しており、ほかに原告竹村の主張に沿う証拠としては、原告竹村作成の被害報告書である前記甲ル第二号証があるだけである。したがって、廃棄ダンボール箱の数量、単価についての右供述を厳密に正確なものとは認めがたく、本件水害による損害としては、控え目に見積って原告竹村の計上額二万八〇〇〇円の七割に当たる一万九六〇〇円をもって相当とする。

(2) 《証拠省略》によると、本件水害によって原告竹村所有のコピスター(複写機)が浸水し使用不能となったため、新規にコピスターを買い入れ、代金三三万二五〇〇円を支払った事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

ただし、本件水害による損害額算定に当たっては、既存のコピスターの減価償却を考慮すべきところ、右尋問の結果によると、既存のコピスターは本件水害の二、三年前に購入したことが認められるが、減価償却期間についてはこれを認めるに足る証拠はなく、結局弁論の全趣旨によって、本件水害当時のコピスターの価格は新規購入価格の三割に当たる九万九七五〇円とするのが相当である。

(3) 《証拠省略》によると、本件水害によってアングル棚が水に浸ったためにこれを廃棄し、新しいアングル棚を購入してその代金として三万一〇〇〇円を支払った事実を認めることができるが、浸水によって従来のアングル棚を取り替えたのは多分に心情的なものにとどまることは原告竹村の右供述からも明らかであり、浸水による取替えの必要性があったとまで認めるに足る証拠はない。したがって、新しいアングル棚の購入費用を本件水害による損害として認めることはできない。

(四) 自動車修理代

原告竹村は、自動車二台の修理代三万六〇〇〇円を本件水害による損害として主張しているところ、右自動車二台の修理及び修理代金支払については、右主張に沿うものとして原告竹村本人尋問の結果(第二回)及び被害報告書である前記甲ル第二号証があるが、右甲ル第二号証の記載の正確性に若干の疑問が存するため、弁論の全趣旨により、本件水害による損害としては、控え目に見積って右主張額の七割に当たる二万五二〇〇円をもって相当と認める。

(五) 事務所、倉庫修理代

《証拠省略》によると、原告竹村は本件水害を契機として、事務所の一部、倉庫の畳敷の部分を板敷にし、根太を取り替えるなどの工事をして、その費用として七万六〇〇〇円を支払った事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。しかし、右認定の工事の内容、規模は本件の水害による復旧の程度を超えるものであり、復旧工事としての必要性ないし本件水害との関連性の点でかなり疑問といわざるをえない。したがって、右工事費用を本件水害による損害とは認めがたい。

(六) 復旧費用

原告竹村は、材木、土、セメント等の購入費及び人件費等、本件水害後の復旧作業に要した費用として四万三〇〇〇円を計上しているが、右費用の支出については、これに沿う原告竹村本人尋問の結果(第二回)及び前記甲ル第二号証(被害報告書)も、具体的でなく、かつ明確を欠き(右費用の内訳については原告竹村自身その不明確であることを認める趣旨の供述をしている。)、信憑性に乏しいといわざるをえない。

したがって、右復旧費用を本件水害による損害として認めることはできない。

(七) 休業損害

《証拠省略》によると、原告竹村は、本件水害による休業損害として、まず昭和五五年度と同五六年度の売上高の一日当たりの平均額を約一〇万円と算出し、その半額の五万円を本件水害による一日当たりの体業損とし、仕事を再開するまで七日間休業を余儀なくされたとみて計算して、三五万円を計上していることが認められる。しかし、右計算方法は、売上高が休業期間に対応して比例的に減少することを前提としていること、及び一日の売上高の半額を休業損害とみなしていることの二点においていずれも合理的根拠に乏しく、したがって休業損害算定について原告竹村主張の方法は採用しがたい。

しかし、《証拠省略》によると、原告竹村は本件水害によって七日間の休業を余儀なくされたが、従業員には右休業期間中の給与も支払ったこと、昭和五七年度に原告竹村が従業員に支払った給与は八九八万四二〇〇円であること、原告竹村の年間実働日数は三〇〇日であること、以上の各事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

そこで、少なくとも本件水害によって営業ができなかったにもかかわらず従業員に支払わざるをえなかった給与相当分は休業損害に該当すると考えられるから、右認定事実に基づき、年間支払給与額を三〇〇で除したものに七を乗ずる方法で原告竹村の休業損害を計算すると、その結果は二〇万九六三一円となることが計算上明らかである。

(八) よって(一)ないし(七)のうち認容しうる損害額は合計一〇〇万三七四五円となる。

12  原告トオマ

(一) 造花原材料、半製品、製品、カタログ等

《証拠省略》によると、原告トオマは、造花、造花材料の製造販売、紡織機械の販売等を目的とする株式会社であるが、本件水害によって、別紙損害目録一二添付の原告トオマ昭和五七年八月三日水害による廃棄品一覧表(以下、廃棄品一覧表という。)記載の品名の造花の原材料、半製品、製品等が水に浸かり、商品に使用することができなくなったため、すべて廃棄処分したこと、右廃棄原材料等のうち、ピンしめ、ストックニ林小花付、カタログ、折りタタミ箱の四品目以外の品目の仕入単価が廃棄品一覧表第一ないし第四記載のとおりであること、コサージ花については長期の保管で多少変色が見られたため、単価を二六〇円から二〇〇円に下げて評価したこと、以上の各事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

ところで右ピンしめ等四品目の単価については、原告トオマの主張に沿う証人當麻の証言及び被害報告書である前記甲オ第二号証があるが、証明力がやや乏しく、また証人當麻も、右証言において、カタログの製作費として一冊当たり三〇〇円を要している旨、ピンしめの単価はピンの値段とワイヤー巻きの加工賃を合計したものと思う旨、かつ、ストックニ林小花付、折りタタミ箱の単価はいずれも担当外でわからない旨を供述するにとどまっている。さらに廃棄原材料等の数量については、証人當麻の証言によると、それを梱包している包装紙や箱等の内容、数量の表示を、原告トオマの従業員が手分けして確認してメモに書き出し、そのメモを整理して前記甲オ第二号証を作成したことが認められ、かつこの方法によれば数量確認も困難ではなかったであろうと推認することができるから、数量についての原告トオマの主張は首肯しうるようにみえるが、証人當麻自身が右数量を確認したわけではなく、また、前記メモ等の右甲オ第二号証の記載の裏付けとなる証拠が提出されていないため、その数量の厳密な正確性についてはなお若干の疑問を残すといわざるをえない。

したがって、本件水害による造花原材料等の損害としては、控え目に見積って、右ピンしめ等四品目については原告トオマの右一覧表における計上額の七割、その他の品目については同計上額の九割を認めるにとどめるのが相当であり、造花原材料については二三七万八一五五円、造花半製品については二〇万〇二五〇円、造花製品については二二万円、造花カタログ等については七万二八〇〇円、合計二八七万一二〇五円が損害額となる。

(二) 紡織機関係

《証拠省略》によると、本件水害によって、原告トオマの紡織機関係では、前記一覧表第五記載の単価の部品が浸水し、使用不能となったため、これを廃棄処分した事実を認めることができ、これに反する証拠はない。しかし、原告トオマの主張に沿う前記甲オ第六号証の一、二は、その記載により昭和五六年一二月三一日の時点での在庫表であることが明らかであり、原告トオマは本件水害による廃棄数量も右在庫表記載の数値をそのまま計上しているが、昭和五六年末から本件水害当日までの約七か月間在庫にまったく変動がなかったというのは極めて不自然であり、原告トオマが計上する廃棄数量は、概数としては正しいといえるが、その厳密な正確性の点で少なからぬ疑問がある。したがって、紡織機関係の損害額としては、控え目に見積って、原告トオマが計上する金額の七割に当たる合計五二万二九〇〇円をもって相当と認める。

(三) テレビ、ガスストーブ、石油ストーブ

原告トオマは右品目についての損害として一一万円を計上しているが、その損害の発生及び損害額は、証拠を総合してもこれを認めるに足りない。

(四) プレス台

《証拠省略》によると、本件水害によって一台二万五〇〇〇円のプレス台五台が浸水し、これを廃棄した事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。ただし、原告トオマは右プレス台の減価償却分として一台につき五〇〇〇円を減じているが、弁論の全趣旨により、減価償却後のプレス台の価格は、控え目に見積って購入価格の三割(一台七五〇〇円)にとどめるのが相当であり、五台分の損害額は三万七五〇〇円となる。

(五) 逸失利益

原告トオマは、本件水害による損害の一つとして、原告トオマの昭和五五、五六、五七年度の三年間の一般経費から一日平均の経費を算出し、それに休業日数五日を乗じる方法によって算出した逸失利益を主張している。

原告トオマは、要するに、実質において、本件水害により休業を余儀なくされたのに支払わざるをえなかった経費を算出し、これを休業損害として主張しているものといえるが、《証拠省略》によると、原告トオマが右損害の算出根拠としている経費の費目中には、例えば広告宣伝費や福利厚生費のように、休業期間中も無駄な出費を余儀なくされたという意味での休業損害の範疇に含めることができないことが明らかな経費も計上されており、原告トオマの算定方法は到底妥当なものとはいえない。

もっとも、少なくとも、右休業期間中に支払を余儀なくされた給料は、右休業損害に含まれることが明らかであるといえるので、以下、これに基づいて原告トオマの損害額を算定する。すなわち、《証拠省略》によると、原告トオマは本件水害によって五日間の休業を余儀なくされたが、その期間中についても給料を従業員に支払ったこと、原告トオマが昭和五七年度に従業員に支払った給料は総額三九九〇万四八五〇円であること、原告トオマの年間実働日数は約三〇〇日であること、以上の各事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。したがって五日間の休業期間中の支払給料分は、年間支払給料額を三〇〇で除し、さらに五を乗じた六六万五〇八〇円であり、これを本件水害による原告トオマの休業損害と認めるのが相当である。

(六) 損害の填補

よって以上(一)ないし(五)の損害額合計は四〇九万六六八五円となるが、《証拠省略》によると原告トオマは本件水害による損害填補として火災保険会社から五〇万円の保険金の支払を受けた事実が認められるので前記損害額から右保険金額を控除すると、残額は三五九万六六八五円となる。

13  原告城山家具

(一) 家具等の廃棄処分

《証拠省略》によると、原告城山家具は、家具類の卸販売を目的とする株式会社であるが、本件水害によって、肩書住所地所在建物一階の商品陳列場や倉庫に置かれていた婚礼用家具や単品家具類が浸水し、そのうち左記品名の家具類を廃棄処分したこと、廃棄した家具の数量、木連下駄箱以外の商品の仕入金額が左記のとおりであること、以上の各事実を認めることができ、これに反する証拠はない。

(1) 婚礼用家具

① 桐大和一式 五三万三〇〇〇円

② ナラ立花一式 二九万円

③ エリザベス一号一式 四七万円

④ ケヤキ下駄箱一桿 一万二〇〇〇円

⑤ 宝木和タンス一桿 七万円

⑥ 宝木洋タンス一桿 六万五〇〇〇円

⑦ 木連下駄箱一桿

(2) 単品家具類

① 和チェリー一桿三万四〇〇〇円

② 洋一二〇モナーク一桿 四万七〇〇〇円

③ 洋一〇五コロラド一桿 二万四〇〇〇円

④ 和安芸一桿 三万一〇〇〇円

⑤ 洋一〇五安芸一桿 二万二〇〇〇円

⑥ 洋九〇加賀二桿四万五〇〇〇円

⑦ 洋一二〇天津四桿 一四万八〇〇〇円

⑧ 和天津二桿 九万一〇〇〇円

⑨ 洋一二〇美濃三桿 九万三九〇〇円

⑩ 洋一〇五美濃一桿 二万四〇〇〇円

なお、木連下駄箱の仕入金額については、原告城山家具の主張に沿う証拠としては、被害報告書である前記甲ワ第一三号証のほかに格別のものがなく、これについての右甲ワ第一三号証記載の二万円という金額の正確性にはなおわずかに疑問を残すため、右金額の九割に当たる一万八〇〇〇円を木連下駄箱の仕入金額と認める。

したがって、家具類廃棄による原告城山家具の損害額は、婚礼用家具一四五万八〇〇〇円、単品家具類五五万九九〇〇円の合計二〇一万七九〇〇円となる。

(二) 修理費用

《証拠省略》によると、原告城山家具は、本件水害によってその所有する貨物自動車及び乗用車各一台が浸水して作動不良となったため、修理業者に修理を依頼し、その修理代金として乗用車分四万円、貨物自動車分九万〇一五〇円を支払った事実を認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はない。

また原告城山家具は、エレベーターの修理代金一〇万円についても本件水害による損害に計上しているが、本件水害と右エレベーターの故障との因果関係については原告城山家具代表者尋問の結果によっても明らかでなく、他に右因果関係を認めるに足る証拠はないから、右エレベーターの修理代金を本件水害による損害とは認めがたい。

(三) 復旧費用(食事代、礼金等)

原告城山家具は、本件水害の復旧に関連した費用として一一万六三五〇円を計上しているところ、《証拠省略》によると、水害後掃除用品購入代一万九八〇〇円、アルバイト料合計三万六〇〇〇円、水害手伝人食事代九二〇〇円、シャッター修理代九六〇〇円については、本件水害の復旧作業に関連した相当な出費として、本件水害による損害と認めることができるが、その余の費用については、その必要性ないし相当性の点で本件水害と相当因果関係ある出費とは認めがたい。したがって、復旧関連費用としての損害額は合計七万四六〇〇円である。

(四) 休業損

原告城山家具は、本件水害による休業損として、年間の人件費を三〇〇で割って一日当たりの人件費を約一〇万円と算定し、三日間の休業分として三〇万円を計上している。しかし、人件費の中でも福利厚生費は、休業によって無駄な出捐となる経費ではないから、これを休業損算定の資料とするのは妥当でなく、また一日当たりの人件費を一〇万円とする算出根拠も不明確であるから、原告城山家具の休業損についての主張は採用できない。

もっとも、休業期間中も従業員らに支払わざるをえなかった給与手当は休業損として是認しうるので、以下、給与手当に基づいて計算すると、《証拠省略》によれば、原告城山家具は、本件水害による復旧作業に専念するため三日間の休業を余儀なくされたが、右休業期間中の給与も従業員に支払ったこと、昭和五七年七月一日から同五八年六月三〇日の一年間に原告城山家具が支払った給与手当は二四一七万六九〇〇円であること、原告城山家具の年間実働日数は約三〇〇日であること、以上の各事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。したがって右年間支払給与額を三〇〇で除した後三を乗じた二四万一七六九円をもって原告城山家具の休業損と認めるのが相当である。

(五) よって、(一)ないし(四)の合計額は二四六万四四一九円となる。

14  原告丸一

(一) 原材料、製品、半製品の廃棄分

前に第一の一認定事実に、《証拠省略》を総合すると、次の各事実を認めることができる。

原告丸一は、海苔等の食品卸販売を目的とする株式会社であり、その大阪支店(以下、大阪支店という。)は大阪市東住吉区杭全五丁目一〇番二八号に海苔詰め加工場、事務所、倉庫等を有して独立採算制で営業していた。大阪支店が販売する商品には、原告丸一名古屋本店(以下、本店という。)製造の商品を仕入れたものと、大阪支店が独自に仕入れたものとがあり、そのうち本店からの仕入分については、本店からの仕入価格と同額で問屋等に卸販売し、その後、売上価格の八分の営業経費及び三ないし五分の利益分が本店から大阪支店に支払われる仕組になっている。ところで、本件水害によって、大阪支店では、別紙損害目録一四(四)(1)①記載の原材料(乾海苔、資材)、本店からの仕入分として同目録添付の半製品商品損害明細(以下、損害明細という。)記載の品目の製品、半製品、大阪支店独自の仕入分として同(1)③ロ記載のキズ焼海苔二〇枚と焼のり全形一五枚の二つの製品がいずれも浸水し、すべて廃棄処分にされた。そして、そのうち本店からの仕入分の単価及び廃棄数量については、損害明細記載のとおりである。

以上のとおり認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

ところで、右認定事実によると、大阪支店が本店から商品を仕入れる場合、その仕入価格の一割一分ないし一割三分が大阪支店の営業経費及び利益に当たり、換言すればそれらを控除した本店からの仕入原価相当分は、少なくとも右仕入価格の八割七分となる。そして、本店からの仕入原価のうち、さらに本店自体の利益分を除いた製造原価の割合については、証人伊藤の証言その他証拠を総合してもこれを正確には認定しえないが、弁論の全趣旨により控え目に見積って大阪支店の仕入価格のうち八割が本店における製造原価であると認められ、原告丸一全体としてみた場合、右製造原価が本件水害による損害額となる。したがって、損害明細記載の製品、半製品の各合計額の各八割に当たる半製品一〇二万一三八九円、製品一八四万〇一〇八円の合計二八六万一四九七円となる。

次に、大阪支店が独自に仕入れた原材料、製品のうちで廃棄されたものの数量、単価については、証人伊藤作成の被害報告書である前記甲カ第四、第五号証に別紙損害目録一四(四)(1)①及び③ロ記載の数値と合致する記載が存在し、前記のとおり本店からの仕入分の仕入価格についての原告丸一の主張が正確であることからみて、右記載も正確なもののように窺えるが、他にその裏付けとなる客観的証拠がないため、右記載の正確性になお若干の疑問が残り、したがって、本件水害による損害としては、控え目に見積って原告丸一の計上額の八割に当たる原材料二八万三二〇〇円、製品六万八四〇〇円、合計三五万一六〇〇円をもって相当と認める。

したがって、右損害額の総合計は三二一万三〇九七円となる。

(二) 電気関係修理代等

《証拠省略》によると、本件水害によって、大阪支店のコンピューター、冷蔵庫、扇風機等が浸水し、コンピューター及び扇風機等については業者に修理を依頼して、修理代合計一二万四六〇〇円を支払い、冷蔵庫についてはこれを廃棄して新しいものを購入し、その購入代金として一一万円を支払った事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

しかし、冷蔵庫の新規購入代金については、全額本件水害による損害と認めることはできず、本件水害当時の既存の冷蔵庫の減価償却分を控除した価格を考慮すべきところ、弁論の全趣旨によって右価格は新規購入価格の三割に当たる三万三〇〇〇円と認める。

(三) 建物修繕代

《証拠省略》によると、本件水害によって大阪支店の事務所、男子寮の娯楽室、女子寮の娯楽室、管理人室が浸水し、事務所のコンピューター設置部分については、盛土をした上にコンクリート張りをし、その上にコンピューターを設置する工事を、管理人室、男子寮及び女子寮の娯楽室については、水に浸かった畳を廃棄して敷板を張り替えて、その上にカーペットを直敷する工事をそれぞれ行い、右工事代金として別紙損害目録一四(四)(3)記載の費用合計五一万九五〇〇円を支払った事実を認めることができ、これに反する証拠はない。そして、右証拠と弁論の全趣旨によると、右のうち管理人室、男子寮及び女子寮の工事代金計三四万四五〇〇円については本件水害による損害と認められるが、コンピューター設置部分の工事については将来の浸水を防止するための予防工事としての性格が強いものと認められ、その工事代金を本件水害による損害ということはできない。

したがって、本項目についての原告丸一の損害額は三四万四五〇〇円となる。

(四) 復旧費用

原告丸一は、復旧費用に関してまず人件費として五〇万二六六四円を計上している。《証拠省略》によると、大阪支店では本件水害による被害の後片付けのために、本店から原告丸一の従業員及び専属の下請業者合計一八名の派遣を受け、二日間復旧作業に従事させた事実を認めることができるが、右一八名の原告丸一従業員と専属下請業者の内訳、原告丸一が従業員一人当たり一日に支払う給与、下請業者一人当たり一日に支払う金額などについては原告伊藤の証言も明確でなく、その他右人件費を具体的に算定しうる証拠がないから、結局、右人件費を本件水害による損害と認めるには証拠が十分でない。

また、右派遣従業員らの旅費として計上されている二一万二二六〇円についてもこれを認めるに足る証拠はない。

しかし、原告丸一が復旧作業に伴って支出した賄費として計上する一万九六二〇円については、《証拠省略》によると、前記甲カ第二号証中のそれに該当する記載が金銭出納簿に記帳されたところに基づいてされていること、及びその裏付けとなる領収証がかなりの程度まで揃っていることが認められるので、右計上額全額を本件水害による損害と認める。

(五) その他

原告丸一は、伝票代として四四〇〇円、被害報告用写真代として五一八五円をそれぞれ計上しているが、伝票代についてはその計算根拠が不明確であり、かつそれを裏付ける証拠もなく、被害報告用写真代については本件水害と相当因果関係のある出費とはいいがたいから、いずれも本件水害による損害として認めることはできない。

(六) 逸失利益

原告丸一は、右(四)、(五)の損害が認容されないときの予備的請求として、昭和五四年ないし五六年の各八月度の売上実績から一日当たりの売上額を算出し、本件水害により三日間休業を余儀なくされたとして、右売上額に三を乗じた金額の内金七四万四一二九円を請求している。しかし、本来逸失利益算定の根拠となる売上利益とは売上額から必要経費を差し引いたものであって売上額そのものと同一ではなく、また売上額は諸種の要因によって変動するものであって、本件水害によって大阪支店が三日間休業せざるをえなかったからといってそれに対応して比例的に売上額が減少するものではないから、原告丸一主張の逸失利益算定方法は合理的なものとはいいがたい。したがって、原告丸一の予備的請求も認めることはできない。

(七) よって、以上の項目についての原告丸一の損害額は、合計三七三万四八一七円となる。

15  原告森田商行

(一) 商品

《証拠省略》によると、原告森田商行は、家具の卸販売を目的とする株式会社であるが、本件水害によって肩書住所地所在の本店倉庫に保管していた家具類が浸水し、天日で乾燥させてみたものの、別紙損害目録一五添付の被害品目録(以下、被害品目録という。)記載の商品が商品価値を喪失し、仕入先に返品しても引き取ってもらえなかったこと、また、右商品の仕入単価、数量は右被害品目録記載のとおりであることを認めることができ、右認定に反する証拠はない。

したがって、商品に関する原告森田商行の損害は一七九万五九一六円となる。

(二) 車輛修理費用

《証拠省略》によると、本件水害によって原告森田商行所有のトラック一台が浸水し、エンジンが作動不良になったため、新規エンジンと取り替えるなどの修理を行い、修理代金として三七万二六〇〇円を支払った事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

しかし、エンジンの取替えの場合には、本件水害による損害としては既存エンジンの減価償却後の価格を考慮すべきであり、新規エンジンの価格をそのまま損害として認めることはできず、弁論の全趣旨により、既存エンジンの減価償却後の価格は、控え目にみて新規エンジンの価格の三割と認めることができ、また新規エンジンの価格とエンジン取替えに付随すると思われる諸種の修理代金とは請求明細書上も必ずしも明確に区分されてはいないから、結局、本件水害による損害としては、控え目に過ぎるきらいはあるが、原告森田商行が支払った修理代金総額の三割に当たる一一万一七八〇円をもって相当と認める。

(三) 休業損害、その他雑費用

原告森田商行は、整理後片付費用として一八万円、倉庫賃料二二万円、その他雑費用三万八四八〇円を計上しているが、右整理後片付費用及び雑費用の計上金額は前記甲ヨ第一号証記載の金額とも著しく異なるものであり、また原告森田商行代表者尋問の結果によってもこれらの算出根拠が不明なままである。そして、その他これら諸費用の裏付けとなる証拠は何らないから、いずれも本件水害による損害として認めることはできない。

(四) 損害の填補

したがって、原告森田商行に関する以上の各項目の損害額合計は一九〇万七六九六円となるが、《証拠省略》によると、原告森田商行は右損害填補のために保険会社より少なくとも保険金五〇万円の支払を受けていることが認められ、これに反する証拠はない。

よって前記損害額から右保険金五〇万円を控除すると残額は一四〇万七六九六円となる。

16  原告大日本倉庫

(一) 保管品滅失分

前記第一の一、第三の二の各認定事実に《証拠省略》を総合すると、次の各事実を認めることができる。

原告大日本倉庫は、倉庫業を目的とする株式会社であって、肩書住所地所在の本社営業所の他に大阪市内に二か所の営業所を有しているが、そのうち大阪市東住吉区今林四丁目一二番一号所在の百済営業所に本件浸水被害が生じた。

百済営業所の主たる取引先は鳥居運送株式会社(以下、鳥居運送という。)であり、鳥居運送から寄託を受けた紙製品が百済営業所の保管物の九〇ないし九五パーセントを占めていた。この紙製品は、鳥居運送が北陸製紙等から寄託を受けたものを、原告大日本倉庫が鳥居運送との再保管契約に基づいて保管していたものであるが、右再保管契約一〇条には、原告大日本倉庫が貨物の保管に当たり、火災その他原告大日本倉庫の責に帰すべき事由により貨物に損害を生じたときは、原告大日本倉庫は鳥居運送に対して賠償の責を負い、その額は寄託価額を基準として損害の程度に応じて協議のうえ決定することとし、ただし、天災地変、その他不可抗力により損害が発生した場合は、双方協議のうえ、その措置を決定する旨が、定められている。

原告大日本倉庫は、鳥居運送から寄託された紙製品を、一段ごとに木製のパレットの上に三〇ないし五〇束を乗せた状態で三段積みにして、六ないし七列に区分して保管していたが、本件水害によって各列一段目のパレット上の下から六束目あたりまで浸水した。

この浸水した紙製品については、原告大日本倉庫と鳥居運送とが協議した結果、製造元の工場が古紙として買い戻す形で同工場に返送し、北越製紙等から鳥居運送への寄託代金額から右古紙売却代金額を差引いた差額を原告大日本倉庫が鳥居運送に弁償金として支払うこととなり、原告大日本倉庫は五三七万九〇七一円を弁償することとなった。また、原告大日本倉庫は、右紙製品を工場へ返送する際の運賃五万円を支払った。

さらに、原告大日本倉庫が株式会社水処理工学研究所(以下、水処理工学研究所という。)から寄託を受けて百済倉庫に保管していた水処理剤も本件浸水によって廃棄を余儀なくされ、両者の協議の結果、原告大日本倉庫は水処理工学研究所に対して弁償金として五万円を支払った。

以上のとおり認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

ところで、被告大阪市は、本件浸水自体、原告大日本倉庫にとっては不可抗力というべきであり、荷主に対して損害賠償義務を負担しているとはいえないから、原告大日本倉庫が営業上の配慮に基づいて荷主に支払った損害金については本件浸水との間に相当因果関係がない旨主張する。

確かに本件水害により右保管品に生じた被害は、原告大日本倉庫が保管義務に違反したため生じたものとはいいがたい点があり、原告大日本倉庫が荷主に対して債務不履行による損害賠償義務を当然に負うというべきかどうか疑問がある。しかし、原告大日本倉庫と鳥居運送との間の再保管契約中には、前記認定のとおり天災地変その他不可抗力による損害発生の場合には双方協議のうえその措置を決定するという約定があり、社会通念上、このような協議の内容としては、原告大日本倉庫に帰責性が認められないときにも、原告大日本倉庫が鳥居運送に対して相当額の弁償金を支払うことで処理することによって荷主の受けた損害の全部または一部を回復させることが通常考えられ、自己に法的責任があるかどうか疑わしい場合でも、専門の倉庫業者である原告大日本倉庫が将来も取引継続を期待する荷主に対してまったく金銭補償をせずに済ませることの方がむしろ考えがたいといえる。すなわち、倉庫業者と荷主との間の取引の実情等を勘案すれば、右約定においては、その合理的解釈として、客観的には倉庫業者が保管義務違反による責任を負わない場合にも、なお荷主に対して協議に基づいて金銭(弁償金)を支払う場合があることを当然予定しているというべきであり、そうであるとすれば、原告大日本倉庫についても、本件水害に関して、かりに鳥居運送に対して客観的には損害賠償義務を負担しないとしても、前記約定ないし協議に基づいて金銭支払義務を負担することが予定されていたといえる。そして特に、前記各認定事実に徴すると、本件水害に関しては、専門の倉庫業者である原告大日本倉庫が、本件水害における程度の溢水による倉庫内への水の流入を防止できる設備を備えていなかった点において、荷主に対して保管義務違反による責任を当然免れるかどうか、なお若干の疑いを残すように認められることからも、原告大日本倉庫が荷主である鳥居運送に対して将来の取引継続等の営業上の配慮から、損害賠償義務を争うことなく金銭賠償をすることは、社会通念に照らして衡平上これを相当として是認しうるものというべきであり、したがって、右支払金額は本件水害と相当因果関係を有する損害として十分認められうるといわなければならない。

なお、原告大日本倉庫と水処理工学研究所との関係では、原告大日本倉庫と鳥居運送の間の再保管契約書に該当する書証は提出されていないが、倉庫業の一般的性格及び、当事者間の本件水害後の交渉経過からみて、右再保管契約一〇条と同様の約定が締結されていると推認することができる。

次に、被告大阪市は、右弁償額は本来の損害である当該商品の製造原価に限定されるべきである旨主張する。本件で北越製紙から鳥居運送への寄託金額単価がどのような基準で決定されたかは証拠上明確には認められないが、右寄託金額は寄託物の製造原価ないし販売価格と必ずしも一致するものではなく、寄託金額が製造原価を下回る場合さえ考えられないではない。すなわち、廃棄商品の製造原価は、倉庫業者のように被害品の所有権を有していない者の損害額を算定する基準としては必ずしも適切ではないのである。

そして、これに代わる倉庫業者の損害額算定基準も容易に見出しがたいが、本件では原告大日本倉庫と鳥居運送との間で、前記のとおり原告大日本倉庫に帰責事由がある場合について寄託価格を基準として損害賠償額を決定する旨の約定があるから、原告大日本倉庫に帰責事由がない場合の弁償額算定に当たり、右約定を直ちには適用できないとしても、少なくとも参考にすることはできるというべきである。

また、《証拠省略》を合わせると、次のように認められる。すなわち、原告大日本倉庫は、荷主からの寄託物について寄託価格を基準として火災保険に付しており、かりに右保険が水害をも保険事故に含めていたとすれば、寄託価格によって損害が填補されるはずであった。さらに、本件水害後、原告大日本倉庫と鳥居運送との間では五三七万九〇七一円及び原告大日本倉庫と水処理工学研究所との間では五万円と、それぞれ寄託価格を基本として弁償金額が定められ、かつ原告大日本倉庫によって右金額が支払われた。ただし、原告大日本倉庫と鳥居運送との間では、北越製紙等から鳥居運送に対する寄託価格を弁償金額としており、この中には鳥居運送が原告大日本倉庫を履行補助者として受寄物を保管することによる利益相当分、すなわち一定期間事故なしに寄託物を保管することにより得べかりし利益相当分(商法六一八条)が含まれていたが、この利益相当額は本件水害がなければそのまま商品の保管が継続されたことによる対価として北越製紙等から当然支払を受けることができたはずのものであった。以上のように認められ、これを覆すに足る証拠はない。

以上を総合すると、右各寄託価格に基づいて算出されて原告大日本倉庫から鳥居運送及び水処理工学研究所に対して支払われた弁償金は、本件水害による損害といってよい。ただ、さらに、右各証拠により認められる川端紙業から鳥居運送への委託物について、川端紙業の逸失利益として寄託価格の一割を上乗せした分の金額二七万八三七四円は、本件水害との相当性を認めがたいというべきであるからこれを損害額から控除すべきである。

よって、鳥居運送に支払った弁償金額から右川端紙業の利益分を控除した残額五一〇万〇六九七円、北越製紙への古紙運送代五万円、及び水処理工学研究所への弁償金五万円の合計五二〇万〇六九七円をもって、本件水害による損害と認める。

(二) 建物修理費用

《証拠省略》によると、次の各事実を認めることができる。

原告大日本倉庫は、本件浸水によって百済営業所事務所の床材の貼替えを余儀なくされ、床材及びそれを床に接着するための両面テープを購入してその代金として六万七〇〇〇円を支払い、原告大日本倉庫従業員が床板の貼替えを行った。

次に、百済営業所倉庫内部の床は、周囲を壁に沿って五、六〇センチメートル幅でコンクリートを打ち、その内側をアスファルト舗装したものであったが、本件水害によってアスファルトの下地になっている土砂が流出したため、アスファルトとコンクリートの継目部分が陥没した。そこで、原告大日本倉庫は、再度アスファルト舗装を行って右陥没部分を修復し(見積額一〇七万六三三二円)、さらに追加工事としてアスファルトの下のクラッシャー敷設工事(見積額五万五〇〇〇円)、アスファルト舗装工事(見積額三万円)及び本件水害でペンキのはがれた部分の再塗装工事(見積額一二万九五〇〇円)を行った。

また、百済営業所倉庫の今後の浸水を防止するために、同倉庫に三か所あるシャッター出入口及び一か所のくぐり戸のすべてにブロックを設置し、ブロックの間に板をはさんで浸水を防止できる設備をつくり(見積額七三万五三五〇円)、また倉庫の四か所に地面から約五、六〇センチメートルの高さで設けられていた通風口をすべて鉄板を溶接する方法で閉鎖した(見積額一七万一〇〇〇円)。

原告大日本倉庫は、床材の貼替え以外の各工事を森田鉄工に依頼し、右工事見積費用合計二一九万七一七二円のうち九万七一七二円の値引を受けて、二一〇万円を森田鉄工に支払った。

以上のとおり認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。そして右認定事実に徴すると、倉庫出入口の止水防止施設の設置及び通風口の閉鎖は将来の浸水予防のための工事であることが明らかであり、本件浸水被害による復旧工事とはいいがたい。また、右認定事実によれば、アスファルトの下のクラッシャー敷設は復旧工事と将来の浸水予防工事の双方の性格を有していることが明らかであるが、復旧工事の性格を有している以上は、それに要した費用は本件水害による損害といってよい。

したがって、建物修理費用のうち本件水害による損害といえるのは、床材の貼替費六万七〇〇〇円、アスファルト舗装費一〇二万八七三〇円(一〇七万六三三二×二一〇万÷二一九万七一七二)、追加工事としてのクラッシャー敷設、アスファルト舗装及び再塗装工事費二〇万五〇一三円(〔五万五〇〇〇+三万+一二万九五〇〇〕×二一〇万÷二一九万七一七二)の合計一三〇万〇七四三円である。

(三) 復旧費用

原告大日本倉庫は、本件水害による被害の復旧作業を行わせたことに対する時間外労働手当として従業員に支払った三〇万円を損害として計上しているが、右支給額を計算するに当たって一人一時間当たりの単価を一二〇〇円と見積った根拠、算出方法等が、《証拠省略》によっても明らかでなく、その他これを認めるに足る証拠はない。

したがって、右支給額を本件水害による損害として認めることはできない。

(四) よって、原告大日本倉庫の以上の損害額合計は六五〇万一四四〇円となる。

17  原告山本

(一) 製品、半製品

《証拠省略》を総合すると、原告山本は、肩書住所地において山市興業の屋号で建築金物雨トユ受金具製造を業とする者であるが、本件水害によって倉庫等に保管されていた雨トユ受金具の製品、半製品が水に浸かり、半製品については酸化防止のための再メッキ加工を他業者に依頼して加工代金一三万〇二〇〇円を支払い、製品は再メッキをするとリベット部分が動かなくなるため再メッキ加工ができず、すべて廃棄を余儀なくされた事実を認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はない。ところで、原告山本は、右本人尋問において、製品を廃棄したことによる損害として計上した一一五万円は、製品単価二三円に廃棄数量を乗じたものである旨供述するのであるが、《証拠省略》によると、右単価二三円というのは納入先への納入単価であって、そのうちに原告山本の利益分が含まれていることが認められるから、これを控除すべきところ、右利益分の具体的割合は本件全証拠によってもこれを認めるに足りない。また、廃棄数量についても、原告山本は、右本人尋問において、製品二五〇本入の箱約二〇〇箱分を廃棄したと供述するが、他にその数量を裏付けるに足る証拠はなく、右供述の正確性については疑問がある。したがって、製品についての原告山本の損害額は、控え目に見積って、右計上額の五割に当たる五七万五〇〇〇円をもって相当と認める。そして、《証拠省略》によると、原告山本は右廃棄製品をスクラップとして売却して代金八万五〇〇〇円を得ている事実が認められ、これに反する証拠はないから、右代金額を前記損害額から控除すべきであり、結局本件水害による損害額は四九万円となる。

なお、半製品については、前記のとおり再メッキ加工代金として一三万二〇〇〇円を支払った事実を認めることができるが、原告山本は内金一三万円の賠償を請求しているので右内金の限度で認容する。

(二) 機械設備

《証拠省略》を総合すると、本件水害によって、原告山本が所有するプレス機等の機械設備が浸水し、モーターその他の電気系統部分が作動不良となったため修理を余儀なくされ、その修理代金として二五万円を支払った事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

(三) 休業損害

原告山本は、休業損害として一〇万円を計上し、また、原告山本は、右本人尋問において、本件水害後、原告山本は、復旧作業等で四日間休業し、その間も常雇の従業員三名に、一人当たりの日当約一万円として計算した一二万円の内金一〇万円を支払った旨供述するのであるが、一人当たりの日当を一万円と算出した根拠が明らかでなく、また右一〇万円の支払については右供述のほかにはこれを裏付ける証拠がないから、これを本件水害による損害として認めることはできない。

(四) 復旧費用

原告山本は、復旧費用として二〇万円を計上し損害として主張しているが、その具体的内訳について立証がなく、またその費用支出の事実自体についてもこれを裏付ける証拠がないから、右費用を本件水害による損害として認めることはできない。

(五) その他雑費

原告山本は、雑費として一〇万円を損害に計上しているが、弁論の全趣旨によると、これは四日間の休業による逸失利益の請求または一か月間通常の営業ができなかったにもかかわらず支払わざるを得なかった工場、倉庫の賃料相当額の請求をするものと理解しうる。

そこで、まず逸失利益の点について、原告山本は、右本人尋問において、逸失利益算出の根拠として、月額の売上が五〇〇万円で、そのうち売上利益が一〇〇万円である旨供述するが、右金額、及び原告山本のいう売上利益が粗利益なのか純利益なのかなどの点に関して具体的でない曖昧な供述をするだけであり、ほかに右供述の裏付けとなる証拠もないから、本件水害による逸失利益の損害の発生を認めることはできない。

次に、工場、倉庫の賃料相当額の点について検討すると、倉庫については少なくとも製品等の保管場所としての機能は果していたといえるから賃料相当額を損害として認めることはできないが、工場については休業期間中の賃料分を損害として認めることができるというべきである。そして、《証拠省略》によると、原告山本が本件水害の復旧作業等のために四日間の休業を余儀なくされたこと、工場の賃借料は月額一五万円であり、昭和五七年八月分も同額が支払われていること、以上の各事実を認めることができ、《証拠判断省略》、他にこれに反する証拠はない。

したがって、原告山本の右休業期間中の工場の賃料相当額は、一五万円を八月の日数三一で除した後四を乗じた一万九三五四円となる。

(六) よって、原告山本の(一)(二)及び(五)の損害額合計は八八万九三五四円となる。

18  原告上出

(一) 商品

《証拠省略》によると、原告上出は、上出商店の屋号で和洋家具卸商を業とする者であり、大阪市東住吉区杭全四丁目一番一号の倉庫に家具類を保管しているが、本件水害によって同倉庫一階にあった和タンス、洋服タンス、整理タンス、長持、イス等の家具類が浸水したため、仕入先に修理を依頼し、その修理代金として一一四万二〇〇〇円を支払った事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

(二) 車輛運搬具

《証拠省略》によると、原告上出は、倉庫で使用していたフォークリフトが本件水害によって浸水して故障したため修理を余儀なくされ、修理代金として七万二一六〇円を支払った事実を認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はない。

(三) 休業損害

原告上出は、浸水後約三〇日の間は商品の整理(廃棄交換)や倉庫の清掃等に費やさざるをえず、営業活動はほとんどできなかったとして、一か月分の従業員給与二三万円、専従者給与一一万円、倉庫賃借料八万七〇〇〇円を本件損害として計上し、右本人尋問においてもこれに沿った供述をしている。そして、《証拠省略》によると、本件浸水の復旧作業としての倉庫の整理清掃に人手を取られたこと、倉庫が同時に原告上出の商品展示場として使用されていたことまでは認められるから、本件水害後倉庫の復旧作業が一応完了するまで原告上出の営業に著しい支障があったことは推認できるが、しかし他方で、原告上出は、右本人尋問において、本店営業所は浸水による被害をそれほど受けず、倉庫の清掃等を行うかたわら本店の方で営業活動を続けていた旨供述しており、一か月間の従業員等への給与支払分をすべて休業損害とすることはできない。そして、弁論の全趣旨によると、本件水害による原告上出の営業活動への支障は七日間の休業に相当すると認めることができるから、一か月の稼働日数を二五日とすると、従業員給与、専従者給与の各月額を二五で除した後七を乗じたものを休業損害として認めるべきであり、その金額は従業員六万四四〇〇円、専従者三万〇八〇〇円の合計九万五二〇〇円となる。

なお、倉庫については、原告上出の尋問結果によると、二階部分は浸水被害を免れており、かつ一階部分も修理を要する家具、修理後の家具等の保管場所として使用され、倉庫としての機能は果せていたのであるから、倉庫賃借料を本件水害による休業損害として認めることはできない。

(四) よって(一)ないし(三)の損害額合計は一三〇万九三六〇円となる。

19  原告錦盛堂

(一) 機械類の修理費用

《証拠省略》によると、原告錦盛堂は、伝票、帳票、ちらし等各種印刷物の印刷を目的とする株式会社であり、肩書住所地に工場、事務所を有しているが、本件水害によって工場内の機械類が浸水して修理を余儀なくされ、余田機械工業株式会社に断裁機、リョービ印刷機販売株式会社に写真機、篠原商事株式会社、浮田工業株式会社、印刷機械貿易株式会社にいずれも印刷機械、サンデンに冷暖房機の各修理を依頼し、その修理代金としてそれぞれ別紙損害目録一九(四)(1)記載の金額を支払い、その合計が一一二万一八五〇円となることが認められ、右認定に反する証拠はない。

(二) 廃棄品

《証拠省略》によると、本件水害によって原告錦盛堂工場内にあった油脂オイル、インキその他の原材料、ノーカーボン紙、巻取紙、上質紙等別紙損害目録一九添付の「水害による廃棄品」一覧表(以下、一覧表という。)記載の品目が水に浸かり、原告錦盛堂ではこれを廃棄処分としたが、そのうちインキ、撮影済フィルム、製版用版下を除いた品目の仕入単価が一覧表記載のとおりであることを認めることができ、右認定に反する証拠はない。

しかし、右インキ等三品目の単価については、証人上山の証言が原告錦盛堂の主張に沿うものの、まず、インキの単価について、これは廃棄された数種類のインキの仕入単価を平均したものである旨の証言部分は、それを裏付ける客観的証拠がなく、また撮影済フィルム、版下の単価については、その物品の性質上、製造原価の算定は困難であるとみられるうえ、証人上山の算出根拠についての証言も不明確であり、ほかにはこれを裏付ける証拠はない。

また、各廃棄品の数量については、証人上山は、右証言において、原告錦盛堂社員が手分けして数量を確認してメモに順次記し、原告錦盛堂代表者が右メモを整理して前記甲ネ第一六号証に記載した旨供述し、さらに右証言によると紙類についても数百枚単位で束ねられていたとのことが認められるから、その数量確認は必ずしも困難ではなかったと推認することができるから、原告錦盛堂の主張に沿う右甲ネ第一六号証の記載は、概数的には正確と認められるが、右メモその他廃棄数量の裏付けとなるような客観的証拠が提出されていない点において、その記載の正確性にはなおわずかに疑問があるとするほかない。

そこで、本件水害による廃棄品の損害としては、控え目に見積って、インキ、撮影済フィルム、版下については原告錦盛堂の計上額の五割に当たる合計三三万九四〇〇円、その他の廃棄品は計上額の九割に当たる合計八四万五六四七円と認めるのが相当であり、総合計は一一八万五〇四七円となる。

(三) 復旧費用

原告錦盛堂は、清掃道具、薬品その他復旧作業に必要とした物の購入費として四万八〇七五円を計上しているが、そのうち三万八五七五円については《証拠省略》によって原告錦盛堂の主張どおりの事実を認められ、本件水害による損害と認めることができる。しかし、残余の九五〇〇円については、証人上山の証言により成立を認める甲ネ第二三号証の一五ないし一七の各領収証の日付が本件水害より二週間ないし四週間も後であり、かつ当該購入品目ないしその使途に関する証人上山の証言も不明確で、ほかに右出費と本件水害との関連性を認めるに足る証拠もないから、本件水害による損害として認めることはできない。

(四) 休業損害

《証拠省略》によると、原告錦盛堂は本件水害による復旧作業等で七日間の休業を余儀なくされたが、右休業期間中の事務員、工員の給料手当及び事務所兼工場の地代家賃はいずれも支払ったこと、原告錦盛堂の事務員に対する給料手当は年額一三四四万九二八〇円、工員に対する給料手当は年額二二一〇万七三〇五円、事務所兼工場の地代家賃は年額四八〇万円であること、原告錦盛堂の年間実働日数は三〇〇日であること、以上の各事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

したがって、本件水害による休業損害は、休業期間中の人件費相当分は前記事務員工員等に対する年額給与合計三五五五万六五八五円を三〇〇で除した後七を乗じた八二万九六五三円であり、賃料相当分は年額地代家賃四八〇万円を三六五で除した後七を乗じた九万二〇五四円であり、合計九二万一七〇七円となる。

(五) よって、(一)ないし(四)の合計額は、三二六万七一七九円となる。

20  原告生野工芸

(一) 原材料

《証拠省略》を総合すると、原告生野工芸は、各種箔押、特殊印刷を営業目的とする有限会社であるが、本件水害によって、プラスチック製品等に図柄の転写印刷をする材料となる転写箔のうち別紙損害目録二〇(四)(2)記載のものが水に浸かり、廃棄処分にしたこと、廃棄した転写箔の仕入単価が右記載のとおりであること、以上の各事実を認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はない。

そこで、廃棄数量についてみると、まず木目転写箔については、《証拠省略》によると、未裁断の大きな状態で保管されていたことが認められるから、数量の確認は容易であったものと推認できる。しかし、ソープ用多色転写箔及び多色箔(キャラクター転写箔)については、《証拠省略》によると、既に転写に適当な寸法に細く裁断された状態になっていて、これを廃棄する際に沼田が目分量で確認した数量を後日になって記憶を喚起しながら前記甲ナ第三号証に記載したことが認められ、右転写箔が沼田にとって日常取扱い慣れているものであったとしても、前記甲ナ第三号証の記載がかなり曖昧なものにとどまっていることは否定できない。そして、廃棄されたいずれの転写箔についても、被害報告書の性質をもつ前記甲ナ第三号証、及び証人沼田の証言だけが原告錦盛堂の主張に沿うものであるが、それ以外に廃棄数量の裏付けとなりうる証拠はない。

したがって、廃棄原材料についての原告生野工芸の損害としては、控え目に見積って、ソープ用多色転写箔については計上額の六割に当たる三六万七二〇〇円、木目転写箔は計上額の九割に当たる七万二〇〇〇円、多色箔については計上額の六割に当たる一八万三六〇〇円の合計六二万二八〇〇円をもって相当と認める。

(二) 修理費用

《証拠省略》によると、原告生野工芸は、本件水害によって昇降機が浸水して作動しなくなったため、その修理を業者に依頼して修理代金として七万五〇〇〇円を支払った事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

また、原告生野工芸は、このほかに印刷機械の修理費用として合計六五万四五〇〇円を計上しているが、《証拠省略》によると、印刷機械の修理代金請求書等の日付がいずれも本件水害発生日より半年ないし一年近くも後の日付になっており、明らかに本件水害後相当期間が経過してから印刷機械が修理されたものであることを認めることができるところ、これは、本件水害と右修理との関連性について疑いを生じさせる事情であり、そして、本件水害と印刷機械の故障との関連性、ないし本件水害に故障が生じたとすればその修理が遅れた合理的理由については、証人沼田の証言その他証拠を総合してもこれを認めるに足りないから、右印刷機械の修理と本件水害との間の因果関係は認めがたいといわざるをえない。

(三) 休業損害

《証拠省略》によると、原告生野工芸は本件水害による廃棄品の処理、清掃等の復旧作業のために二日間の休業を余儀なくされたが、休業期間相当分の原告生野工芸の従業員に対する給料等は支払ったこと、右休業期間を含む一年間に原告生野工芸が事務員等に支払った給料手当は二五五万円、工員等に支払った賃金は一二一八万一一七五円であること、原告生野工芸の年間実働日数は約三〇〇日であること、以上の各事実を認めることができ右認定に反する証拠はない。そして、右認定事実に徴すると、二日間の休業損害は年間支払額を三〇〇で除した後二を乗じたものであるから、事務員等の給料手当分が一万七〇〇〇円、工員等の賃金分が八万一二〇七円、合計九万八二〇七円となることが計算上明らかである。

(四) よって、(一)ないし(三)の損害額合計は七九万六〇〇七円となる。

21  原告大弥食品

(一) 廃棄品

《証拠省略》によると、原告大弥食品は米穀粉製造業を目的とする株式会社であるが、本件水害によって、肩書住所地所在の倉庫内に袋詰めにして保管されていた別紙損害目録二一(四)(2)①②記載の品名の米、もち米等の原材料や米粉、もち粉等の完成品が水に浸かり、水に浸ったものはすべて廃棄処分にしたこと、廃棄処分にした原材料の仕入単価、米粉の販売単価が右記載のとおりであること、以上の各事実を認めることができ、これを覆すに足る証拠はない。

ところで、右廃棄処分された原材料や完成品の数量については、被害報告書の性格を有する前記甲ム第二号証の二、三に右損害目録二一(四)(2)①②の数量と一致する記載があり、証人田中の証言によると、右記載は本件水害前後の昭和五七年七月二〇日と同年八月二〇日の棚卸在庫表の記帳を基にし、右各棚卸時と本件水害時との間の期間の在庫の変動を、原材料の仕入高については仕入台帳、原材料の使用量及び完成品の生産量については工場の製造日報、完成品の売上高については売上帳によってそれぞれ調査確認し、その結果に基づいて廃棄数量を算出したものであることが認められる。ただ、右記載を裏付ける客観的証拠として提出されているのは、右のうち在庫表のみで、仕入台帳、製造日報、売上台帳等は提出されていない。また証人田中は、右証言において、右廃棄数量の算出を田中自身が行ったものでないことを認める趣旨の供述をしている。さらに、《証拠省略》には浸水した原材料や完成品を廃棄して飼料業者に引渡す際の重量が記載されているが、この重量は、浸水によって原材料等が水を汲った後の重量であるから、浸水前の原材料、完成品の数量確認の裏付けとはなりえないというべきである。したがって、原告大弥食品の主張に沿う前記甲ム第二号証の二、三の数量についての記載の正確性にはなお若干の疑問を残すといわざるをえない。

また、前記認定のとおり完成品である米粉等の単価は販売単価であり、《証拠省略》によると、販売価格には一割七分程度の粗利益を含んでいることが認められるから、廃棄品の損害額算定に当たっては右利益相当額を控除しなければならない。

よって本項目に関する損害額としては、控え目に見積って、原材料については右損害目録二一(四)(2)①の計上額の八割に当たる合計五九五万八〇一九円、完成品については同②の計上額の六割六分(八割相当分からそれに対する一割七分の右利益相当分を控除した割合)に当たる合計四二四万二八六二円をもって相当と認め、その総合計は一〇二〇万〇八八一円となる。

(二) 復旧費用

《証拠省略》によると、原告大弥食品は浸水のため廃棄する原材料や完成品の運送を業者に依頼し、その運送代金として一〇万円を支払った事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

(三) 修理費用

《証拠省略》によると、本件水害によって、原告大弥食品の工場に設置されている風車昇降機、リボン混合スクリュー、混合定量供給機等の機械類が浸水して作動不良となったため、その修理を土木鉄工所及び松倉電気商会に依頼して、修理代金として土木鉄工所に一四六万九〇〇〇円、松倉電気に九万五〇〇〇円をそれぞれ支払ったことを認めることができ、右認定に反する証拠はない。ところで、原告大弥食品が松倉電気に対する支払分として計上している金額九万八四四〇円のうち右認定のその余の金額は、《証拠省略》によると、浴室、玄関外灯等のランプ取替費三四四〇円であることが認められるが、この取替費用まで本件水害と関連があるとするのは、疑問といわざるをえず、これを本件水害による損害として認めることはできない。

また、原告大弥食品が土木鉄工所に依頼した修理の内容は、《証拠省略》によると、モーターやベアリングなどの部品の取替えがほとんどであるが、これらの部品取替えについては既存部品の価格から本件水害時点における減価償却相当額を控除した残額とすべきであり、新規部品の購入価格をそのまま損害として認めることはできない。そして弁論の全趣旨によると、既存部品の本件水害当時の帳簿価格は新規部品の価格の三割とするのが相当であると認められるから、土木鉄工所に対する支払分については、その三割に相当する四四万〇七〇〇円をもって本件水害による損害とすべきである。

したがって本項目に関する原告大弥食品の損害額は合計五三万五七〇〇円となる。

(四) 休業損害

《証拠省略》によると、本件水害発生日を含む昭和五七年六月二一日から昭和五八年六月二〇日の一年間に原告大弥食品が事務員等に支払った給料手当は二六七〇万二五二〇円、工員等に支払った給料手当は四〇七二万六三九〇円で合計六七四二万八九一〇円となること、右期間に原告大弥食品が支払った工場倉庫事務所等の地代家賃は一八〇〇万円であること、原告大弥食品の年間実働日数は約三〇〇日であることの各事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

なお、原告大弥食品は、本件浸水後、廃棄品の処理等の復旧作業のために九日間の休業を余儀なくされた旨主張し、証人田中も、右証言において、これに沿った供述をしているが、他方で、証人田中は、右期間中、大部分の従業員は復旧活動を行ったが、少数の者は浸水を免れた在庫で対応できる範囲内で注文に応じるなどの営業活動を続けていた旨供述しているから、右九日間の人件費等支払分をすべて休業損害として認めることはできず、弁論の全趣旨によると、本件水害による原告大弥食品の営業活動の支障は七日間の休業に相当すると認めることができる。

また、右休業期間中の工場ないし事務所の賃料相当額は休業損害として認めるのが相当であるが、倉庫については、復旧期間中も浸水を免れた原材料、完成品等の保管のためにその機能を果していたといえるから、休業期間中の倉庫の賃料相当分を休業損害として認めることは妥当ではない。そして、《証拠省略》によると、工場ないし事務所等と倉庫の賃料は一括して支払われていることが認められ、支払賃料額のうち倉庫賃料分がどれだけの割合を占めているかは必ずしも明確ではないが、弁論の全趣旨によって四割を上回ることはないと認められるから、右七日間の賃料相当額からさらに四割を控除した残額をもって本件水害による休業損害とするのが相当である。

したがって、人件費については前記年間支払給与等合計額六七四二万八九一〇円を三〇〇で除した後七を乗じた一五七万三三四一円、賃料については前記年間支払賃料一八〇〇万円を三六五で除した後七を乗じ、さらに四割を減じた二〇万七一二三円、以上の合計一七八万〇四六四円が本件水害による原告大弥食品の休業損害となることが計算上明らかである。

(五) よって、(一)ないし(四)の損害額合計は一二六一万七〇四五円となる。

22  弁護士費用

原告三が本件訴訟の提起追行を原告ら訴訟代理人に委任したことは当裁判所に顕著な事実であり、本件事案の内容、難易度、審理経過、認容額等諸般の事情を考慮すると、原告三が本件水害と相当因果関係のある損害として賠償を求めうる弁護士費用は、それぞれ別紙請求認容額一覧表欄記載のとおりとするのが相当である。

第七結語

以上のとおりであって、原告らの請求は、被告大阪市に対し、損害賠償として、原告一については三五万円、原告二については一二万円、原告三については別紙請求認容額一覧表欄記載の各金員及び右各金員に対する本件水害発生の日である昭和五七年八月三日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからいずれもこれを認容し、原告らの被告大阪市に対するその余の請求及び原告らの被告国、同大阪府に対する請求は、いずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文、九三条一項本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 富田守勝 裁判官 西井和徒 裁判長裁判官岨野悌介は転官につき署名押印することができない。裁判官 富田守勝)

〈以下省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例